教育の理想を求めて

組織的意志決定


決断は、直感と感情でする事である。

考えたら決められない。考えずに決める。
決めた後なら考える事ができる。
決断をする瞬間は、思考停止をしなければならない。
決断は決して断じるのである。
つまり、思考を断ち切る事を意味する。

企画屋というのは、自分が立てた企画を捨てる勇気がなければ成功しない。
なぜならば、どんな計画も実践する時は、そのとき、その場の状況の変化に対応できなければならないからである。予定、計画に固執したら状況変化に対応できなくなる。
百、企画を立てたら、百企画を捨て、千企画を立てたら、千の企画を捨て、一万企画を立てたら一万企画を捨てられる者が企画屋として成功する。
百、千、一万と企画を立てるのは、ロジックである。ロジックを突き詰めても答えは得られない。それまで立てた企画を全て捨てられなければ決断はできなくなる。しかし、百、企画を立てなければ良い企画はできない。一つの決断のために、何百、何千、何万の企画が隠されている。しかし、実現できるのは、その時に一つしかない。
決断に際して、納得するしないは自分の問題である。本来、他人がどう思うかに左右される事ではない。決断した結果に対して他人の性にするのは、自分を否定する事である。決断した結果に対する責任は自分にある。
だからこそ、自分を納得させる事ができなければ、決断はできない。
決断するためには、多くの事を捨てなければならない。捨てる事ができなければ決断はできない。捨てられない思いは未練である。
今の日本で女性が強くなってきたのは、今の日本の女性は、多くの局面で決断する事を迫られ、その都度多くの事を捨ててきているからである。

考えなくて良いというのではない。考えて考えて考え抜いた末に、決断するのである。
しかし、決断は、直感的、感情的にする。
なぜなら、どんなに考えても確実な事は、一割にも満たないからである。
確実なのは、内輪の事情だけである。後は全て不確実だと言って過言でない。
その場、すなわち、決断しなければならないような状況に置かれた時考えないですむようにするために考え続けるのである。
野球で言えば、投手は投球フォームに入った瞬間、バッターはバッターホックスにたった瞬間、決断できる状態でなければならない。野手は、ボールを捕球した瞬間、瞬時にボールをどこに投げるかの決断をしなればならない。サッカー選手は、ゴールを決められるチャンスに遭遇した瞬間、瞬時に次ぎやるべき事を判断しなければならない。その場に臨んでああだこうだ考えたり悩んだりしている時間は与えられない。
その場に臨んで、考え込んだり悩んだりしないために、体が反射的に動くよう練習に明け暮れるのである。
そして、結果に対しては責任を持たなければならい。というより責任を持たされ、責任をとらされるのである。過失でも結果に対しては責任を問われるのである。
不決断は最大の誤判断。決断しようとしまいと結果に対しては責任は問われる。
だから、人は、何時如何なる時でも覚悟を求められている。
そんなつもりはなかったと言っても責任はとらされる。
子をなせば、子に対して責任を持たなければならない。
結婚をすれば、結婚しただけ、子供ができれば、子供ができただけ、とるべき責任が生じ自分の人生に厚みができるのである。決断とは、生きる事そのものである。
決断しなければ生きている甲斐がない。

会議や取引も同じである。決める時に決める。決めなければならない状態に置かれて決められないのは、覚悟ができていない証拠、日頃の心がけが悪いのである。
決めるべき時に決められないのは、己の怠慢である。
自分の怠慢を他人の性にするのは卑怯である。

反抗するより無視する事の方が悪い。
不決断は、最大の誤判断である。

判断は多くの人の意見を聞き。決断は自分一人でやるのである。つまり、決断は独断である。
だからこそ、直感、第一感を鍛錬し、研ぎ澄ますしかない。そのために、勉強し、学んで、学んで後悔のないようにするのである。
なぜなら、決断しなければならない時は突然やってくるからである。

何かというと親や先生からよく考えてから決めなさい、言われ続けてきた人間は、考えて決めようとする妙な癖がついている。だから何も決められないのである。
考えたら決められない。決めてから考える。この順番を間違うと、何も決められなくなる。しかもたちが悪い事に、何も決められなくても、当人はなぜ決められないのかが解っていない。

他人の意見を聞いて、よく考えてから、決めなさいというが、そんな事をしていたら、決断力が鈍るだけで、終いには何も決められなくなる。他人の意見を聞くことが悪いというのではない。考えることが悪いというのではない。ただ、最後に決めるのは自分一人である。つまり、決断は、独断である。

決められない状態にして決めろ決めろと責め立てるのは、残酷な事である。長い事そんな状態が続けば自己を喪失し、主体性が失われる。

子供が決めた事に「考えなさい。考えなさい。」と再考を促すのは、決断力を鈍らせるだけである。
ただ、決断した事の結果に対しては常に責任を持たせるように仕向ける。
今の親は、とにかく、決断しようとする時に干渉してくる。
それは親の子供に対するエゴである。
そのうち子供扱いするな、自分で決められると反発するようになるし。反発しないようでは先が思いやられる。
なぜなら、親がいなければ何も決められない人間にしてしまうからである。

決断を躊躇わせたり、臆病にしてはいけない。
父は、私が子供の頃、小遣いを決めて、その小遣いの範囲内で好きの物を買うように躾けた。小遣いを越える分、少額でも子供といえど借用書を書かせた。
又欲しい物を買う時は、自分で選ばせ。それで良いんだなと三度念を押し、迷うようでは買ってもらえなかったし、買った後にああだこうだ言わせなかった。父にとってはそれは未練なのである。

人は窮地に追い込まれて何も決められない状態に落ち込むと錯乱する。錯乱した状態で感情的に決断する。その様な場合は、極端な行動、暴力的な行動に出やすい。
感情的というのが錯乱状態と思われるのは、錯乱状態で決断した時、感情が際立つからである。感情的だからと言って常に錯乱しているわけではない。
感情的になっても錯乱状態でなければ冷静に決断できるのである。

決断は択一なのである。人は、その時々ではただ一つの事しか選べない。なぜなら、自分は一人だからである。故に、択一なのである。
泣いても笑っても自分で選んだ道には責任を持つ。それが決断である。後は未練と裂帛の気合いを持って自分で決断する。

決断力がない者は、決める前に考え込む。
決断する前にああだこうだ考え込んだら決断力は鈍る。
考えないから決められるのである。

なぜならば、決めなければならない事で、決めるための前提の多くは、不確実で、曖昧な事象だからである。どんな決断でも、予め確実な要素、決まっている事は、せいぜい言って一割程度である。後は曖昧で、不確かな事である。一寸先は闇である。
つまり、どうなるか解らない事を決めなければならない。逆に言えば百%解っているなら決断する必要はない。

例えば、死ぬと解っているなら、死ぬと決める事はない。
それは厳然たる事実である。
どうせ死ぬと言う事が解っているのならば、考えるべき事は、どう生きるかという事である。

意味のない事は考えるな。意味のない事を考える事は無駄である。言わずもがなな事は言わない。言っても仕方がない事を言えば、決断を鈍らせるだけである。
死ぬと言う事が明らかならば死を恐れて生き生きと生きる事ができなくなったら意味がない。死を恐れる事なく前向きに生きるしかない。死に至る直前まで前向きに生きるしかないのである。
目の前に障害物があってブレーキを踏まなければ衝突する事が明らかなのになぜ、その障害物かあるのか、誰の責任かなどと考えるのは愚かである。そんな事を考えている内に衝突してしまうし、考えたところで、衝突を避ける事はではないのである。そんな事は後で考えれば良い。間髪入れずにブレーキを踏むべきなのである。
それ以前に予め状況を予測し、それに備えて段取り手順を決めておく必要がある。事が起こってから考えても手遅れなのである。その時点その時点で責められるとパニックに陥るのが関の山で、どんな結果が出ても自信をなくすだけなのである。
決めてから考える癖をつけるべきなのである。

論理的に考え、直感で決断する。

美味いか不味いかの判断は考えてする事ではない。
美味い、不味いは、直感によって判断する。
なぜ、美味いか、不味いかは、後で考える事である。
舌が馬鹿になると腐った物や毒を吐き出す事もできなくなる。
好きか、嫌いかは、考えて決断するわけではない。
好きな事は好きなのであり、嫌いな事は嫌いなのである。
嫌いな事で好きな理由を聞いても無意味である。嫌いな事は嫌いなのだからである。
嫌いな人なのに好きな理由は挙げられないし、好きな人なのに嫌いな理由は挙げられない。
好きか嫌いかを決断した上ではじめて考える事ができるのである。

決断は、論理的にされる事でも、計算尽くでできる事でもない。
仮に、論理的な意味づけや計算が示されてもそのほとんどは後付けか偶然に過ぎない。

決断は一瞬でできる。決断には時間はかからない。決断には一秒もかからない。決断は瞬発である。故に、決断力は決断する事によって体得すべき事なのである。
決断力は鍛錬によって身につける事。決断力を鍛える為には、場数を踏む事である。

考えて考えて考え抜いて直感によって決める。
練習して、練習して、練習して直感によって決断する。
調べて調べて調べ抜いて直感によって決断する。

解らない事だから決めるのである。
つまり、リスクがあるから決めるのである。
リスクを承知で決めるのである。
解らないからと言って決めない訳にいかない事を決めるのである。

結婚すると言っても相手の全てが解っているわけではない。
相手の全てを理解してから結婚するというのは無理なのである。
なぜなら、相手の気持ちは絶え間なく変化しているからである。
そして、結婚すると決めなければ結婚する事はできない。
物事には順序があるのである。
だから、結婚すると気合いを込めて決めるのである。

結果はやってみなければ解らない。
逆にやった事以外の結果は分からない。
そして、決断はやる前にしなければならない。

たった一つ確かなのが、今のままでは、今と同じ事をやっていたら良くならないという事であるならばそれ以上何を考えるというのか。だとしたら変わるしかない。
結論が一旦出たら、余程の事がない限り、結論を蒸し返しても仕方がないのである。
できるかどうかを先に考えるべきではない。やらなければ、生き残れないのなら、できるできないは論外だからである。

段取り手順に意味はない。野球をする時に、なぜ、野球は九人でするのかを考えても意味がない。それは野球のルールを変更したり、人数が足りなかったらどうするかを考える時には意味があるかもしれない。しかし、公式の試合を始めようとする直前に考えても意味がない。

段取り手順を予め考え、その時点その時点で直感的に決断する。

決断というのは未練を断ち切る事であり、気迫である。
気迫の根本は感情である。
気合いを込めて決めるべき事を決めるべき時に決めるのである。

故に、決断力は修練によって身につけ、磨く事である。

イエスかノーか、決断は収斂である。
意志決定は、二進法だと思って言い。つまり、択一なのである。自分は一人、主体は一つである以上、選択できるのは、一つしかないからである。
故に、イエス以外は全てノーである。グレーゾーンは全てノーである。だから結果的に二者択一になる。
イエスかノーか、好きか嫌いか。決断は、直感と感情でする事である。

自分で決めると覚悟でき、腹が据わる。そして、責任感も出てくる。
自分で決められない者は、いつまでも当事者意識が持てず、無責任になりがちである。

最近、できちゃた婚が増えている。赤ん坊ができたから結婚をする。つまり、既成事実によって決断をしているように粧う。しかし、男は、決断をしない限り子供は作れない。単に欲望に従って行動しているように見せかけ、自分の責任を回避しているに過ぎない。
自覚のないまま子を作るから子供を育てる覚悟できず。結局虐待にいたる。
少なくとも男は自分の行動全てに責任を持て。又、責任を持てるようなしておかなければならない。
男は恥を知るべきなのである。

決める時に決めるべき事を決める。
組織は、決めるべき時に決めるべき事を決められるようにする仕組みだと言える。

仕事は、決断が集積した事である。仕事は、決断の塊である。
組織も同様に決断が集積する事で成り立っている。組織も又、決断の塊である。

組織的意志決定には、起点、ルート、終点、範囲、配置、形式、順序がある。
組織的意志決定の順序には、提案、決定、承認、指示、通知、記録、保存の筋と流れがある。
組織的意志決定は、筋がある。どの部署の誰が起案し、誰が決定し、誰が上申するのか。そして、誰が何の権限で命令を出すのか。通すべき筋によって組織の働きに違いが出る。
意志決定には、順序、筋道がある。

例えば、何を食べるかを決め、店を決めて、店までの道筋を明らかにして、店に行く。その逆は成り立たないのである。道筋を決めてから店を決めるわけではない。
その道筋に沿って個々の局面時点での判断、どうするかが問われるのである。
例えば、何を食べるかを決まっていたら、どこへ行くかが聴かれているのである。
物事は順序立てて決まっていく。薄皮を剥ぐように仕事は進んでいくのである。

意志決定は、一遍に一括的に決められるわけではない。
一定の過程を踏んで、ステップ・バイ・ステップに処理されるのである。
その筋や順序を違えたら決まるべき事も決まらないのである。

組織は、人の集団を元として形成されている。人の集団である組織の機能を発揮させる手段としては、異動、評価、教育がある。

組織の働きには、権限、責任、序列、階層、位置がある。

意志決定は、是非を判定し、その判定に基づいてどうするかを決める過程である。
個人の場合、無意識にする事ができる。しかし、組織の場合、公式にこの過程を踏む必要がある。

余計な事を考えずに行動する事ができるようにする。それが組織である。考えるなと言っているのではない。

組織的意志決定というのは、決定した事を共有しなければならない。
故に、組織は、指示命令によって動くのである。
組織は、指示命令によって起動し、報告によって終了する。

組織は指示命令で動く。
指示、命令は、簡潔明瞭で必要最小限の要点だけを述べれば良い。余計なことは言わない。後は、質問されたことにのみ答えれば良い。補足的説明は、最小限にとどめる。場合、状況によっては記録を残す。なぜならば、指示・命令に曖昧さは許されないからである。また、同じ事を、組織の一体性、統一性を保つためには、一言一句間違わずに伝達する事が要求される。

意志決定は、指示・命令によって現れる。
指示、命令が出なければ、決めた事にならない。
自分が決めただけ、会議で話しただけでは、組織は、決定として認知する事はできない。
自分が決めた事は、自分が決めただけで黙っていても解るという事はない、言わなければ解らないし、指示しなければ発効しない。組織的決定は指示によって発効する。

一番怖いのは、自分は、決めたつもりでも組織としては、決定として認知していないとか、自分は伝えたつもりでも、正式に伝わっていない場合である。その様な場合は、指導者と組織との認識や意識のズレが生じる事が問題なのである。
決めたつもり、伝えたつもり、やったつもり、解ったつもりになっても実際に蓋を開けたら、何も決まっておらず、何も伝わっていないで、解ったつもり、何も実行されていない。それが裸の王様なのである。
特に、解ったつもりになるのが一番怖い。なぜならば、指示・命令は、実際に行動や結果が現れないと実証することができないからである。その点で言えば、解ったつもりでいられると確信的に間違って実行するからである。
故に、受令者は、自分が指示・命令を実行できるようになるまで、質問、確認をする権利があるのである。

指示、命令された事は、実行されてはじめて実現される。
指示、命令されても実行されなければ、指示、命令は無力化される。
それ故に、指示、命令には強制力がなければならない。
抗命は、どの様な組織でも厳罰に処せられる。なぜならば抗命を許せば組織は機能しなくなるからである。

強制のない社会はない。
強制は悪い事ではない。

ところが戦後社会では、強制は悪い、個人の自発性に全てを委ねるべきだという考え方を学校で教え込まれる。これは、我が国を弱体化するための一種の陰謀ではないかと勘ぐりたくもなる。

強制は悪い事ではない。
確かに、その人の意志や価値観、道徳に反する事を暴力的に強要強制する事は悪い事である。ただ、集団的行動をするために、合意に基づいて何らかの権限や責任を他者に委ねる事は悪い事ではないし、そうしなければ、集団は統一的な活動をとる事はできない。統一的な活動をとる事ができなければ、集団は個人で行動するよりかえって危険な状態に陥る。かといって個人の行動には限界があるのである。人間は一人では生きられない。

戦後の学校教育のおかげで決めたら指示を出すという前提、意識が欠けている者が増えている。そのために、組織的な活動が阻害されているのである。

組織に当たり前という事はない。
よく当たり前な事をやらないという管理職がいる。勘違いをしてはならないのは、当たり前な事によって組織は動いているわけではない。組織は、指示命令によって動いているのである。
指示、命令、号令が悪いとされたら組織は動かなくなる。
強制が悪いとされたら組織は動かなくなる。
当たり前だと当人が思ったとしても当たり前に決まっているわけではない。
当たり前な事でも指示が出ていなければ組織は動かない。
だから、当たり前だと思い事から決めて指示を出していくのである。
当たり前な事と言う思い込みがあると何が原因で組織が機能しないのかを当人は気がつかない。そして、やらない者を責めるのである。部下を責める前に適切な指示が出されているか否かを確かめるべきなのである。

車は、前に障害物があるから当たり前に(自動的に)止まるわけではない。
そこに錯覚がある管理者がある。当たり前な事、常識、良識、道徳で組織は動いているわけではない。組織を動かしているのは、指示命令である。
ブレーキを踏む事で、自動車という仕組みに止まれという指示が物理的に伝達され事によって車は止まる。
自動車を止めなければと考えただけでも、決心しただけでは車は止まらない。逆に、止めようと思わなくてもブレーキがかかれば車は止まるのである。

指示・命令には強制力がなければならない。
ブレーキを踏んでも車が減速し、停止しなければ車は機能を発揮する事はできない。
戦後の教育では、強制と暴力を結びつけて強制は悪いと決めつけて命令や号令、指示は悪い事と刷り込んでいる。
その証拠に多くの学校で始礼、終礼が否定され、取りやめられたのである。
強制する事と暴力とは同義ではない。強制する事は暴力的だと否定するのは、見当外れである。逆に合意に基づく強制が為されない場合、合意に変わって私的暴力による強制が横行するのである。

強制力のない法は、法としての機能を発揮できない。こんな事も学校の先生は解っていないのである。組織は個人の自発性で動いているわけではない。

決定権者が決定した事項を自分一人納得していても組織は動かない。組織を動かすためには、組織に自分が決めた事を認識させる必要がある。故に、組織は、指示・命令で動くのである。

故に、指示は相対(あいたい)で出しても意味はない。指示は、関係者全員に解るように出さなければ効力を発揮しない。故に、指示・命令は一種に形式、儀式、作法が重要になる。

組織は一人で決められる事はほとんどない。大概が連携して決めていく。連携して決めさせる事で相互牽制が働くような仕組みにできている。また、一人で決めた事でも必要な部署には指示・命令を出し、又、関係者に周知する必要がある。そのためには手続きが重要となるのである。

指示は、それを実行に移すために必要な要件を満たしていないと効力を発揮しない。

組織的な活動を使用とした場合、決定権者は、組織全体に先立って決断をしなければならない。
その上で、組織に自分の決断を認識させる必要がある。

個々の作業を行う前に、是々非々を判定する必要がある。
一つひとつの作業を漏れなく、重複なく、全て、しかも順序正しく決めていかなければならない。
しかも、タイミングを合わせて粛々と全体として行動していく必要がある。
故に、組織的決定は薄皮を剥ぐように行われる。
組織は一人ではない。必ず並行作業を伴う共同作業なのである。
組織が一体的な行動をするためには、情報系を下地にしなければならない。
言い換えれば組織は情報系なのである。
組織を統制するためには、手続きが必要となる。
手続きによって順序を管理するのである。

決められる事から決めていく。例えば、旅行を計画する場合、旅行に行く日は決められなくても旅行を行く日を打ち合わせる日や行く日を決めるための打ち合わせの日は決められる。よく決められないという人は、最終決定を考えて決められないとぼやいている事が多い。いきなり最終的な事を決められるというのは稀である。決められる事から決めていくのが原則なのである。

組織は、情報系である。

組織は生き物である。機械ではない。
歯車に例える人がいるが、それは、その人の思い違いであり、その様な思い違いをしている人は、自分を歯車にしてしまう。組織は無機質なものになると自律的な判断ができなくなり、自分で自分を守れなくなる。すなわち、状況に合わせて行動や体制を変化する事ができなくなるからである。
組織を構成しているのは、歯車ではなく。人なのである。
例えば、人は、指先に針が刺さっても痛みを感じる。
それも針が刺さった瞬間に痛みが頭脳に伝わり、反射的に痛みに対して行動をとれなければならないのである。
この情報伝達が大切なのである。
しかも、痛み程、重要な情報だから素早く伝達される。
痛みは、針が刺さったところを見て、その箇所に確認をしてから痛いと感じるのではない。針が刺さった瞬間に痛みを感じなければ用を為さない。
針が刺さってもしばらくたって痛みが伝わるようでは、痛みの意味はない。
危機に対しては痛みを感じるから即応するのである。
指示によって反応するのではなく。痛みを感じた部署は迅速にそれを中枢に伝えなくてはならない。
痛みを感じない部署は壊死している。
痛みを感じたら速やかに情報を伝えなければ危機に反応する事ができなくなる。
悪い事ほど早く伝える必要があるのである。
そして、危機に際して組織は、一致団結し、一体となった行動をとる必要がある。

人は、歯車ではないのである。
人は、歯車になっても、してもならないのである。

人は、自分が自分であるために、決断するのである。
なぜならば、自分で決断しなければ、自分が自分でなくなるからである。
自分がなければ、相手に合わせる事もできない。反発したくても賛成したくともと自分がなければしようがないのである。
自分で何事も決断しなければ自己の同一性は保てなくなる。
決断の動機は、自分の外にあるわけではなく。自分の内にある。答えは、自分に求めるべきなのである。他人に求めたところで意味がない。
人は、他人のために決断をするわけではなく。自分の為に決断する。
自分の為に決断するからこそ自分の始末ができる。責任が負える。

この事は、国家も同じである。
国家の独立は、主権者が自らの意志で自らの国の運命を決められるからこそ意義があるのである。
国家の主権者が自らの意志で自らの運命を決められなくなった時、国家の独立は損なわれるのである。
自らの力で独立が守られるからこそ国家は国民に責任が負えるのである。


士は名誉のために闘い。
商人は、信用のために闘う。
恥を知れ。
恥はかいて知るもの。


考えるということ
決断
決断力を養うと言う事
決断を学ぶ
決められないという病
やらない理由、できない原因
やる気
結婚


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