規律と秩序


規律と秩序

 団塊の世代の末である我々は、規律や秩序を頭から否定されて育った。だから、組織や規則を生理的に受け付けられないように躾られた。我々は、やれ反戦だ、反体制、反権力だと何でも反対すればいいと教えられて育った。我々と同世代の人間は、礼儀や作法と言った形式が嫌いである。素直さも、道徳も、権威も、嫌悪する。要するにアナアキーなのである。その典型が北野タケシである。

 そして、我々の同世代の人間が教育界を牛耳った時、学校から規律や秩序が失われた。始礼も終礼もなくなり、そして、チャイムがなくなった。かろうじて、朝礼は続けられているが、それもいつまで続けられるか疑問である。いずれは、式典もなくなるのであろう。
 挨拶も返事も強要されない。それが子供の権利だという。号令は、軍国主義的なのであろう。整列も同じ理由で嫌われている。とにかく、規律というのが嫌いなのである。
 統制をとるなどと言ったらとんでもないことになる。無秩序こそ彼等の理想とするところである。
 戦後、日本で教育を受けた世代からすると礼節は、悪である。礼儀正しい子供を見なくなったというのは、当然である。若い者は礼節がなくなった。成人式が荒れると言うが、若者達から礼節をなくし、成人式が荒れる原因を誰が作ったのかを明らかにせずに、若者だけを責めるのは片手落ちである。礼節がなくなったのも、成人式が荒れるのも、戦後教育の成果が現れているだけである。

 大体、古典と言われる時代劇や西部劇で、悪党となるのは、無法者である。放蕩無頼の徒である。法を守って正直に生きている者達を悪党とはしない。反体制が許されるのは、権力者が無法者だからである。つまり、強者が弱者に法を押し付けていながら、強者が法を守ろうとしないからである。権力者側に法も正義もないから、体制に正統性が失われるのである。

 ところが、戦後生まれの者はアウトロー、反社会的なことこそ美徳だと教え込まれた。体制に反対することは、反戦に繋がると思い込まされた。だから、戦後育ちにとって無頼こそ、叛逆こそ美学なのである。何事も逆らえばいいことになる。それを教育の現場で躾られたらたまった物ではない。
 幕末の志士もただ体制に叛逆したことばかりが誇張される。その根底にある憂国の志は無視されるのである。時の体制側に付いた者達は、ただ体制側だという理由だけで悪と決め付けられ、一切の名誉も正義も認められなくなった。
 不道徳で、退廃的な行為こそが真実で、道徳的で、純粋な行為などありえない。それは偽善である繰り返し、繰り返し刷り込む。この世の中は、薄汚く。人間を信じる者は馬鹿だ。人を見たら泥棒と思え。それは、戦前の記憶にまで遡り。この世は悪に塗(まみ)れ。
 理想や正義なんて綺麗事に過ぎないと言う思いを植え付けられた。
 唄う歌も抵抗の歌、反抗の歌である。国威発揚の歌など、極悪な歌である。中には、戦闘的な反戦歌等というのもある。

 しかし、私の父は軍歌が好きだ。軍国主義の中で育ち。一番酷い目にあったはずの父が辛い時に口ずさむのはなぜか軍歌である。なぜであろう。
 確かに、戦前の軍国主義教育も強烈だが、戦後の反軍教育も猛烈である。

 戦後教育を受けた我々世代は、忠だ孝だなんて恥ずかしくて言えない。愛国心なんて時代錯誤と言われそうで口にも出せない。男らしくなんて言ったらつるし上げを喰らいそうである。
 忠義や高潔な話しなんて低俗、エログロナンセンスは、高尚だとどこか転倒した価値観を我々の世代は、植え付けられた。要するに、変態教育がまかり通っているのである。

 なぜ、規律や秩序は否定されたのか。それは、戦前の日本人は、規律がとれていたからに相違ない。規律がとれていて、一糸乱れずに突入してくる。敵からみればこれ程怖ろしいものはない。その恐怖心は戦後も敵となった国々から失われなかった。だから、かつて敵国の人間は、徹底的に規律をなくそうとしたのである。その為に、教育とマスコミを総動員した。

 規律とは、何か。それは集団行動の要である。規律がとれている集団は、爆発的な力を発揮する。規律のない集団は、弱者である。故に軍は当然に規律を強化しようと心懸ける。しかし、規律を強化しようとするのは軍ばかりではない。あらゆる組織や社会が規律を求める。規律が秩序をもたらすからである。
 規律は、ルール、即ち、によって保たれる。組織や社会には、掟が必要なのである。
 ルールによって集団の能力は最大限に発揮される。又、組織を構成する者にとってもルールは、その者の能力を最大限に引き出す。だからこそ、組織や社会は秩序を重んじるのである。その好例が近代スポーツである。

 危機に遭遇した時、組織にとって団結と統制は、組織や社会の存亡を制する大事である。故に、組織は、団結と規律を重んじる。

 ルールや規律が組織の能力を最大限に引き出すとすれば、敵対する組織や勢力は、ルールを乱し、また、相手の規律や秩序を乱すように働きかける。
 なぜ、戦後の日本において規律や秩序が軽んじられたのか、それは、日本人の規律や秩序が乱れることによって誰が特をするかを考えれば解る。

 規律や秩序は、集団生活や集団活動にとって不可欠な要素である。故に、社会に属す者は、その社会の掟、規則、法に精通し、規律や秩序を護るように躾るのは当然のことである。又、規律や規則を破る者が罰せられるのも必然的な帰結である。 

 規律や秩序は、集団生活や集団活動によって養われる。一人前の社会人になるためには、組織的意思決定や組織の原則も体得する必要がある。そこにスポーツ教育の重要性がある。スポーツを通じて学ぶのは、ルールの尊さと規律の重要性、そして、スポーツマンシップ、即ち、規律、道徳である。

 かつての教育には、座学と修行があった。今日座学ばかりがもてはやされて、修行が忘れ去られている。又、修行の持つ意味も取り違えられている場合が多い。修行は人間形成のための手段である。しかし、教育の本来の目的は何か。それは人間形成にあるはずである。人間形成が促せない教育は意味がない。

 規律や秩序を重んじられない教育なんて何の価値もない。教育の重要な目的の一つは、一人前の社会人としての常識や素養を身につけさせることにあるのである。だからこそ、規律や秩序を身につけさせる事は教育の大事な目的の一つである。






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