教育の理想を求めて


武   道



 善良なだけでは、正しきを守る事ができないことがある。
 人が好いだけでは生きてはいけない。
 そこに武道の存在意義がある。
 身を捨ててこそ正しきを守り通す事ができる。

 かつてこの世は、暴力によって支配されてきた。
 考えようによっては、今でもそれは変わらない。
 歴史上、善良な民族が、凶暴な種族によって襲われ、侵略され、支配され、虐げられ、殺戮され、或いは、滅ぼされた例は、数多(あまた)ある。
 その時、犠牲になるのは、常に、弱い者である。
 戦争で最も被害を受けるのは、戦場に住む者達である。
 しかし、彼等は、顧みられることもなく打ち捨てられる。
 彼等は、本来、勝敗とは無縁の者達である。
 彼等には、栄光も、栄誉も、恥辱もない。
 ただ生活があるだけである。
 戦(いくさ)は、無辜の民の生活を踏みにじるのである。

 敗者の社稷(しゃしょく)、聖廟は壊され。名誉は、汚される。
 父祖は侮られ。故郷は焼かれる。
 愛する者は引き裂かれ、自分が奉ずる神を信じる事さえ許されなくなる。
 母親や子供達の泣き叫ぶ声は、国中に溢れ。
 歴史も伝統も失われる。
 自由は奪われ、独立は失われ、人民は、隷属させられる。
 やがては、国があったことすら人々の記憶から消え失せ。
 残されるのは廃墟のみとなる。
 故に、自由と独立は、ただ護る。護りきらねばならない。
 その為に、武道を極めねばならないのである。

 戦いに敗れた時にこそ武道の真価は問われるのである。
 なぜならば、自分の生命、家族、名誉、そして、正義は、一人一人が、自分の力で護らなければならなくなるからである。

 自由と独立は、自分達の手で護らなければならない。
 なぜならば、自由と独立は、与えられるものではなく、勝ち取るものなのである。
 自分の名誉は、自分の名は、自分で守るしかない。

 誰も護ろうとしない国は、護りきれない。
 他人をあてにしても誰も、助けてはくれない。
 自分の正義は、自分で護るしかない。
 誰も守ろうとしない平和は虚構である。
 自由になるために、精神の独立を護るために武道を修めるのである。
 ただ、他人に与えられ、護られているだけの自由は、家畜の自由に過ぎない。
 真の自由は、痩せても枯れても野生の自由である。

 大義は、勝者にある。敗者は、勝者の憐憫に縋るしかない。
 だから、戦うしかない。
 義を守るためには、命がけで戦い抜くしかないのである。
 戦うことでしか、自分の正義は、立証できないのである。
 己(おのれ)が己であるために、己の存在を賭けて戦う。
 何が善で、何が悪かは、自分で決める。
 真善美一如。

 ただ、手を拱いて滅びいくことを潔しとはしない。
 それが日本男児だ。
 ただ、座して死を待つくらいならば、進んで道を切り開け。
 それこそ、武の道である。

 善なる者が否定されれば、悪が栄える世になる。
 原子爆弾を持つ国が、原子爆弾を持たない国を劣等国とするいわれはない。
 しかし、その主張は、強国には通じない。強国は、ただ、力で弱国に、自国の論理を押し付けてくるだけである。弱国の主張は虚しいばかりだ。
 弱き者は、常に凶悪なるものに虐げられてきた。
 理不尽と言っても、それが、否定しようのない事実である。この現実を直視しなければ、武道の真の意義は理解できない。
 この世を支配するのは力である。
 正しき者は、強くあらねばならない。
 強くなければ正しきを護れない。

 武道は、修行である。

 人は、力を得ると自分を抑えられなくなる。
 人は、力を得ると見境がなくなる。
 人は、強くなると驕慢になる。
 勝者は、驕り高ぶり、敗者に無慈悲になる。
 力ある者こそ、自制しなければならない。
 勝者は奢らず。敗者は阿(おもね)らず。

 例え、勝負に勝っても己に負ければ、己が不義不忠となる。
 義に背いて、公の敵となる。
 己を見失えば、勝負に勝たとしても、己に負けたのである。
 それは負けである。

 強者、勝者に求められるのは恕である。
 弱者、敗者に対する礼である。
 礼をもって己の慢心に克つ。
 故に、武道が必要となるのである。

 己の内にこそ敵はいる。

 自分とは、弱いものである。
 己(おのれ)を着飾り、虚勢をはって自分の弱さを隠そうとする。
 だから、自分の弱さと戦う。弱い自分と戦って、戦って、自分の心を鍛えるのである。
 それこそが武道である。

 武道は、スポーツとは違う。
 武道に求められるのは、相手に勝つ事よりも、自分に克つ事である。
 その心構えがなければ、武道を修行する意味がない。
 力を自分のものにする過程で自制心をも身につけなければならないからである。
 その過程が武道の修行なのである。
 修行の至る境地は、恕である。
 武道の本質は求道である。

 武道は信仰に近い。
 己(おのれ)を超えた存在を奉じなければ、己を越えることは出来ない。
 己が越えられなければ、我欲を抑え、我執を捨てられない。
 常に、自己と対峙し、己を超える何者かを敬わなければならない。
 神を怖れ、天に恥じぬように。
 そして、ただひたすらに清純無垢にして、超然たる存在を信じるのである。
 信じ信じてその存在と己を一体とするのである。

 気を込めれば心となり、
 心を込めれば命が宿る。
 命が宿れば神となる。

 神は、鏡なり。

 神とは、万古不易の理なり。

 武道家は、世俗の地位や富に対し超然としていなければならない。
 地位や富に囚われれば己を見失うからである。
 ただ、武道を志す者は、世を捨てず。
 己の義を極め、公に仕える為に、あえて、世俗に身を置く。
 故に、武道の心は奉仕にある。

 武道は道を求める事である。

 武道は、戦いの道である。
 武道の根本精神は、逃げずに戦うことにある。
 現世に留まって、不正や不義と戦うことである。
 武道は、己の弱さ、迷いを断ち、己を全うすることを本義とする。
 己に対して忠実たらんとする姿勢こそが大事である。
 武道とは、逃げない心を養うことである
 そのために、強くなるのである。

 現実から逃避せずに、現実と戦って生と死を超越する。
 己と戦い。不正、不義と戦い。悪と戦い。
 病と戦い。老いと戦い。
 生と戦い。死と戦う。
 魔と戦い。権威と戦い。
 欲や誘惑と戦い。
 定めと戦う。
 愛と戦い。
 悲しみに勝ち。
 迫害と戦い。
 孤独と戦い。
 師と戦い。
 親と戦い。
 子と戦い。
 兄弟、同胞と戦い。
 愛する者と戦う。
 怠惰を敵と思い。
 自堕落と戦え。
 侵略者と戦い。
 圧政や弾圧と戦い。
 暴虐と戦い。
 世の無理解さと戦い。
 偏見と戦い。
 憎しみ、憎悪と戦う。
 頑迷さと戦い。
 しがらみと戦う。
 狂信と戦い。
 貧困と戦い。
 悪徳と戦う。
 己を支配し、隷属させようとする勢力と戦い。
 求めるべきは、自由と独立である。
 己の誇りを賭けて戦う。
 名誉を守るために戦うのである。

 武道家にとって戦いは神聖な事である。
 戦う事によって己を知り、命の尊さを知り、思いやりや慈悲を知り、事の成否善悪を見極める。戦いは、ただ相手に勝つ事を意味するのではない。
 戦いの中に道を見出し、悟りを開く。それが武道である。
 大切なのは、なぜ、何と戦うかである。何を敵(かたき)とするかである。

 必死、必殺の一撃をもっと必生を知る。
 その一瞬に、私(わたくし)は、虚となり、無となる。
 なぜ、死ぬのかと問われれば、永久(とこしえ)に生きんが為と答えよう。

 戦うというのは、暴力をふるう事とは違う。
 相手を屈服させたり、力で押さえつけようとする事でもない。
 戦う目的は、己の真実を見極め、相手と共感共鳴する事である。
 故に、戦いは祈りである。
 そして、修行する処は、祈りの場、道場なのである。

 武道の道は逃げずに戦うことである。
 だからといって武道家は、無用な諍いに巻き込まれることを潔しとはしない。
 愚かな戦いは避けるべきである。
 のない戦いはしてはならない。
 勝算なき戦いはすべきではない。
 それは逃げることとは違う。
 一時の感情に任せて争うことは、真の戦いではない。
 我慢、忍耐もまた戦いである。

 戦うべき時に戦う。その時を知るのもまた、修行である。

 戦いの根本には、生と死がある。
 義によって私を滅し、生と死を超える。その時、宇宙と自己とが一体となるのである。
 勝ち負けは結果に過ぎない。
 故に、負けることよりも逃げることを恥とする。
 死が定めならば、戦って死ぬことこそ本望。
 武道が目指すところは、生きること死ぬこと。
 根本らあるのは、義であって勝ち負けではない。
 武道の本質は美学である。

 武道の道は、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下にある。
 意を誠にし、心を正し、身を修め。家族や事業を興し、国を治めて、世界の平和を守る。
 それが武の道。
 そのために、修めるべきは、仁義礼智忠信孝悌。
 そして、廉恥を知る事。

 力ある者が、無道になれば、この世の秩序は保たれない。
 争いばかりが蔓延る世になる。この世に正義は行われなくなる。
 無法な世になる。
 人々が安心して暮らせる世の中を保つためには、力ある者は正しく生きなければならない。
 正しく生きるだけでなく。正しきを護らなければならない。

 正義を行わんと欲すれば、不義を制しなければならない。
 不義に出逢えば、ただ一人でもそれに立ち向かう覚悟が必要である。
 さもなくば不義に組みすることになる。それは、己も悪になることである。
 己が不義をなさないためには、自分に克たなければならない。
 そこに武道がある。
 暴力を制圧するのは義である。

 すべからく、指導者たる者、義によって立つべし。
 凶悪な人間が凶器をもって子供に襲いかかった時、誰が子供達を護るのか。
 ただ、自分だけが逃げればいいと言うわけにはいかない。
 悪に立ち向かう者がいなくなれば、この世は闇である。
 故に、武道を身につけることを、古(いにしえ)より、日本人は嗜みとしたのである。

 武道の目的は、勝負を制する術を身につけることではない。
 己に克つ事である。
 己の欲に勝ち。
 己の醜さに勝ち。
 己の見栄に勝ち。
 他人を妬む心に勝ち。
 憎しみに勝ち。
 無関心さに勝ち。
 己の怠惰な心に勝ち。
 己の弱さに勝ち。
 己の臆病な心、逃げ出したくなる気持ちに勝ち。
 己の凶悪に勝ち。
 凶悪なる者を断ち切る。
 それこそが武道の目的。

 事上の錬磨。

 稽古・鍛錬・試合は、修行。
 身を以て公義を修める。
 故に試合も大事。されど、試合は、修道である。

 ただ、一人、志を胸に秘め。日々、精進を怠らない、それが武道である。

 真に強き者は自制する。
 刀は武器である。刀は凶器である。
 しかし、刀は、武の道具でもある。
 刀は、人を威嚇し、脅かすことを目的として持つものではない。
 刀は、心を鎮め、悪を鎮めるために帯びるものである。
 武士は、帯刀して天下国家を議論する。
 常に真剣勝負である。
 互いに名誉をかけて話し合うのである。
 命がけで信念を述べ合うのである。
 武道家の話し合いは命懸けである。
 刀を脇に置くから自重する。
 怖れを知らずして天下国家は語れない。
 恐怖に打ち勝って初めて信念を貫き通せる。
 興奮して我を忘れ、乱暴狼藉するようでは、伴に、大事は、はかれない。

 刀を持つことで粗暴になるのでは、武道をする意味がない。
 刀は、使い方を誤れば、相手ばかりでなく。自身をも傷つけるのである。
 先ず、自らの心に刃を向けよ。
 怠惰に気持ち、悪心を断て。
 それが武道である。

 弱き者は、強者に逆らえない。ただ従うだけである。
 しかし、力ある者が常に正しいとは限らない。
 時として強者は凶暴になる。
 悪が権力を握ると力の差は圧倒的になる。
 凶暴な武力の前に正しきは無力である。
 一度、残虐なる者が力を握ると国民は塗炭の苦しみを味わう。
 しかも、その無道は末代まで祟る。
 だからこそ、無道な暴力を許してはならないのである。
 そこに武道の使命がある。

 善良なる者が強くなければ、正しきは護れない。
 愛する者を護りたければ強くなければならない。
 護る者がなければ生き甲斐がない。
 生き甲斐は、死に甲斐である。
 命賭けて護る者があるからこそ武道がある。
 何から何を護るべきなのか。
 そこに武道の根源がある。

 武道の普遍性は、武道の持つ意義に淵源がある。
 故に、武道は騎士道にも通じるのである。
 武道の本質は、技を競い合うことにあるわけではない。
 武道の本質は、生きる事、活かす事にある。
 それを忘れたら、闘争しかなくなる。闘争の果ては、殺戮である。
 武道は、戦う技を学ぶが、本質は、平和を守ることなのである。
 戦うことを恐れていたら、戦いを避けることが出来ない。
 粗暴、凶暴な者が、善良なるものを畏怖するから、悪が善を恐れるから平和は維持されるのである。
 無法な者の勝手にさせたら、秩序は保てない。
 善なる者は、心身共に強くなければならない。
 戦うためでなく、戦いを避けるために、武道を身につけるのである。
 愛する者を無道、戦から護る。そこに武を修める目的がある。

 故に、武道家にとって勝ち負けは、最終的な目的ではない。
 武道はスポーツとは違う。心の修行である。
 勝負は、時の運。修行の目的は、自己の完成にある。
 大義に私を滅することこそ武道が目指す境地なのである。
 武道の根本は、道にある。勝敗は、通過点に過ぎない。
 勝敗に拘って道を踏み外せば、武道を全うすることはできない。
 本末転倒である。

 明鏡止水。
 どの様な状況に陥ろうとも、平常心、不動心でいられる心境こそ武道が志す境地である。

 武道の修行の場は、現世である。
 武道が、他の修行との決定的な差がそこにある。
 武道は、己のためにのみする修行ではない。
 護らなければならない世がある。
 護るべき者がいる。
 護る者があってこそ武道は成り立つのである。

 武道は、自分の為だけでなく、護るべき人の為にも修行するのである。
 ただ、己のためにのみ修行するのならば、世俗を捨てればいい。
 世の為、人の為になってこそ武道は成就するのである。
 試合に勝つことが目的なのではない。
 勝者は謙虚たれ、勝者は手本でなければならない。
 それが武道の本義である。
 だから、勝ち負けにこだわり、人としての道を忘れた者を勝者とするわけにはいかないのである。

 スポーツとの違いも然りである。
 スポーツは、自分の体力の限界に達した時に終わる。
 スポーツは、勝てなくなったらお終いなのである。
 武道には、終わりはない。
 求めているところが違うのである。
 その日、その時がくるまで身と心を磨くのである。

 それが日本武道。武道はスポーツではない。

 故に、武道は、公の行いである。
 静謐で清潔でなければならない。
 外聞もなければ、見栄もない。
 素の自分に対決し、勝たねばならない。
 必要とされるのは、信義のためなら、全てを投げ出す覚悟だけである。
 なりふりかまわず、誠を尽くす。
 それを学び取るのが武道である。
 根本は、世の為、人の為である。

 私事、私欲に囚われたら義は失われる。
 ただ、無私になれ。
 私を滅した時、真の義は見えてくる。

 恩もなく、恨みもなく。憎しみもない。
 ただあるのは、忠義のみ。

 根源は、人類愛、愛国心同志愛、家族愛、すなわち、愛である。

 武道は滅私奉公への道である。

 武道家の礼に上下の隔てはない。
 逝く時は、ただ一人。
 武道家は孤独である。
 なぜなら、戦うべき相手は、自分だからである。
 戦うべきは、己の弱さ、驕慢さである。
 己以外は、全て師。
 友は、師。
 天地、は師。万物は,師。
 敵も師。悪も師。弟子も師。敗者も師。
 子も、また、師である。
 故に、武道は、礼に始まり、礼に終わる。
 礼節を忘れた者は敗者である。
 礼を失念した時に、武道家は負けるのである。
 ただ、己に克った者のみが勝者となる。
 強者のみが勝者になるわけではない。
 勝者は美しくあらねばならない。
 敗者も又、凛としていなければならない。
 敗者こそ、誇り高くあれ。
 敗因を相手に求めるな。己の姿勢に求めよ。
 武道を志す者は、恥を知れ。

 武道家は、孤独である。
 武人は、戦いにおいて常に、対等である。
 武道家は、孤高(ユニーク)な存在である。
 道場では、武道家にとって上もなく、下もない。
 故に、武道家の魂は平等なのである。

 敵を倒し、己も倒す。
 故に、武道の究極は相討ちにある。

 孤高を怖れるな。
 一朝、事ある時は、敵は幾万ありとても、ただ一人行く、その覚悟を持て。
 公に対する悪と戦え。身中の敵を糾せ。

 武道を学ぶ者は、気高くあれ。
 志を持て。

 力ある者は、正しくなければならない。
 力ある者は、己に克たなければならない。
 克己復礼。
 力ある者は、礼節を持たなければならない。
 力ある者は自制しなければならない。
 力があるのに正しくない者は邪悪である。
 邪悪な者が蔓延れば、この世は廃る。
 そこに武があり、道がある。
 力ある者は、身を修めなければならない。
 それが武道の根本である。

 正しきと力を調和させる事こそ武道である。
 故に、武道は修養である。勝負事ではない。
 勝ち負けは結果である。
 大切なのは、自分の節を屈したか、しなかったかである。
 ただ、自らに問え、一途に裂帛の気合いをもって己の忠と誠を尽くしきれたか。
 要は、根本精神である。

 勝ち負けにこだわり、欲望の儘に己の力を振るうのは無軌道である。
 己を律してこそ真の誠が発揮できる。
 そこに武道家の誉れ、天晴れ(あっばれ)がある。

 肝腎なのは、何を何から護るかである。そこに武道の真骨頂がある。
 護るべき事を知らなければ武道は成り立たない。

 武道の核心は、忠と恕である。
 武道は、忠と恕を学ぶ事である。
 その形が礼である。
 故に、武道は礼に始まり礼に終わる。
 礼節を忘れたら武道は成り立たない。

 ただ、正直に尽くす事、それが忠である。
 何に対して忠たらんか、それが武道の核心である。
 国家に忠たらんとするか、信じるところに忠たらんとするか、公の大義に忠たらんとするか、主君に忠たらんとするか。自分に忠たらんとするのか。そこが大切なのである。
 根本にあるのは、自分の義である。

 自分が信じる義に忠たる事が武道の誠。

 武道に求められるのは心構えである。
 常在戦場。
 危機は、予告なく訪れる。
 その時に、臆したり、乱れたりすることのないように、狼狽えないように、不覚をとらないように、常に、心構えを持つ。それが武道の求める境地である。
 いつその時が来るか、それは誰にも解らない。

 涵養すべきは、何事も怖れない勇気である。
 何事にも動じない心である。

 大津波の時、大地震の時、多くの警官や消防団の人々が、わが身を省みずに自らの職責に殉じていった。彼等は、名も知られることもなく、誰からも顧みられることもなく、ひっそりと自らの信念に殉じていったのである。
 それこそが武道が目指す心である。

 大切なのは平素の心構えである。
 いつ如何なる時にも平常心でいられるように修行する。
 故に、真の強さは、素にある。
 飾りはいらない。
 飾りは自分を脆くする。
 素の美しさこそ武道である。

 暴力集団という意味では、やくざも、盗賊も、山賊も、海賊も、警察も、軍隊も、何も変わらない。
 問題なのは、何を護ることを目的としているかである。それがなくなれば、ただの凶器である。

 護るべき対象もなく、或いは、私利私欲に従い、ただ、放縦に発揮する力は、暴力である。

 強くを挫き、弱きを助けることを我々は、潔しとした。
 強者に正しきがなくなり、弱者に抗う手段がなくなればこの世の正義は行われない。
 残されるのは、ただ、ただ、悪である。

 武道は、美学である。
 ただ、勝つのではなく。
 美しく勝つ。潔く勝つ。
 汚い勝ち方をするくらいならば、潔く負けた方が良い。
 悪に組みするくらいならば、潔く戦って死ね。
 保つべきは品位。
 それが、武道。

 故に、武道では姿勢が大事。
 常に、姿勢を問われる。
 姿勢が悪ければ汚くなる。
 姿勢に筋を通し。姿勢を正す。

 雑念を焼き尽くして、素となれ。
 純真無垢なる魂こそ尊い。

 心弱くして、心ならずも悪に与(くみ)さないよう、臆さないように、日本人は、子供の頃から厳しく躾られるのである。
 凛として生きよ。

 弱い者イジメはするな。
 強者に阿るな。
 誇りを持て。
 恥を知れ。
 名を汚すな。
 義を重んじろ。
 敵に背を向けるな。
 卑怯な振る舞い、見苦しいことはするな。
 潔くあれ。
 卑劣な真似はよせ。
 汚いことはするな。
 人前で泣くな。
 言い訳はするな。
 愚痴はこぼすな。
 陰口はきくな。
 正々堂々と生きろ。
 正道を歩め。
 男は黙って行動しろ。
 恩義は忘れるな。
 縁を大事にしろ。
 信念を持て。
 逃げるな。
 敵に背中を見せるな。
 最後まで諦めるな。
 どんな時でも、礼節を守れ。
 年寄り、子供を大切にしろ。
 困っている人がいたら、助ける。
 嘘はつくな。正直たれ。
 約束は守れ。
 誓いを忘れるな。
 信念を貫け。
 初心忘れるべからず。
 法を守れ。
 親孝行をしろ。
 兄弟仲良くしろ。家族を護れ。
 友を裏切るな。
 師を敬い尊べ。

 そして、決断。決断。決断。
 決して断じよ。
 決めてから考えよ。
 迷うな。
 抜刀する気合いで決める。
 決めたら責任を持て。
 決めて、未練を断ち斬れ。
 優柔不断は、最大の過ち。
 決断こそが最大の修行である。

 忌むべき事は、ただ一言、未練。
 上手くやろうというのも未練。
 言い訳も未練。
 人がなんと言おうと未練。
 迷いは未練なるが故。
 ならぬ事は、ならぬ。後は未練。
 潔くあれ。
 決断できなければ、決断しなかったという事以外に何もない。
 決断しなければ、決断しなかったことに責任をとれ。
 決して断て。後は未練。
 結果がどうあろうと決断なくば、ただ未練。
 未練を残せば責任はとれない。
 未練は残すな。未練は見苦しい。

 武道の心得は、仕舞いに、決断へ至る。
 見苦しき行いは、決断がつかないが故である。
 どんなに追いつめられても決断が出来れば、慌てたり、狼狽えたりはしない。
 死ぬのが怖いと自殺する者がいる。
 それは、心穏やかに物事を決する余裕をなくすからである。
 死を覚悟できる者は生きることを考える。
 要は、決断が出来なくなるから、狼狽えるのである。

 どんな状況下でも平常心。
 明鏡止水の心境を保たなければ、見苦しい所業曝すことになる。

 男子は、行動をする前に決断をしなければならない。
 女子は、自分の思惑とは違う結果に対しても責任を負わされることがある。
 しかし、男子は、己の行いに対して責任を問われる。
 故に、男子たる者、己の行いに対して最後まで責任を持たなければ卑怯者の誹りは免れる事は出来ない。

 男児は、女子供を自分の責任下で守り通す。
 それは強いか、弱いかの問題でなく。人としての有り様の問題である。
 守り通せねば、最後まで戦って死ぬまでである。
 守り通すべきは、己の名誉尊厳である。

 男子たるもの、行動を起こす前にこそ決断しなければならない。
 ただ欲望の赴くまま、決断もせずに行動することを恥とせよ。
 根底にあるのは、己の義である。

 弱者をいたぶるのはやめろ。
 それは卑怯である。

 未練を捨てろ。
 そして決断せよ。

 男子たるもの、自分の命、存在をかけて戦わなければならない時がある。
 その時に狼狽えることなく、自分の運命を泰然自若、従容と受け容れる様に修養する事こそが武道の目的なのである。
 迷いを捨て、ただ一途に義のために撃ち込め。

 一瞬に己の全ての気を凝縮する。
 今、この時に永遠は潜んでいる。

 人はいつか死ぬのである。
 死を怖れて生き恥を曝さぬよう。後れをとらぬよう。

 ただ、ただ、静かに、静かに、その時を待て。

 死に死にて生きよ。
 生き生きて死ね。
 死中に活を求めよ。

 そして、最後に、己と対決せよ。
 ただ一人、神と対峙せよ。
 己が信じる神に恥じる生き方をしてはならない。
 神と自己とは一対一である。
 怖れるべきは、神の真実のみ。
 己が信じる神に自己の誠を尽くせ。

 私は、血の一滴まで日本男児なのである。
 我々は、以上のごとく躾られてきた。

 それこそが武道の精神である。




形に学ぶ。形を学ぶ。形で学ぶ。
形について
形式主義

武士道
切腹

植民地教育

規律と秩序
公ということ
規律

法と礼
精神修養

道徳教育
道徳教育について

坂本龍馬がはやっているけれど
千万人と雖も吾往かん

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