教育の理想を求めて

基本は形にある。


人は形を見ている。
基本は形にある。基本は形として現れる。

決まった答えはないけれど、形がある事は沢山ある。
例えば、仕事の段取りや論理である。
仕事の段取りや論理には決まった答えがあるわけではないが形はある。
先ずその形を身につけないと段取りを付けたり結論を導き出す事、結論を検証する事はできない。

美は形にある。

人は、自分の意思の伝達を言葉だけでするわけではない。
言葉は、意思伝達の一手段に過ぎない。
ただ言葉には威力がある。故に言葉に囚われると真意は伝わらなくなる。

我々は、基本を重視するように躾けられてきた。
それは、礼儀作法の根本でもある。
応用ばかりに気をとられて基本を疎かにしたら、技術は身につかないと口酸っぱく教えられた物である。

ところが社会を混乱させ、日本の伝統を破壊しようとする勢力は、常識に囚われないようにと言う事を口実にして基本や常識を蔑ろにするようにそそのかす。
それが学校教育の根幹にも浸透しつつある。怖い事である。

最近は、安易に常識だの形式だのを軽視する風潮がある。又、マスメディアもそれを増長、煽る傾向があるが、一度無秩序になった集団に秩序を持たせるのは容易ではない。
彼等は、彼等の別の目的がある。

マスコミの挑発に乗って事件を起こしてもマスコミが責任を持ってくれるわけではない。かえって彼等の批判を浴びるだけである。彼等は一種のマッチポンプである。人々を煽る事で「金」を儲け、挑発に乗った者が犯した事件によって「お金」を儲けているのである。軽々しく挑発に乗るのは愚か者のすることである。

人は、多くの情報を形によって得ている。
故に、象徴的な事柄は重要なのである。
人を物事の道理を理屈だけで理解しているわけではない。

形の働きには、位置や順番が重要な働きをしている。

上座に位置すれば、集団を先頭で仕切る事ができるし、下座から見ると集団の裏の動きが見える。中心に位置すれば、内部の情報を集める事ができる。手段の外に位置すれば、全体の動きが見えてくる。
個々の目的に応じて指導者は、自分の位置を主導権を持って決める必要がある。
それが指導者の立場を固めるからである。
参加者の自主性を導き出す事を目的としたら、敢えて自分が下座に位置したり、外から生徒を指導する事も有効である。
ただその場合は、自分の立ち位置が集団にどの様な影響を与えるかをよく熟知していなければ集団が暴走した時制御する事ができなくなる。
かといって上から押さえつけるだけでは、人々は言う事を聞かない。
また、自分の立ち位置を曖昧にすると生徒達の攻撃を真っ向から受ける事になる。なぜならば、指導者の立場が曖昧だと組織を構成する者達は自分の位置が定まらないからである。

いずれにしても形の働きを理解しておく必要がある。

集団的な意志決定の典型は会議である。会議のあり方を左右することの一つに会議場のレイアウトがある。ある意味で、会議のレイアウトは、会議の基底を支配していると言える。
会議が上手くまとまらないのは、会議のレイアウトに原因する場合が多い。会議のレイアウトは、会議の目的に応じて変える必要がある。

宴会のように公式的なことに縛られない集まりは、かえって集団の人間関係が露わになる。
どんな会合でも座る席などを自由にしていれば、自然と人と人との位置関係、力関係が露骨になる。
どの位置を占めるかは、その人が集団における位置や力を如実に示すからである。

中心というよう言葉示す様に中心に位置する場所を抑える事が先ず衆をまとめようとした場合鍵となる。
人間も動物の一種なのである。象徴的な行動は、潜在意識に働きかけてその人間の集団における立ち位置を顕している。逆に指導者は意識して自分の立場を組織に示す必要がある。
故に、形が重要になるのである。

形は、位置や順番などとして現れる。順番は、時間に関わる位置と言える。

旗のような象徴は重要である。
旗頭という言葉があるくらいである。旗本という言葉もある。つまり、大将、中心的指導者がどこにいるかは、組織を統制する意味にとって重要な意味がある。

又、最初と最後のにする行為にも象徴的な意味がある。
故に、指導をする時には、誰が話の口火を切るのか。落としどころは誰にするのかが重要な要点を握っていると言える。

以前は、席次をどうするのか五月蠅かったが今は何でもかんでも無礼講である。
その為に、多くの宴会や寄り合いが統制を失い、収拾がつかない状態にしている。しかし、主催者の多くは、その原因がつかめないでいる。

基本が崩れたら真っ先に潰されるのは指導者である。指導者が倒された集団は統制を失い烏合の衆となる。

革命勢力、教育によって革命的状況、騒乱状態を引き起こそうとする勢力は、常識とか形式を認めようとしない。
しかし、そういう勢力に限って形式とかの常識の働きの重要性をよく理解している。理解しているからこそ形式や常識を否定するのである。
なぜならば、彼等の目的は、革命的状態、即ち、秩序を失い統制が効かなくなった状態を作り出そうとしているからである。その意味では、学級は、彼等の目的を達成した状態なのかもしれない。常軌を失い混乱した状態こそ彼等の望む状態なのである。

だから、心ある指導者は、基本に忠実にあろうとしたのである。。
ところが、戦後の日本では、基本に厳格な指導者達は形式主義とか、封建的だとか言って学校内部で阻害され、排斥されてきたのである。それが世の中を荒廃させた一因である。

基本の本質は、誰が見えも解る事である。誰がやってもできる事である。
逆に言うと誰にでも解る、誰にでもできることが基本なのである。
誰にも解らない、誰にもできない基本と言う事はない。
ところが、多くの人は、やたらと基本を難しくし、特定の人でしか解らない、或いはできないことを基本としている。
誰にでも解る、誰にでもできる基本というのは、単調で退屈な事である事が多い。基本は単純明快なことでなければならないのである。

これが基本はつまらない。基本はくだらない。基本はバカバカしい。基本は当たり前なことしかない。
しかし、ばかばかしいくらい単純明快だからこそ基本たり得るのである。
単純で、バカバカしくてくだらないなんて思っている内は、本当の技術を身につけることはできないのである。

仕事の大部分は、予め予想し予定できることで占められている。
不確かな事は、僅かなのである。ただごく僅かな不確かな事が全体に及ぼす影響が大きい。
不確かな部分、変動する部分、確かで固定的な部分の上に現れる。確かな固定的な部分を因として起こる現象である。
だから、日常的で当たり前な仕事、単純、反復、繰り返しな仕事が基礎となるのである。



教育とは単純反復、繰り返しである
形式主義
形に学ぶ。形を学ぶ。形で学ぶ。
形を重んじる。
形について
物事には、順序
事前の準備

執務要領
報告・連絡・相談
手順・段取り
形を重んじる
仕事を学ぶ
チームワーク・集団活動を学ぶ
段取りをとる
仕事の論理
井戸端会議と会議は違う
仕事には始まりと終わりがある。
基本
仕事の基本
報告書の書き方
企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。
事前の準備

形に学ぶ。形を学ぶ。形で学ぶ。
形について
形式主義

民主主義という仕組み

美学

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