教育の理想を求めて

報告書の書き方



報告は自分のためにする。
この事を忘れてはならない。
報告とは何の目的でするか。
自分のやった事の結果、今自分たちが置かれている状況、自分の考えを上司や関係者に伝える。自分が得た情報を関係者に伝え、共有する。状況や考えを整理し、体制を整える。いろいろあるけれど、根本にあるのは、自分のためなのである。

報告は、自分以外の人のためにするというように思っている者は、いつまでたっても、正しい報告はできない。

自分の考えや目的がなくては何を報告したらいいのかもわからない。
報告は言われてやるものではなく。自分がすすんでやる事なのである。
「報告をしろ。」と言われて報告をしても、「報告をしろ。」と言われたから報告していても報告本来の役割、働きは発揮されない。
なぜ、報告をする必要があるのか、その動機は、基本的に自分の側にあるからである。

その点を肝に銘じなければならない。組織は一人で成り立っているわけではない。
報告によって指示者の意図を理解し、深化し、報告によっ指示者の真意を確認する。
報告によって指示者に自分の考えや認識を確認し、理解する。報告によって自分の間違いや誤解を訂正する。報告によって自分の置かれている状況を指示者や関係者に伝達する。

報告書を書くことで自分の考えをまとめ、自分が何をしなければならないのか、何を報告すべきなのか、上司の真意は何か、自分の行動、やっている事は全体の方針と適合しているのか、自分のやっている事に間違いはないのか等、これらの事を正しく理解する事が報告の本意である。

まず報告書を書こうとした場合、事前に何を考え、確認し、予測できるかが重要となる。
報告は、事前に出された指示命令に沿って行う事だからである。

報告すべきことは、指示・命令に基づいて検証されるべき事だからである。

セミナーとか、会議・打ち合わせの報告書というのは、事前に八割方書く事ができる。
まず第一に、セミナー、会議、打ち合わせの日時、場所、出席者、主催者、事務方、テーマ、資料等は、事前に決まっている。

それから、セミナーや会議・打ち合わせが終わったら、どこに報告しなければならないのか。何をしなければならないのか。
報告先は、報告書を書く目的を規定し、定義する。
つまり、報告先を明確にすれば自ずと目的が明らかになり、セミナーや会議/打ち合わせで何をすべきかが明らかになる。

何をやっておくべきか、何を準備し、用意しておくかを検討する事ができる。
報告書の項目が作業リストにもなる。

報告書を書くという行為がすなわち、仕事を作る。
仕事を作るというのは、仕事の構想を持つ事である。
どの様な報告をするかを考える過程で仕事の構想を練るのである。
ただ場当たり的な考え方では、仕事の全体像を掴む事は難しい。
個々の部分の囚われてしまうからである。
報告書とは、仕事の中継点、終着点、ゴールを示す。

また、その様な報告書でなければ報告書を書く意味がない。

報告書は報告書である。
報告書は単なる反省文ではないし、反省文にしてはならないのである。

現代、仕事というのは抽象的で目に見えない。
目に見えないものを絵に描く事も組み合わせる事も難しい。
頭の中で捏ねくり回すだけで終わる可能性が高い。
だから、いったん作業に落とす。
目に見える作業に置き換えた上でそれを組み上げる事で計画を立てるのである。
それが見える化である。

見張り役は、見張りをする事だけが仕事ではない。
危険を察知し速やかに指揮者に伝達する事が仕事である。
船の見張り番を任された時、前方に氷山のような障害物を発見しても前進すると方針が決まっているからと言って報告する事を怠ったり、どう報告をしたらいいかが解らなかったりしたら、何の役にも立たない。
後で前方に障害物があった事に気がつかなかったかと叱責された時、知ってましたという反論は最悪である。
ところが往々に現代の職場では起こる。それは自分の役割を理解していないからである。

組織は、組織を構成する者全員が何らかの役割を担っている。この点を正しく自覚していないと組織は機能しなくなり危機的な状態になる。

今の学校教育では集団活動を教えてはならない事になっている。なぜならば、強制は悪いと思い込んでいるからである。強制のない組織や社会はない。法もまた強制力を持っている。

強制する事は全て悪いと頭から否定されたら、組織や社会は機能しなくなる。
強制が悪いというのは、その人その人の意志や価値観に反した事を強要された場合である。しかし、その場合でも、公共の利益が優先される場合は、強制力を発揮されても仕方がない場合があり、一概に強制は悪いと決めつけられれば、集団活動というのは成り立たない。
大体、強制力のない法はないのである。法による強制力を否定する事は、無法な強制力を容認せざるを得なくなる。
又、強制力のない教育は教育として成り立たない。教育は強制を前提としているのである。

仕事は形で覚える。
仕事は体で覚える。
一つひとつの作業の判断はその時点その時点では考えないですむように事前に決めておく。その場で考えたら決断できなくなる。考えないですむようにする。

会合やイベントの直前、直後の打ち合わせは、予め設定しておく。
会合や打ち合わせは、次回のいつやるか、それまでにやっておく事、準備しておく物や資料は必ず決めて一覧を作成し、一覧に基づいて同席した者に確認をとり、即日、翌日までに関係者に報告する癖をつける。翌日が休みの場合は、休み明けに必ず報告する。その上で、次回までの段取り、予定、計画を速やかに立て、報告する。そして、次の会合打ち合わせには、最初に設定した事項の一覧に基づいて確認をする。これらの動作は一連の習慣として体に覚えさせる。




昨日の報告のどこが悪いのか。
まず報告する目的がわかっていない。第一に、これから次の報告までに自分は何をしようとするのかの構想を上層部に伝えて了解を得る。第二に、その構想の了解を得たら、それを部下に指示して仕事に着手させる。それが目的。昨日のプレゼには起承転結の構成も五W一Hも何もない。だから何をいたくて何をしたいかがまったく伝わらない。
昨日の状態がそれを物語っている。やればやるほど皆は訳がわからなくなり、争いが始まり、あげくにいつまでたっても結論がでない。そういう状態にしたのは最初のセッティングを間違ったからだ。

起承転結が組み立てずに、詳細な説明に入られたら聞く側は、わけがわからなくなり、混乱する。
後付けでやってあるとか、やっていますよなんて言うのは、言い訳なのである。やってあるならば、なぜ、始めに言っておかなかったのか。それは後出しジャンケンの様な行為で卑劣である。

要するに筋が通っていないの。
報告は、筋を通すためにやるものなんだよ。上下関係者の意志を統一し、正式に決める事で結論をロックする事。それが報告の目的。
支離滅裂なんだよ。支離滅裂だからそのまま続けたら、チームがバラバラになってしまう。

報告したものをそのまま部下に見せて指示できるかどうか。それが問題。

前段と後段の結びつきが悪いという事は、人の話をよく聞いていない証拠。
半端な理解でわかったつまりになって先延ばしするから、いざ始めようとした時にどこから着手していいかわからなくなる。
最初が肝心というだろ。なんでも最初の設定で決まる。

納得がいくまで最初に話を聞く。
わからない事をわからないままにしたまま始めるから空中分解してしまうの。

指示・命令・報告は、組織上必要なのであって一般生活において強要できるものではない。報告は、相手が理解できるかどうか、しているかどうかが問題なので、理解できない責任を相手に負わせる事はできない。 例え、相手が子供であっても理解できるように報告するのが鉄則である。

組織においては、報告されていない事はやっていない。
報告をすることで頭を整理し、次にやる事、やっておく事を明らかにする。



執務要領
報告・連絡・相談
手順・段取り
形を重んじる
仕事を学ぶ
チームワーク・集団活動を学ぶ
段取りをとる
仕事の論理
井戸端会議と会議は違う
仕事には始まりと終わりがある。
基本
仕事の基本
報告書の書き方
企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。

号令とは
システム化に際して



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