教育とは、単純・反復・繰り返しである


 教育や学習の基本は、単純、反復、繰り返しだ。

 学習、勉強の基本は、反復、模倣である。そのほとんどが単純なことである。単純なことは単純に教えるのが一番良い。しかし、学校では、単純なことを複雑に教える。しかも、複雑に教える動機は、学校の都合、大人の都合である。

 現行の学校は、毎年違うことを教え続ける。だから、結果的に、何も身に付かない。一つのことをマスターするためには、一つの事を習得するまで繰り返す必要がある。習得する前に、新しいことを始めると、それまで身につけたものも忘れてしまう危険性がある。
 現行の学校では、同じ事を一度しか教えない。一度で覚えなければならない。そして、一度、試験をしておしまい。

 何かを習得するためには、理解するまで繰り返すのが当たり前である。その証拠に、修行は、一つの段階を理解していないければ進級させることはしない。しっかりと理解していることを確認したうえで進級させる。
習得していないのに進級させたら、修行にならない事は、歴然としているからである。一つの段階を極めたら次の段階に入る。その方が理に適っている。
 自動車の教習所ですらハッキリしている。一つの教程を合格しなければ、許してはくれない。
 ところが、学校だけは、違う。マスターしているかどうかは、問題ではない。問題なのは、試験の成績と出席率である。
マスターするまで繰り返しやり直すのが、勉強の基本のはずだが、学校では、たとえマスターしなくても試験さえ合格すれば進級してしまう。つまり、マスターすることが目的なのではなく、カリキュラムをこなすことが目的となっている。しかも、試験教科でない課目は、どうでも良いのである。

 マスターすることに目的がないのであるから、進級するための条件を満たすこと、すなわち、既定の出席率を満たす事と試験合格する事だけが、重要になる。
 こうなると、出席する事に意義がある事になる。だから、皆勤賞などという意味のない、賞が幅をきかせるようになる。大学では、出席率を高めるために、代返などという事が起こる。これでは、何のために学校へ行っているのか解らなくなる。納得がいこうが、いくまいが、進級してしまうのだから、勉強に興味がなくなるのは、当然である。

 毎日、違う事を教えるから、集中できずに、退屈して飽きる。事業中に居眠りもしたくなる。
 毎日に同じ事を教えたら退屈するというのは、余計なお世話である。剣道でも、野球でも、上達したければ同じ練習を繰り返す。
 単純反復繰り返しなんてくだらないなんて集中力のない人間、何も解っていない人間が、考えることである。
 最低の指導者が考えることである。世の中では、毎日違うことをやらせるような馬鹿なことはしない。人が育たないことを知っているからだ。
 同じ事を繰り返しても、同じようにはできない。毎日、同じ事を繰り返すといっても、全く変わらない、寸分違わず同じようにはできない。その微妙な違いが解るから上達するのである。
 同じ事を繰り返しても、同じ事ができないことに気がつくから、真剣に仕事をするようになる。一期一会とは、そう言うところから発想する。

 毎年違うことを三十年間習った者と同じことを三十年間続けた者とではその差は歴然とする。毎年違うことを習った者は、常に初心者の域を出ることはない。年齢とともに若い者にかなわなくなる。しかし、三十年同じことを続けた者は、三十年という時間の蓄積がある。この三十年という時間の蓄積は、若い者には越えられないのである。

 単純な繰り返しや反復を軽視する傾向があるが、違うことを十やるより、同じ事を十回繰り返した方が効果は上がる。問題を複雑にするより、単純にする方が効果的である。特に、学校は、単純、繰り返し、反復を否定する傾向がつよい。そうすれば同じことを教え続けている先生を生徒は、簡単には越えられないのである。

 同じ事を繰り返すことは簡単だと思いこんでいるふしがある。だから毎日違ったことを教えようとする。毎日、毎回、違ったことを教えることが、成長や進歩だと思いこんでいる。
 同じ事を同じように繰り返すことは難しい。毎日、毎回、違ってい事を教えられると同じ事を繰り返すことができなくなる。また、同じ事を同じように繰り返すことは間違ったこと、悪いことだと思いこまされる。単純作業は非人間的だと排斥し、それに従事する人間を能力の劣って者として蔑視する傾向がある。しかし、現実の社会は同じ事を同じように繰り返すことが多く。また、同じ事を同じように繰り返すことによって仕事の腕は、上達していく。そして、単純作業は誰にでもできるというわけではない。
これもスポーツを思い出せばわかる。

 学校教育は、この繰り返しを頭から否定する。つまり、浅く広く勉強させることを教育だと思っている。スポーツで言えば、満遍なく、全てのスポーツを経験させる事を任務だと思っている。要するに、何のために、体育をするのか解っていないのである。いろんな事を経験させればいいと思っている。いろいろな事を経験させる事にどれくらいの意味があるのか、正当な理由はない。ただ、そのように決められているからである。健康のために、いい分けでもない。運動能力を向上させるためでもない。集団生活を身につけられるわけでもない。何のためにというのは、学校教育では禁句なのである。

 十年同じ事を繰り返せば、熟練者、ベテランになれるが、毎年違うことをやれば、いつまでたっても初心者にすぎない。

 毎日、違う事をやっていたら、比較しようがない。
 遊びやスポーツを見れば解る。遊びやスポーツは、毎日の繰り返しが大切である。毎日毎日、飽きずに、同じ事を繰り返す。そうする事によって、いつの間にか上達する。

 いっそ体育の時間をなくしてしまい。その分、部活動に使った方がどれだけいいか。部活動は、上級生と下級生が一緒に活動するから、上下の関係も覚えられる。

 生きていくために必要な事柄のほとんどは、単純で簡単なことだ。しかも、その基本を習得するのにそれほど時間を必要としない。野球を見ればわかる。一ヶ月もやれば基本は、身につけられる。後は、それを繰り返すだけだ。しかし、この繰り返しが大切なので年月とともに上達する。
 学校は、その簡単で単純なことを複雑で難しいことに変えてしかも長時間かけて教えようとする。そして、繰り返しは許さない。学年毎に違うことを教える。だから、基本を習得できない上に上達もしない。
 なぜか、先生に仕事を与えるためである。雇用対策なのである。また、生徒が基本を習得せず、上達しないから、彼等を管理することが容易くなる。誰でも教師ぐらいにはなれる。しかし、学校の都合である。

 小学校六年間、中学三年間、高校まで行けば更に、三年間、毎年、毎日、違うことを教え続ける。それも中途半端にである。では、同じ十二年間、同じ事を繰り返し教え続けたらどうなるか、間違いなくその道のプロになる。どんなに不器用な人間でも、頭の悪い人間でもある程度のレベルには、達するであろう。
 教育の目的からするとどちらのやり方が正しいのか。

 学校生活で、勉強が身に付かないとしたら、何が、身に付くのか。それは、学校生活に伴う習慣である。一定の時間に起きて、学校へ、同じ道を通っていき、予め決められた事を、決められて時間内に決められたようにこなす。つまり、ただ、ひたすら定型的な生活を送り続けるのである。そして、試験では、決められた問題を決められたように解き。決められた答えを導き出す。
 自主性とか、主体性とは、無縁の世界である。人間をロボット化する事である。要は、教える内容より、生活習慣の方が恐ろしい。教育の現場で、いかに、自主性が、主体性が、個性が、独創性がというのが虚しいか。言っている張本人が、主体性を圧殺しているのであるから。
 この単純、反復繰り返しによって、教える側が、教えようと意図した事は、身に付かないが、逆に、意図せずに繰り返させた事が、身に付いてしまう。しかも、この習慣は、必ずしも良い習慣とは言えない。つまり、決められた事を、決められたようにしかできない習慣を付ける。それは、人間を奴隷状態にする、奴隷化教育である。
 となると、学校生活とは、何か。まあ、親からしてみると、規則正しい生活を送ってくれるかも知れないが、それ以上のものは何もない。自分では何も決められない人間を、意図せずに、(実際は、何ものかの意図が働いているのかも知れないが?)育てているに過ぎない。
 しかも、教える側の表面に現れている、意図と正反対の結果を導き出すために、教育を受けた者は、観念価値観と行動規範が分離と言うより、分裂してしまう。この状態が、極度に進むと精神に異常をきたしてしまう。言うなれば、精神異常者を大量に生み出す結果になる。精神の異常も大量になれば、正常になってしまう。つまり、社会全体が異常者になるのである。

 結局、学校で身につけるのは、悪い習慣である。これは、教育の目的からすると逆効果である。

 多くのことを、やたらに詰め込むのではなく、一つのことを繰り返し教えることの方が効果が上がる。それは、明らかである。難しいことを教える必要はない。

 教育の本来の目的は、良い習慣を身に付けさせる事にある。なぜならば、現実の生活は、毎日の積み重ねの上に成り立っているからである。その場限りの試験のようなものとは違う。いい結果を出そうとしたら、日々の研鑽がものをいうのである。だから、良い習慣を身につけることが目的なのである。成績は、結果である。良い習慣を身につけた結果、成績が向上するのである。良い習慣を身につけるためには、単純、反復、繰り返しが、教育の基本なのである。




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