教育の理想を求めて

物事には順序がある



レストランで、料理を出してからメニューを出したら客は怒って帰ってしまうだろう。
これは順番を間違っているのである。メニューを出すタイミングと料理を出すタイミングぐらいでは、正常な意識を持っている者なら大概理解できる。(この点も厳密に言えば、簡単ではない。例えば、そういう手順を教わっていない子供や認知症の老人はどうかと言えば怪しくなるからである。)しかし、仕事となるとこの様な逆転が往々にしてみられる上に、当人達が自覚していない場合がある。

作業に順番があると言う事、作業の流れには、順逆がある事を意味している。
無計画や思いつきで仕事をしていると作業の流れは逆流する。
それは、足下の作業、直近の前後の作業から仕事をつなぎ合わせていくからである。
やり直そうと思えば足下から遡っていかざるをえないからである。

プロセスの全貌が頭に入っていないと作業は順序だって組み立てられない。
部分や断片をつなぎ合わせるパッチワークのような仕事になってしまう。
点と線を結ぶような仕事になるのである。
これではいつゴールにたどり着くかも解らない。
要するに計算が立たないのである。

順番と時間の経過が結びついたものが時系列である。
作業を順番に並べたものが計画である。
作業には、思索的作業と肉体的作業がある。
時系列と計画が結びつくと日程やスケジュールになる。

今日、ちょっとした事故で列車が遅れてきた。
たかだか、五分程度の遅れだが、多くの客にとっては、その日の予定が大きく狂ってしまう。
毎日毎日、通学や通勤に電車を使っていると段々と、時刻表など気にしなくなる。それは、時刻表が円滑に運用されているからである。しかし、何か時刻表に支障を来すような出来事が起こると大混乱に陥る。

東京の交通機関が雪に弱いのはよく知られている。雪で電車が不通になると大変である。帰宅できずに右往左往する人で夜の駅はあふれかえる。
目に見えないところでいろいろな仕組みが働いているのである。

電車の時刻表は、作業を一定の時間で整理する働きがある。
例えば三十分おきに出る電車に乗ろうとしたら定刻を一分遅れて駅に着いたとしたらそれは、一分遅れでなく、三十分遅れだと計算しなければならない。
そういう時刻表の仕組みが生活に一定のリズムを持たせているのことを忘れてはならない。

仕事や段取りには、一種の文法があり、その文法を組織的な仕事をする場合、その組織を構成する者全員が習得しておく必要がある。
野球をするためには、野球をする者全員、更に審判や監督が最低限の野球のルールを習得している事が前提となる。一人でも野球のルールを知らない者がいたら、野球そのものが成立しないのである。
しかし、野球のルールのような事は、実際の試合では、潜在的な規範であって一々意識していたら試合を進行することの障害になる。
運転中は、交通法規とか、教習上で習うような基本動作を意識する事はあまりない。
つまり、集団で組織的に仕事をしようとしたら、その集団は一つの規範を共有する必要があるのである。しかも潜在的な部分でである。

一つの過程を一度通して経験する事が有効であり、又、必要不可欠なのである。
例えば、旅行を立案から実行、後始末まで集団で組織的に実行する。
その過程を通じて仕事の流れやチームワークを学習するのである。

仕事は、段取り八分と教わった。
ところが今は段取りをとれる者がいなくなった。
それは、段取り、手順の組み方は、経験的に学び取っていく事だからである。
組織的に段取り、手順の組み方を躾けていく風土が日本から失われたのである。
その原因の一つが戦後の学校教育である。
戦後の学校教育は、知識や座学に偏重し、実地教育や修行を軽視してきた。

また、礼儀作法を封建的、形式主義だと排斥してきた。かろうじてその伝統が残されてきたのが体育会である。しかし、その体育会系も否定され始めている。

先に声をかけておくか、後にするかだけでも結果に大きな影響を与える。
その点を理解しないと組織的な活動を円滑に運用する事は難しい。

組織的に仕事をしようとした場合、作業の手順段取りの形を組織のメンバー全員が共有しておく必要がある。
その働きを持つのが礼儀作法等である。
かつての日本は、社会全般に礼儀作法が社会常識として躾けられてきた。
ところが、団塊の世代はこの礼儀作法をことごとく破壊してしまった。しかも、破壊するだけで、新しい基準を作り出す事を怠った。
より深刻なのは、それが教育機関を通じて為されている事である。
教員は、地域社会と教育を切り離す事を目論見、地域社会の風習や礼儀作法を真っ向から否定し、全国一律に標準化しようと画策した。
日本の底力を恐れた勢力が公教育を利用して日本の弱体化を計ったからである。
その事が日本の経済や文化に深刻なダメージを与えている。

集団を統制するためには、指導者が必要であり、また、組織を動かしためには、指示・命令が必要である。
話し合うだけでは何も決められない。だから、会議は厳格な規則によって運営される必要があり、会議に参画する者は、その会議の規則に習熟している必要がある。
野球をする者は、野球のルールに習熟している必要があるようにである。
なにもこれは権力主義的とか、権威主義的だからというのではなく。会議の目的と機能から導き出された結論である。

指導者なき無法な集団は、私的暴力によって支配される。

また、上下関係も組織は必要である。上下関係は、権限と責任の体系であり、権限責任には優先順位があるからである。

侵略者や独裁者は、過激な思想家集団を利用して、既成の権力を弱体化させ革命を起こそうとする。
過激に思想か集団は、無秩序で混乱した状態を革命状態として作り出そうとする。
そのために、自分達は、強力な指導者の下に鉄の規律を課して団結し、敵の指導者を弱体化させ、規律をなくさせて混乱状態に落とし込めようとする。

物事の順序や筋道が乱れたら、規律や統制は保てなくなる。その事を百も承知していていわゆる革命勢力は、物事の順序や筋道を違えるように誘導したのである。
その結果、物事の順序道理をわきまえる人間がいなくなった。そのような人間は、社会に出てから社会人としての振る舞いができない。それが社会を根底から覆す事になっているのである。
その事に日本人は早く気が付かないと、いわゆる革命的状況。無政府状態に陥るのである。


「大学」にいわく
物に本末あり、ことに終始あり。先後せんこうするところを知ればすなわち道に近し。

管理はプロセス

手順・段取りが大切
定石・手順
形式主義
形を重んじる
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