美     学


美    学


 美しくありたいと思う。

 私は、日本人である。梅原猛は、日本人の価値観の基本は美意識にあると言った。(「美と宗教の発見」梅原猛著 ちくま学芸文庫 筑摩書房)
 最近の日本人からこの美意識が薄れているように思える。
 最近の日本は美しくない。綺麗でない。
 綺麗な生き方をしようとしている人間が少なくなった。
 特に、日本の政治家の生き様から美しさがなくなりつつある。
 美しさは、潔さにも繋がる。
 花は桜木、人は武士といった美意識がなくなってきたのである。
 その結果、美学が廃れつつあるのである。

 日本の街から美しい街並みが消えつつある。あるのは、無機質のビル群である。ここのビルを見るとそれなりの設計がされているのであろうけれど、街全体の持つ美しさは失われつつある。
 甍が連なるかつての京の街のような美しさは、どんどんと廃れている。結局博物館のように保存されなければ街並み一つ保護されなくなりつつある。
 美しい生き方なんて天然記念物なみになりつつあるのである。
 街を歩くとかつては、品のいいお年寄りによく出逢ったものである。今は、歳をとってもギラギラとした強欲が表に出て老醜を無自覚に曝す老人ばかりが目立つ。歳をとっているというのに、厚化粧をして華美に自分を飾り立てている。年齢の厚みが品良く表に現れてこないのである。
 表に現れる姿形は、その人の人生をえげつないほどに表出してしまう。
 美しく歳をとるというのは難しい。

 生きると言う事は苦である。それがブッタの教えである。苦という言葉に多くの人は厭なの印象しかない。苦しいことは厭な事だから、なるべくならば、苦しい事は避けて通りたい。
 しかし、生きると言うことは苦しいことだから苦を避けてはいけられないと、そう覚悟した時、人は、はじめて自分の人生と向き合い、正しい生き方をしようと覚悟を決める。そこに苦の効用がある。

 戦争に敗れて日本人は、塗炭の苦しみを味わった。多くの日本人は、その苦しみに負けて日本人の持つ伝統的美意識を真っ向から否定しまった。そこから生じたのは、歪んだ美学である。
 
 醜悪な物を美しいと言いくるめるねじ曲がった根性から生じた美学である。
 又、写実主義を曲解し、現実は醜いものであり、醜さをそのまま描くことが芸術の使命だと主張する者も現れた。そして、歪んだ美意識が戦後の日本の知識人を席巻していくのである。

 悪を善と言いくるめることはできない。
 少なくとも自分に対してはできない。
 悪は悪である。
 苦は苦である。

 現実は、汚いことばかりではない。むしろ美しい事が多い。なぜならば、美意識というのは、こちらの側の問題だからである。自分の「こころ」の問題だからである。美しいと感じるのは、自分の「こころ」の問題である。何を見て美しいと感じるのか。それが大切なのである。

 歪んだ醜い物を美しいと感じるのは、自分の「こころ」なのである。自分の「こころ」が歪んで、醜いから歪んだ醜いものを見て美しいと感じるのである。対象に美醜の基準があるわけではない。

 叛逆の美学など歪んだ美学である。
 悪をなすことを善とする。その様な転倒した価値観はない。それは、自己の悪意を正当化する事に他ならないからである。悪は悪である。
 悪をなさざるをえないのは、苦である。苦を苦として感じるからこそ、人は自らを正し律することができるのである。悪を善としたときから人間は堕落する。己を糾す機会を失うのである。それは醜い。

 人は時として過ちを犯す。その過ちを苦として受け止めるからこそ悔い改めることができる。それを喜びに置き換えたら、人間は際限なく落ちていくことになる。
 罪は、最初は些細な出来心にある。その出来心を苦と受け止めるからこそ人は、自らの穢れを洗い清めることができるのである。

 自分の幸せは、自分で護れるようにしなければならない。自分の幸せを他人の手に委ねれば、委ねた先に支配され、隷属を強いられることになる。

 いざという時、誰が助けてくれるかが鍵となる。遠い親戚より近くの他人という格言が示すように、いざという時に、力になってくれる人は、必ずしも親族ではない。

 だからこそ、公と私の区別が大切なのである。
 公のために私を犠牲にするという発想がある。滅私奉公という考え方であるが、公は、私を活かす存在であり、私は公の根本である。それを忘れたら、公と私の意味が失われる。人は、一人では生きられない。公は、人々の上に成り立つ。この関係こそが公私の根本になければならない。公私の混同は、偏りから生じるのである。そこに中庸の意義がある。

 公徳心を失い。私利私欲に溺れる。あさましい限りである。それを美とは言わない。
 世の為、人の為に尽くすからこそ美がある。

 清潔な生き方をしている者は、清潔な物を美しいと感じ、自堕落な生活に憧れる者は、自堕落な生活を綺麗だと感じるのである。
 叛逆の美学、ピカレスク美学などというのは、反逆者や悪党の美学なのである。

 もののふ(武士)は、美を内面に求めた。それは日本人の魂である。表を飾らず。まことの美を内に求めた。だからこそ、常に、清潔な下着を身につけ。たとえ、不慮の死に出会おうと見苦しくないようにと心がけたのである。
 それこそが美学である。
 日本人の美の本質は、綺麗ではなく。華麗でもなく。清潔である。新品や豪華さではなく。質の良いものを使い込んでいながら、常に、新品と同じような清潔さ求める。
 それが日本人なのである。飾り気のない素の姿を晒しながら、それでも凛とした清潔感を求める。
 日本人の美学は質素、純粋、清潔、誠、正直である。

 現代社会では、男の美学が失われてしまった。男の美学がなくなれば女の美学もなくなる。潔い生き方。正直な生き方など今では美しいという基準で計れなくなってしまった。あくどいことをしてでも金を儲けたり、成功した者が美しいとされる。
 美学の礎から道徳はなくなり、損得が取って代わってしまった表れである。
 ただ上っ面ばかりを着飾れば、それを美だと錯覚している。日本人から本当に美しい生き方という物を学ぼうという心が失われたのである。

 戦後の日本人は、形式を否定してきた。根拠なく形式は自由に反する。封建的だというのである。型に填めるなと教えられてきた。
 その結果、礼節はうち捨てられた。

 しかし、美は、外見に現れる。美は形である。美を追い求めれば、形式に至る。

 美しさにも基準がある。

 美の基準は外形である。むろん、外見の裏には内面がある。しかし、美の本質は姿形、外に表れた象である。形からその内面を伺い知るのである。

 かつて、日本人は、礼に始まり礼に終わると言われた。故に、礼を捨てることは日本人であることを捨てることである。

 礼は、形相、姿勢にある。しかし、礼の本質は、相手を敬い、思いやる「こころ」慈悲である。
 相手を敬い思いやるこころを形に表した行為が礼なのである。

 かつての日本人には、凛とした素の美しさがあった。飾らない、そのもの、その人本来の内面から醸し出すものにこそ美の本質は現れる。それが日本人の伝統的美学である。
 そして、それが例の根本である。

 美の光芒は、始まりと終わりに発現する。
 人は、生まれる時、そして、臨終の時にその生き様が問われる。

 人は、純真無垢な魂をもって生まれる。
 純真無垢の魂は美しい。
 穢れを知らぬ魂はきれいである。
 生まれた時の魂の輝きは美しい。
 その美しさを保ち続けたならば、美しく生きられる。
 しかし、人は、年経るごとに純真無垢な魂を失い。
 言い訳をしながら自分の人生を曇らせてしまう。
 だからこそ、心の洗濯が必要なのである。
 言い訳をするのはやめよう。自分が惨めに醜くなるだけだから・・・。
 大切なのは悔い改めることである。
 前非を悔い、自らの過ちを認めて潔く改められる者は美しい。

 剛直で飾らない生き方こそ美しい。
 自分の道を真っ直ぐ突き進めたらきれいに生きられる。
 しかし、人生には、多くの岐路があり、山があり、谷があり、障害がある。
 真っ直ぐに生きようとして生きられないのが人生である。
 それでも尚かつ真っ直ぐに生きようとする心根が美しいのである。
 おのれを偽って、言い訳や弁解がましい生き方は、見苦しい限りである。
 世を拗ねて、愚痴や不満、たらたら、生きるのは汚い。
 後ろ向きの人生は暗い。
 前を見てこそ明るい人生が送れるのである。
 飾る必要のない人生は美しい。

 今の世は金に汚い。
 金になれば、何をしても許されると思い込んでいる。
 金のために、信頼を裏切るのは汚い。
 金のために魂まで売り渡してしまうのは醜悪である。
 金が全ての人生は貧しい。
 金しか残せない人生は、無残である。
 金のために人の道を過つのは、惨めで哀れである。
 人を欺いてまで、金を儲けるのはさもしい。
 あくどいやり方で金を儲けるのは、罪である。
 これ見よがしに金を見せびらかすのは、無様で、品性がない。
 金は大事である。しかし、金は使ってこそ人の役に立つ。
 金に執着する者は、亡者となり、餓鬼となるのである。

 志があってこそ人は、凛とした生き方ができる。
 志は、人の姿勢を正すからである。
 志は、義の本である。
 志に殉ずる覚悟があってこそ人は、美しい生き方を追い求めることが可能なのである。

 現代人は、疑ることを教える。何でも疑ってかかれと言う。
 しかし、信じる事は美しい。信じる「こころ」は、素直で、純粋、素朴な「こころ」である。それは美である。
 信じ切れることは幸せである。
 信じ切れる友や師に出逢えることこそきれいに生きる道なのである。
 一心に信じ、信じ切れる人生こそ素晴らしい。
 信じる「こころ」は美しい。

 日本人の美意識の根幹は、清潔感である。
 日本人は、汚れ、穢れ、不純な夾雑物を禊ぎによって洗い清めるのである。
 不浄なものを嫌うのである。
 清潔なものは、純粋無垢なものに繋がる。
 純粋無垢な「こころ」こそ美の本源なのである。

 若さに奢る者は醜い。
 命短しである。容姿の美しさは年と伴に褪せていく。
 年と伴に表に現れるのはない面の本性である。
 若いと言って自堕落な生活をおくれば、その報いは力が衰えた時に現れる。
 しかし、その時は、おのれを正す力がなくなっているのである。
 若い時の放逸は、老いた身に堪える。
 若い頃は、怠惰にしてもすぐに取り返せるが、歳をとると取り返しがつかなくなる。
 歳をとると若い時の借りを払わされる時が来る。
 しかし、借りを払わなければならない時には、借りを返せるだけの力が残されていないのである。
 色や欲に囚われた者は、自制することができなくなり、色呆け、欲呆けしてしまうのである。

 美しく年老いることの難しさよ。
 老いは苦である。老いは哀しい。
 若い時は、老いを感じず、若さを誇って驕り高ぶる。しかし、老いは、確実に忍び寄る。
 気がついてみれば、明日がない。
 軽々と持ち上げていた物が持ち上がらなくなり、全力で走ることもままならなくなる。
 物覚えは悪くなり、力も衰える。
 老いは残酷である。老いは苦である。その苦を苦として受け容れ、衰えを衰えとして受け止めた時、静かで澄んだ時が訪れる。その時は美しい。老いを美しいと捉えた時、美しく年を採れる。
 老い衰えを受け容れられず。衰えを認めずに、後進に道を譲ることができなければ、老醜を曝すことになる。
 老いを認めず。若者に道を譲らないのは愚かで醜い。況や、若者の成長を妨げ、いつまでもおのれの地位に固執するのは無残である。
 厚く化粧をして衰えを隠そうとすればするほど老いは誤魔化せなくなる。老いを認め、老いを受け容れれば気品に充ちた歳がとれる。
 おのれの老い衰えを認め、これから伸びゆく者の肥やしとなると決心した時、生きてきた時間の重みが人を美しく輝かせる。
 老いは美しい。老いには、その人その人の人生の軌跡があるのである。
 老いて自らの人生を振り返った時、自らの人生が愛おしくなる。そんな生き方こそ美しい。しっかりと執着心なく生きていく事ができれば老いは美しい。最後に訪れる穏やかな一時である。

 往生際という。
 人の真価は、窮地に陥った時にこそ発揮される。
 苦境に陥ると大概の人は悪あがきをする。潔く、自らの過ちや罪を認められる者は少ない。権勢を欲しいがままにしていた者にかぎてジタバタと醜態を演じる。
 多くの独裁者の最後は哀れなものがある。

 人間、追いつめれると悪あがきをするものである。
 特に、後ろめたいことがあると悪あがきをする。悪あがきの末に、自分の仲間や同志を裏切ることにもなる。
 仲間が悪あがきをして、その為に、自分達も窮地に陥ることもある。
 しかし、だからといって動転したら身も蓋もない。
 特に、独裁者が追いつめられると見苦しい行動に走るのが常である。
 エジプトのムバラクやリビアのカダフィ大差がその好例である。

 悪あがきをするならば、悪あがきをさせればいいのである。
 あがけばあがくほど人心は、離れていく。残された者達の気持ちも整理がつく。
 後は自分達の気持ちの問題である。どんな事態でも受けて立つという気合いがあれば、動じたりはしない。この日のために、日頃の鍛錬があるのだ。
 潔い人は、心に残るけれども結局は去っていってしまう。
 大切なのは、なりふりかまわず残って修羅場を伴に潜り抜けていってくれる仲間達である。それこそが美しく輝いて見える。
 他人になんと言われようとも自分達は、ここに踏みとどまって逃げない。
 それこそが美学である。
 腹を固めて事に当たれば何も恐れる事はない。
 何事も平常心。不退転の決意である。
 逆境の時こそ美しくありたいものである。

 泰然自若。従容として自らの運命を受け容れるのはきれいである。

 日本人の美学は、終局、死に様に至る。死に様とは生き様である。
 生き甲斐は、裏返してみれば、死に甲斐である。

 人は皆、いつかは死ぬのである。

 どちらかと言えば、正しいと言うよりきれいに死にたい。それが日本人の美意識である。
 人間は、いずれは死ぬのである。
 生きようとして、生きられない状態に追いつめられたならば、醜態を演じる事なく従容として運命を前向きに受け容れたい。それが美学である。
 晩節を汚すくらいならば、世の為、人の為、大義、広義のために死ねたら本望なのである。
 名こそ惜しめ。己の尊厳を保てずして生き恥を曝すくらいならば、義のために自らを犠牲にする覚悟が大事である。
 そこに、必死と決死の違いがある。必死というのは、必ず死ぬという事を意味し、決死とは、死を決することを言う。大切なのは決死の思いである。
 それは自死を意味するわけではない。自己を生かそうとする果てにある死である。
 人間は、必ず死ぬのである。ならば、有意義な死を望む。それが美学なのである。
 どうせ死すべき人生ならば潔く生きる。それが死に甲斐へと通じるのである。そして、死に甲斐は生き甲斐である。ただ、自らの欲にまみれて生きるのではなく。己を貫き通す生き様こそ美しいのである。

 武士道は、男の美学である。
 武士道とは死ぬ事と見つけたりという言葉独り歩きしているが、武士は、死を目的化しているわけではない。
 武士は、常に、死の向こう側にある生を求めているのである。武士は、生をあきらめたりはしない。
 薩摩の侍が関ヶ原の時、前方に退却をした。死中に活を求めたのである。それが武士道である。真の武士は、生を諦めたりはしない。
 だから、命を懸けると言っても自爆テロを意味しているわけではない。
 ただただ己の美学を貫き通そうとした時、己の使命、天命、義務、責任を果たそうとし、生きようとして生きられなくなった果ての死である。己の節操を守ろうとして生きられなくなるから死ぬのである。
 世を拗ね、捨て鉢で、逃避せんがための死ではない。まっすぐに、正直に、自分に素直に生きようとした結果の死である。だから美しくまた哀れなのである。
 美を極めて生き抜く事は難しい。是非善悪の問題でなく。信義、忠義、恩義、友誼の問題だからである。

 なぜ、美学が大切なのか。
 なぜ、美学を学ぶ必要があるのか。
 それは、人間の生き様に通じるからである。
 それは、逆境にあって自己の矜持を保つためである。
 己に克つためである。
 苦しくなれば、人は、自らの節を屈し、周囲の状況に妥協したくなる。
 しかし、その様な時にこそ、正義は行われなければならない。
 自らの初志を貫けるか、貫けないかは、一に己の矜持によるのである。
 矜持を支えるのが人生に対する美意識である。
 己に克って礼に復(かえ)る。美の本源である。

 自由かしからずんば死か。己の名誉を守るのか、それとも隷属の屈辱に耐えるのか。
 いずれにせよ、その根底に流れるのはその人の生きることに対する美意識である。

 高崎山のボス猿は、自分の醜態をさらすのが嫌で一人群れを去っていったと聞いたことがある。猿でさえ、ボスとしての矜持を守り通そうとする。

 無様に生きるくらいなら、美しい死に様を望む。それは自死ではない。自活である。
 生きんとして生きられないのならば往生際をきれいにする。
 それは己の真実を突き詰めた結果である。
 死は結果であり、死を求めるのは醜い。大切なのは、己の義を貫き通すことである。
 己(おのれ)に忠実でありたいという「こころ」それは美に通じる。
 それが日本人の美学である。
 自分の生き方に対する礼儀である。

 だからこそ、人は、美しく生きることを学び、又、学ばせる必要があるのである。

 人は、自分なりの美学を持つべきなのである。
 人は、自分なりの美学を大切にすべきなのである。


 日本人は、切腹、自害に際し、泰然自若と辞世の句を読み。婦人は、着物の裾が乱れないようにする。それが日本人の美学である。



穢れと汚れ

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