教育の理想を求めて

法と礼


世の中、社会は、仕来りや作法、習慣といった何らかの暗黙の決まりごとがあって成り立っている。
法や規則といった明文化された決まり事もあるが、そればかりでは人間関係がギクシャクしてしまうので、柔らかい部分として礼儀作法、仕来りといった不文律な部分があるのである。卵の黄身と白身みたいなものである。
礼儀作法はそういう事なのである。

成文化された規則や手続きだけになったら、社会や組織は硬直的で機械的なものになってしまう。だから、規則や手続きで処理できない曖昧とした部分を礼儀作法、行儀等によって補うのである。

礼儀作法、仕来りは、一律ではない。絶対な事ではなく。その社会、集団の習慣や決めごとに基づいている。基本的に、根本の基準は、真偽、善悪ではなく。美醜である。

古来、法を重視するか、礼を重視するかは、世の中、社会の核心的課題だった。
それを現代社会は、法治主義と乱暴に片付けようとしている。きわめて野蛮である。
どちらかが絶対というのでは、それぞれの役割を認めたうえで、その範囲を特定する事が重要なのである。

規則や手続きに対して誤解している人が多くいる。
それは、規則や手続きというのは、煩わしくて面倒くさいもので余計なものいらない事、形式的な事だと思い込んでいる人たちである。
規則や手続きが煩雑で煩わしい、鬱陶しいのは、規則や手続きの在り方の問題で、規則や手続きの存在意義の問題ではない。
規則や手続きというのは根本的には担当者や当事者を守るためにある。

報告や事前承認は、担当者を守るためにあるのであって管理者、責任者を守る者ではない。むしろ管理者や責任者を制約、牽制する事になる。

報告を受け、指示を出すのは、管理者、責任者の責務であり、義務である。

物事には順序・手順、筋道がある。
物事の順序や手順、筋道が礼儀作法の基礎となる。
物事の順序、手順、筋道は、段取りの基礎となる。

礼儀や作法は、順序・手順、筋道を洗練し、様式化した事だといえる。
礼儀や作法を蔑ろにすることは、段取りや手順が乱れや、崩壊を招く事にもつながる。
最悪の場合、組織・社会の秩序を破壊させてしまう事にもなる。
現実に、学校は、学級、教室の崩壊を招いている。

法は、権力者のための道具ではない。
法は、むしろ権力者を制約する手段である。

法は、本来国民を守る者なのである。
法は、本来弱者を守る者なのである。

故に、法は、法として独立してことでなければならない。
法がそれ自体で独立してなければ、法の解釈は力関係によって左右されてしまう。
故に、法は、それ自体として完結している必要がある。

法の正当性の根拠は手続きに求められる。
法治主義は、手続きに基づく思想である。

法は、社会の決めごとの骨格となる部分である。
法は、融通が利かない。明文化されたことを論理的に追及していく部分になる。
しかし、日常的な細々とした処理は、状況や環境に合わせて柔軟に対処する必要がある。それを司る部分が不文律である礼儀作法である。




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