教育の理想を求めて
精神修養
逆境にある時、人生の岐路に立たされた時、危機に遭遇した時、人は決断を迫られる。
その時こそ、本来、教育の成果が問われるのである。
だからこそ、精神修養は教育上不可欠な事なのである。
精神修養などというとすぐに精神論に結び付けられ、安手の根性ドラマに仕立てられてしまう。
また、精神論は、短絡的に軍国主義や全体主義、封建主義に結びつけられやすい。
頭から否定してしまう人も多くいる。しかし、それは誤解である。
しかし、精神修養が一番求められる場面は、決断にある。
自分が人生の岐路に立たされた時、逆境にある時、失敗した時、志操を試された時、平常なる精神をいかに保てるかそこに精神修養の必要性がある。
欲望は、活力である。
私は、欲望を否定しようとは思わない。
人は、欲があるから、向上心も持てるし、発展性もある。
欲は意欲の本でもある。
欲望を否定したら人はやる気を失ってしまう。
問題は、欲望を抑えられなくなる事である。
先日も自分の欲望を抑えられなかったと女性を暴行した事で芸能界から追放されたものがいた。
痴漢をしたと言われて社会的な地位を奪われた大学教授もいる。
不倫問題で失脚した政治家も数知れない。
国家元首や聖職者ですら堕落する者がいる。
性的問題だけでなく、金や地位によって人は争い、また、堕落していく。
たった一度の過ちですべてを失う事もある。
人間はあさましいというか、欲望に弱いのである。
精神修養とは、心を強くすることであり、単純な精神論や根性論とは異質な事である。
考えてみれば個人の大事も、国の大事も個人という立場から見ると同じくらい重いのである。
国の大事を任せられている者が賂や誘惑によって堕落する者がいたり、
自分の弱みで国を売る事がある。
結局、個人の弱みは国の弱みにもなる。
国の大任を委ねられるものは、身をきれいにし、潔くする必要がある。
だからこそ修身から始まるのである。
欲望は、生きる活力である。欲望を否定したら人は、生きる活力を失う。
しかし、欲望を制御できなければ身の破滅を招く。
だから、精神修養が必要なのである。
精神修養こそ人生本来の目的でもある。
いざという時に、重要なのは、意志である。
時間が解決するとか、誰かかなんとかしらてくれるといった他人本意では、事態は打開できない。
よくなるのではなく。よくするのである。
そこで問われるのは自分の意志である。
何とかなるのではなく。何とかするのである。
その時、問われるのは、精神力である。
そして、その時のために涵養しておかなければならないのが精神力なのである。
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