教育の理想を求めて


手順・段取り




 組織の運用は、自動車の運手と同じで一連の基本操作、手順、動作をイメージとして身体に記憶させておく必要がある。

 組織的な仕事には形がある。例えば、会議の形、意思決定の形、指示・命令の形、報告の形なのである。
 そして、組織は、仕事の形によって制御される。故に、いかに価値を作るかが組織を制御するための鍵となる。
 ところが、反体制派は、この組織の形を封建的、形式的とかいって徹底的に破壊した。その結果が、組織的行動の、ひいては、社会の乱れを生んでいるのである。
 組織にとって形式は重要な意味を持つ。
 基本的に人間観念的な働きは無形である。物事を決めたといっても個人の範囲内に留まれば、決定したことも、決定した内容も個人的なものにすぎない。それではいくら組織のトップが決めたとしても組織は動かないのである。
 指導者の意思決定を形として表さないと組織は、それを認知しない。組織に、指導者が決断した事、決定した内容を認知させ、伝達する手段が公式の手続である。
 そこに、手続の働きと重要性がある。手続が定型化し、制度化されると事務が成立する。つまり、事務は組織管理を具現化したものである。
 故に、組織は、形式がなければ統制は出来ない。
 事務とは、定型的な仕事を制度化した体系なのである。そして。仕事の定型化とは、手順段取りに一つの形を持たせることなのである。

 麻雀や将棋、囲碁というのは、段取り、手順を競うゲームだとも言える。

 実務家は、結果ではなく。作業、仕事を読まなければならない。
 さもないと、話がとりとめなくなり、際限がなくなる。締まらなくなるのである。つまり、具体的な結論が出なくなるのである。
 ただ、言いたいことを言って散会する。茶飲み話、一種の雑談会になってしまう。
 結論を早めに出したら、その為の支度や準備、手順・段取りについて打ち合わせをすべきなのである。
 例えば、やるのか、やらないのか、行くのか行かないのか、誰が担当者なのか、責任者なのか、その結論を出した上で、やるのならば、いつ、どこに行くのか。企画を誰が立て、準備を誰にするのかを決めていく。また、それが決まらなければ、いつまでに、誰がどの様に結論を出すのか、一任してもらうのか、決を採るのかを決める。
 その基本は、なぜ、いつまでに、誰が、誰に、どこで、何をするのかの、つまり、5W1Hについて検討すべきなのである。
 そう言った手順が決められないから、皆、苛々して諍いを起こすのである。

 どこに行くか、何をするのかと言ったその時々の結論は、その時々に出せばいい。それ以前は、その結論を出すためにどの様な準備、資料が必要かが問題なのである。
 例えば、仲間と旅行に行くと決め、行き先を三日後に決めると決めたら、その後は、三日後までにどの様な資料を集めたり、作るのか、又、誰がそれをするのかに議論を集中すべきなのであり、個々の人間がどこへ行きたい、あそこへ行きたいというのは、その人の希望として参考意見として処理すべきなのである。
 物事を決めるのには、幾つかの段階・手順があることを念頭に置いておかなければならない。

 物事の処理は薄皮を剥ぐように前進するのである。

 組織とは、情報系なのである。流すべき情報を、流すべき時に、流すべき相手、範囲に流す。それが肝心なのである。その体系、仕組みが出来ていないと流してはならない情報を流してはならない時に、流してはならない相手、範囲に垂れ流してしまう結果を招く。それは組織の崩壊を意味するのである。
 その為に必要とされるのが儀式や手続なのである。その儀式や手続を、封建的、形式的と軽視しあるいは否定してしまった。それが、現在社会の病巣になりつつあるのである。しかも、この病は、静かに確実に進行する。気がついた時には、末期的な症状になっているのである。

 打ち合わせは、手順、段取りから入る。これも一つの形、定石である。
 打ち合わせにも形がある。
 この形を打ち合わせに参加する者全員が、この形をある程度の見込んでいないと仕事は円滑に進まない。
 例えば、担当者に言わせて責任者に納めさせると言った事である。
 今の人間は、その辺の阿吽の呼吸がなかなか理解できない。又、実行できない。
 手順や段取り自体には意味はない。一つの形である。
 手順や段取りを些細でつまらない事として捉えられてしまうから実際の仕事や組織が動かなくなってしまう。
 しかし、長い間、それを意味のないつまらない事だと刷り込まれてきた。その結果、組織が円滑に動かなくなり、人間関係がおかしくなってきたのである。ところが当事者の多くは、その原因に気がついていない。他人の責任に置き換えているのである。だから雑談を会議だと錯覚し、結論のでない討論会を際限なく続けることになるのである。
 作法とか、仕来りの裏に隠された意味もわからぬままに封建的だと否定してしまったツケがいよいよ廻ってきたのだ。
 そして、最後に結論を確認し、仕事に落とす。これも形である。しかし、この形が失われたから、会議が実効力を持たない、と言うより持てないのである。規律も統制もあったものではない。ただ思い思いに勝手に仕事をしているだけの集団になってしまうのである。こうなったら、もう組織としての体をなしていない。単なる烏合の衆である。
 統制や規律という言葉も今は禁句になってしまった。何でもかんでも自分の意地を強要することを統制という訳ではない。統制は強制とは違う。統制とは、部下に権限を与えて任せるのも統制の一つ。その意味も解らない。
 統制、規律などと言うと封建的とか全体主義とか、独裁的、軍国主義的と決め付けてかかる人がいる。統制を強化するというと強権的だとなじる。しかし、統制を強化するとは、組織の自律性を高めることを意味し、規律は、個々人の倫理観を強化することを意味している。必ずしも、強権的なことを意味しているわけではない。むしろ、規律を重視することは個々人の意志を尊重することでもある。
 統制とは、指示・命令をしっかり出し、必ず報告をさせると言う事である。組織は、指示命令によって始まり、報告によって終わるという事も解っていない人が多い。
 又、確認が大切だという点もわかっていない。

 筋を通す。手続を護る。それが、ルールでもある。

 物事には順序がある。日本人は、物事の順序や筋道を大切にした。その物事の順序や筋道を戦後世代は、滅茶苦茶にしてしまった。
 だから仕事が上手く廻らなくなったのである。
 例えば、仕事には、手配、指図、采配、仕切る、監督し、納めるといった要素がある。それを順序よく並べることが手順である。そして、その枠組みを造るのが段取りである。

 その時、その時で打ち合わせる内容は違ってくる。何でもかんでも打ち合わせればいいというのではない。時と場所と場合を選ばなければ打ち合わせた内容には意味がなくなる。

 指示、命令も必要な要件を満たさなければ、実行できない。

 密室において一人で決めても決めた事は誰にも伝わらない。また、誰も見ていないところで権限を移譲してところで他の人間は誰も認めない。
 だから、決定や指示、権限の移譲は、組織の人間や社会に認知させなければならない。
 それが手続であり、儀式なのである。
 手続や儀式を単なる形式だと思い込んでいたら、組織や社会は動かなくなるのである。
 戦後世代は、儀式や祭礼を形式主義だとか、封建主義として否定し続けてきた。その結果、組織も社会も硬直化したのである。そのことに対して、儀式や祭礼を破壊した者達は、責任をとっていない。

 上司の者は、部下の意見を聞いて決める。それが形である。なぜならば、上司には、拒否権があるが、部下には、拒否権がないからである。

 仕事は、形で覚えるものである。それが作法である。
 形式を軽んじていたら、組織を運用することは出来ない。

 最初に決め方を決める。これがルールである。意外と決め方を決めるという事が解っていない。しかし、決め方を結果が出た後で決めたり、途中で決めても明らかにルール違反である。例えばもギャンブルで掛け金を結果が出てから決めるようなことである。

 また、作業にかかる前に、先ず、何を自分がすべきかを明らかにしておく必要がある。
 なにをしたらいいのか解らないのに、指示も出されていないのにテンデンパラバラに仕事にかかれば、仕事に取りかかった瞬間からから組織は分解してしまう。

 こういった基本を習得していないとマネージメントは出来ない。

 マネージメント上の方針に対する打ち合わせとは何かというといつ、どこで、誰と、どの様に方針について打ち合わせるかであって、方針そのものに対する議論ではない。
 けじめなく方針について議論したら、際限がなくなる。それをどう取り仕切るかが、マネージャーの才覚なのである。
 旅行先については、三日後に決めようと言う傍から俺は伊豆が良いの、箱根が良いの、京都に行こうと言っても始まらない。行き先については、三日後に話せばいいので、今日決められるのならば、苦労はしない。
 それよりも大切なのは、三日後の打ち合わせをどうするのか。それまで何をするのかが、主要なテーマだと言う事を忘れてはならない。

 人は、自分より優秀だからと言う理由でついてくるわけではない。その人が何等かの魅力があるから従うのである。

 今の日本人は、手順も、段取りも、ヘッタクリもない。
 その好例が結婚式である。
 かつては、先ず相手の了解を得て、それから親の承諾を得て、結婚式を挙げ、それから入籍をして、子供を造った。今は、子供が先である。子供を先に造って、それから、相手の承諾を得て、入籍をし、結婚をした後で、親の承諾を得る。物事はあべこべである。
 結婚式も、家と家との為の式ではなく。新郎新婦の為の式である。人前結婚式であり、新郎新婦だけが中心で、親族も親も関係ない。ただ出席しているだけの関係である。最近は、友人や上司、恩師も蚊帳の外におかれるようになった。そこには、人間と人間との関係は消え失せている。

 段取りも筋も手順もあったものではない。
 だから、厭になれば早々に離婚する。理由もいったって安易、ただ、合わなくなったからに過ぎない。

 子育てだって子を産む覚悟ないから、無責任になりがちなのである。

 絆という言葉がはやっているけれど、言葉ばかりで内容がない。
 土台、泡のような関係しか生まれやしない。




教育とは、単純・反復・繰り返しである
定石・段取り
構想を練る。

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