教育の理想を求めて

チームワークの基本


世の中には、暗黙の決まりごとがあってそれを基礎として成り立っている。
世の中というのは社会である。
社会というのは、人間の集まり、集団である。

それ故に、世の中の決まり事の本質は、集団生活を維持するために必要な事柄である。
社会が社会として成り立つためには、社会人一人ひとりが守らなければならない決まりが必要となる。決まり事がないと社会は一つの全体として維持する事ができなくなるからである。
世の中、社会は、何らかの決まり事、不文律を土台にして成り立っているが、その決まり事や不文律は一律一定、普遍的、不変的な事ではない。自然法則とは違い人為的な事柄なのである。

集団生活で求められるのはチームワークである。

子供たちが集まってバラバラにテレビゲームをしていてもそれは集団であってチームではない。つまり、チームワークが働いていないのである。
それに対して子供が集まって缶蹴りをして遊んでいたらチームワークが働いている。
人が集まればチームワークが働くというわけではない。集まった人たちがそれぞれ何らかの役割を果たし関係づけられていて、共同で仕事をしている時、チームワークは働くのである。
缶蹴りとか、鬼ごっこのような遊びを通じて子供たちは、チームワークを学んできた。今は、そういったチームワークが働く遊びが廃れてしまった。
チームワークを知っている子供たちの虐めとチームワークをしらない子供たちの虐めとは異質な事である。なぜならば、チームワークを知っている子供たちの虐めはチームワークを前提とした虐めなのに対してチームワークを知らない子供たちの虐めはチームを前提としてないからである。チームワークを知らなければチームとしての抑制がなくなる。

我々の世代は、三人集まればチームができた。自ずとそれぞれの役割が決まったのである。誰かが誰かをいじめたとしても限度を超えたら泊め役が出たし、世話役みたいな人間もいたのである。だから、五人十人集まってもチームができない人間関係というのが信じられない。

不思議な事に、現代の日本の学校ではチームワークを頭から否定している。しかし、チームワークができなければ教室はまとめようがなくなる。
チームワークでは、チームで決定した事には、従うというのが原則である。
ところが学校では、それぞれ個人の考えは違うのだから従う必要がない。強制は悪だと教える。それは、学校というのは、集団だという前提を全く無視なければ成り立たない。
そして、個性とか、主体性とは、人と違う事をする事と教え込む。そのうえで自分の意志を持てと刷り込むために、ことあるごとに全体の決定に反する、あるいは、逆らう行動をとる者がでるようになる。しかもこのような行動というのは、無意識な次元にまで浸透しているために、彼等は、全体の意志に逆らったり、抵抗しても自分が逆らっているとか、抵抗しているという事さえ自覚していないのである。
全体の決定に一人でも反する行動をとればその瞬間にチームは崩壊するのである。
故に、チームワークを重視する組織、スポーツ、警察、軍隊、組合は、この様な行為を敵対行動と見なして、厳罰を持って対処する。

自分の考え意志をもって全体の決定に従うという意味であり。何事にも従えとも、何事にも異論を持てという意味ではない。自分の考え主体性を持たなければ、全体の決定に従えないという意味なのである。

組織は部分が全体の動きに対して阻害や齟齬をきたすと認識されるその部分に対して全体の動きに沿うよう圧力をかけるような仕組みになっている。最悪の場合、全体は、全体に反する行動をとる部分を排除しようとする。

チームワークを成り立たせているのは、信頼関係だという事を忘れてはならない。
指示・命令、決め事、約束事、ルールを違える事は、信頼関係そのものを失わせてしまう。それはチームを土台から突き崩してしまう事になる。

チームワークは、チーム作り、組織づくりから入る。チーム作りというのは、共同作業を通じて行っていく。一人の人間が頭の中でチームを作ってもチームができるわけではない。また観念的に役割を設定して分担しても、チームが形成されるわけではない。
そこに、計画の持つ意味がある。それを理解しておかないと計画立案の意味を理解することはできない。

担当者と指導者の違い。
担当者は仕事を考え、指導者は人を見る。

チームワークには、基礎がある。その基礎を覚えないとチームワークはできない。
そして、チームワークの基礎は、社会生活の基本である。

故に集団活動をするためには、集団活動の基礎を覚える必要がある。
集団活動の基礎は人間関係に由来する。

引きこもりやニートが増える原因の一つに人間関係、ひいては、集団生活の基礎を身につけていないという事がある。

社会人として必要な最低限の基礎を身につける事が要求される。

最近、チームワークの意味を理解していない人が増えている。
チームワークというのは、一つの仕事をチームでやる事を意味している。

つまり、チームワークというのは、一つの全体があって部分が成り立っている仕事を言う。

チームは、部分の寄せ集めを言うのではない。
チームワークというのは、分担して仕事をする事だと勘違いしている。
一人でできる仕事でもチームでやる事である。

チームワークの基礎と個人の仕事の基礎とは違う。
チームには、チームとしての働きがある。この点を理解しないとチームワークはできない。
基本的な違いは、チームはチームとしての場があると言う点である。

例えば、野球には野球独特の場が想定されているという事が前提である。そして、想定される場は人為的な場であり、場固有の力を予め設定し、働いている場を設定する事で成立するのである。
この場を力を支配しているのは、審判であり監督ではない。監督は、この場の外にいて外から指示を出すことが決まりである。監督も野球において想定された場の中では、その場の規則に従わなければならない。なぜならば、ゲームを支配しているのは、ルールだからである。絶対なのはルールであって監督ではない。
監督はルールに従ってチームを統制しているのである。
これが近代的チームワークの基本である。

ここでいうチームというのは、組織である。
故に、チームワークを理解するためには、組織を理解する必要がある。

組織というのは人間の集団である。
組織は、何らかの力によって関係づけられた人間の集団である。
人間を関係づけるために、組織は何らかの力が働いている。
この組織に働く力の根源が規則や契約といった決まり事なのである。

全体には、部分の働きの総和以上の働きがある。

組織は、何らかの力によって関係づけられた人間の集団である。
組織全体は、組織を構成する一人ひとりの人間の働きの総和以上の働きをする。
そのためには、一人ひとりの力を引き出すための関係がカギを握っている。
組織は、部分の働きより全体の働きが重要なのである。
これは、全体のために部分を犠牲にしろという意味ではない。全体の働きに部分の働きを合わせる必要があると言っているのである。

組織的に認識し組織的に理解し組織的に決定する
自分ひとり理解しても組織的には役に立たないし、自分一人では何も決められない。それが組織である。

組織は、一人では解決できないように何もできないように仕組まれた仕組みなのである。一人で解決しようとしたら、確実に、組織の圧力によってつぶされる。
指示・命令というのは、単純明快で誰であれ理解できる事、いうなれば馬鹿な事、些細な事の積み重ねなのである。そこで迷ったり、悩んだりしたら、精神的に追い込まれてしまう。そうなったら、組織を抜けるか、自分の考えを変えるしかなくなるのである。
組織は組織なのである。

作業に移ったらなるべく考えないで済むようにする。野球で言えば、試合が始まったらボールをどこに投げるかをいちいち考えていたら頭が変になる。作業に入ったら、直感的に即断できるように日頃から心がけ、場合によっては訓練、練習をする。

仕事をチームでやる時は、何がわかっていて何がわからないのか、何ができて、何ができないかを見極める事が重要なのである。
例えば経営分析をしろというのは、わかるが、経営分析のために何をしたらいいのかがわからない場合は、まず、なぜ、経営分析をする必要があるのか。経営分析の目的を理解しておく必要がある。その目的が理解できなければ経営分析の意味も理解できないのである。基本的にすべての事がわかっていることはないが、全ての事がわかっていないという事もないのである。全てか無かという二者択一的な考えに落ち込むと実務的に解決する事ができなくなる。

チームワーク上理解するというのは、個人的に理解する事は同じ意味ではない。チームで理解する事は、チームが同じ情報や知識、概念、構想、目的を共有する事を意味する。
この点を正しく理解していないと組織上でわかるという事を理解することはできない。
例えば、指導者がいくら理解しても、指導者を補佐する者が何も理解していなければ何にもならない。
指導者にとって自分が理解した事をいかに組織、チーム全体に共有させるかが本質的な課題なのである。
それも、それぞれの局面、局面、例えば、トップ層、管理職層、担当者層、また、管理部門、現業部分等によって理解している程度や範囲を特定しなければならない場合があり。何を共有させるべきかも一律に規定できない。
大局的な考えを末端の者まで理解させておく必要があるか、末端のこまごまとした事まで指導者の耳に入れていいか。それはケース・バイ・ケースである。
特に、指導者の個性考え方に左右される部分が大きい。

また、理解するというのは抽象的な概念や複数の解釈が成り立つようでは、全体の統一性が損なわれ、一体的な行動ができなくなったり、全体を制御できなくなる危険性がある。
チームで一つの考えを共有するためには、誰にでも、理解できる事を実体的にしたものでないと集団で一つの目的を共有することはできない。ことさらに難しい表現や概念は極力避けるべきなのである。
指導者は独りよがりになるとチームを統率できなくなる。
故に、チームワーク上の定義は要件定義でなければならない。要件定義というのは、実態が明確な事象、行為によって外延的に定義する事であり、そのためには、要素や作業を漏れなく、重複なく全て洗い出す必要がある。会議、打ち合わせも、む一律に打ち合わせ会議とするのではなく、必要とする会議・打ち合わせをすべて洗い出すのである。

自分一人、特に指導者が理解したとしても組織では意味がない事が多くある。一番の好例は、目的である。指導者だけが組織の目的を理解していても何の役にも立たないのである。かえって障害にすらなる。目的は、チーム全体が共有してこそ意味がある。

また、言葉によらずに、旗や記章、信号、映像、音楽といった具体的な事象によって表す事も効果的である。
あまり言語ばかりに期待すべきではない。言語も一つの表現手段に過ぎないのである。

組織で問題になるのは、かき混ぜる前の風呂の状態だと言われる。つまり、上ばかりが沸騰していて、下の方は水という状態である。この様な状態を脱するためには、風呂を水をかき混ぜて、全体の温度が一定になるようににする事なのである。表面の温度が熱すぎても全体から見るとかえって危険な場合すらあるのである。


チームワークは、プロセスを共有する事



私は、最近、過程の重要性を思い知らされた。
最初から結果を求めるのではなく、まず、プロセスを共有する事に努めなければならない。
ついつい、結果ばかりを求めがちですが、大切なのは、道筋、過程なのである。
成功者を見る時、成功したという結果ばかりを見てそれに至る道程を見ようとしない。
成功者の一朝一夕に栄光に至るわけではなく。重要なのは、成功に至るまでの過程であり、成功後の在り方である。結果が出た後にどうするカこそ肝心要なのである。なぜならば、結果は、一過程に過ぎないからである。

プロセスを共有するためには、お互い自分のできる事できない事を明確にしてそれぞれの立場・能力に応じて仕事を予め分担しておく必要がある。

組織は、情報系である。
組織は、指示・命令を出し、その指示・命令に基づいて仕事をさせ、その結果を報告させることによって情報を循環させる事で動く。また、情報の循環によって統制、制御される。

つまり、指示・命令にせよ、報告にせよ、情報を正確に聞き取る事がまず求められるのである。

故に、チームワークの基本の基本は、聞き取りである。
要は、聞くことが原則なのである。聞いて聞いたことを正確に再現する。

聞き取るというのも組織的に聞き取ることを意味する。
その点を理解していない、理解できない者が増えている。
組織的に聞き取るというのは、自分勝手に聞き取っていいという事ではない。
それぞれの人間がそれぞれの置かれた立場に従って統一された意志に基づいて聞き取ることが要求されるのである。

一つの話をいろいろな立場や角度で聞き取り検証する事が組織では要求される。
だから、自分のいった事を他の者に書かせたり、復唱させたり、整理させるのである。

計画書だの日程なんて自分一人で作ったり、書いたりすることはやろうと思えばできる。しかし、それは計画を共有したり、実行する事にはならない。
よく間違うのは、計画書や日程を作る事と計画や日程を共有し、実行する事を混同してしまう事である。

注意しなければならないのは、基本的に人間は、集中と弛緩を繰り返している。一遍に全ての事柄を記憶できる人は極めて限られている。
一般に最初に聞き取れる三割程度だと考えられている。どんなに訓練しても一人の人間が記憶できる量には限りがある。
故に、指示・命令にせよ、報告にせよ、一回で全てを理解できることはできないとするのが原則である。

指示。命令にせよ、報告にせよ、相手どの程度正確に聞き取っているかの良否は直後の質疑によって測る事ができる。どの程度相手が理解しているかを測定するのは、質疑応答によってである。なぜならば、相手が記憶した事を直接確認する手段はないからである。また、質疑応答を通じて指示・命令の密度を高めていくのである。

最初の指示・命令が正確に伝わらないのは、指示・命令を出したものも自分の出した指示・命令を理解しているとは限らないからである。
目的や前提に基づいて正確に指示・命令が出せる者は稀である。ほとんどの者は、自分が出し指示・命令の真の意図を理解していない。

作業は、基本的に動作を伴っている。故に、作業は動作によって定義できなければならない。
動作は、行為である。動作には主体がある。動作には目的・動機がある。動作には、始動時点と終了時点がある。すなわち、動作は、期間がある。動作は結果を伴う。これらの要素によって作業は定義できる。

作業には前後がある。作業には順序がある。作業には優先順位がある。

チームワークと指示・命令



お願い、願望、憶測では組織は動かない。
なぜならば、指示されたことが確実に実行されないとその影響は全体に及ぶからである。また、指示されたことが指示された通り実現できないと組織の動きを予測する事ができなくなり、制御不能状態に陥るからである。

組織は、指示・命令で動く。
指示を出さないから組織が起動しないのである。
責任者が席を離れ、出掛けるのは構わない。しかし、指示・命令を出しておかないと部下は動けない。故に、出掛けるなら留守中何をしておくのか、だれの指示に従うのか指示していかなければならない。
今の学校は、自発的に動くと信じている。だから、先生が指示を出す事さえ厭う。だから、教室がまとまらなくなる。教室から秩序や規律が失われ。生徒は先生を尊重しなくなるのである。

先生がいくらお願いしても生徒は従わないのである。なぜならば教室は組織だからである。組織が必要なのである。生徒は先生の指示に従わなければならない。

チームワークは、具体的な作業を共同で行う事によって深めていく。
言葉や議論だけでは真意や構想は伝わらないのである。

指示・命令、決めごとは、守らなければならない。また、言い換えたりもしてはならない。と忠実に再現する必要がある。場合によっては文書化する事も考える。
なぜなのか、チームワークだからである。
指示・命令、決定事項を違えた場合、その影響は組織全体に及ぶ。だから、勝手な解釈や変更は、許されないのである。

指示・命令というのは、発令者だけが作るのではない。発令者と受令者が共同して作る事なのである。なぜならば、発令者は、受令者の事情、能力、状態、予定をすべて把握していない。故に、発令者は、受令者の予定、状態、都合などを聞き出しながら、目的や考えをその過程で共有し、確実に実行、履行できるようにして発令を実効あるものにしなければならないからである。

指示・命令が確実に実行・履行できなかった場合、チーム全体が崩壊の危機に瀕する。

逆らう事ばかり敗戦後日本人は、学校で刷り込まれた。
だから、日本のすべての組織は破綻の危機に立たされているのである。

チームワークの根本は信頼関係である。その事を忘れたら、チームは一日も成り立たなくなるのである。

チームワークで重要なのは、いかにプロセスを共有するかである。この点を忘れてはならない。結果は結果である。

指示・命令も最終的には作業、すなわちむ、動作単位にまで嚙み砕く必要がある。
動作というのは、まず、書く。見る。聞く。話す。触る。
また、持つ、運ぶ、歩く、走る。投げる。受け取る。入れる。出す。
スイッチを入れる。スイッチを切る。操作する。電話をする。会う。約束をする。
金を支払う。金を受け取る。振り込む。
切る。叩く。割る。分解する。組み立てる。
報告。連絡。相談。面談。打ち合わせ、会議。
印鑑を押す。サインする。
といった次元にまで噛み砕く。
そして、最終的には作業によって内容を確認し、検証する。
また、指示・命令は作業単位まで分解されて理解され、検証される。
何をいつまでに、誰がしたらいいのか特定できない指示・命令は、その効力を持たない。実施できないのである。

仕事は計算できる単位に作業を分解しないと段取り組み立てができない。
計算できる作業とは何か。相手の言っている事を理解するのにどれくらいの時間がかかるかは、計算できない。しかし、相手の言っている事を紙に書くのにかかる時間は計算できる。頭の中の構想をまとめるのにどれくらい時間がかかるかは計算できない。しかし、構想を紙に書く時間は計算できる。つまり書くとか、話すとか、聞くとか、見るとか動作に現れる、表す事ができる行為は計測する事が可能なのである。しかし、目に見えない事を計測するのは難しいし、特殊な技術を必要とする。そのような行為を基礎とするのは現実的ではない。

作業に移ったらなるべく考えないで済むようにする。野球で言えば、試合が始まったらボールをどこに投げるかをいちいち考えていたら頭が変になる。作業に入ったら、直感的に即断できるように日頃から心がけ、場合によっては訓練、練習をする。

わかっている者は確認するが、わかっていない者は確認しない。

やる気のある奴は、言わなくてもやるが、やる気のない奴は言ってもやらない。

何が目的なのかをよく考えて、話を進める。
相手の言っている事を理解する事だけが゜目的なのではない。報告する事が目的なのではない。相手の言っている事を理解した上に、それを仕事にしたり、全体に共有させることが目的なのである。
報告が目的なのではない。報告した事によって全体に対応させることが目的なのであり、そのために必要な指示を仰ぐことが目的なのである。
報告を開けるのも、報告を聞くことが目的なのではなく、報告を聞いて次に誰に伝達するか、そして、どの様な指示を出すのかが問題なのである。
例えば、顧客が何を求めているのか、それを自分だけが理解しても、組織が顧客の要求を認識しないと組織としての働きはできない。顧客は、組織に対してどう接触してくるか。顧客の要望を認識したものがそれをどう組織の仕事に置き換えるかが、重要なのである。
打ち合わせの最後には、落とし処をどこにするか問題となる。

わかったと思った瞬間にわからなくなる。
とにかくわからない事はわかるまで聞く。
上に立つ者はなまじ玄人よりも素人の方がいい。なぜならば素人は、わかった振りをしないからである。基本は、子供でも分かるように説明するという事である。
指示、命令者は、指示・命令した事の本質や目的、内容を理解しているとは限らないのである。

仕事上の結論という者を間違って解釈している人がいる。
仕事上の結論とは、作業場の結論である。今日の会議は結論が出なかったというのも仕事上では立派な結論である。
今日の打ち合わせで結論が出なかったので、明日改めて打合せする事になったというように論理を展開できるからである。

結論というのは、仕事をするうえで必要な事柄である。
打ち合わせの報告をする際、誰がどういったとか、あいつが変な事を言うからまとまらなかったとかいうのは結論ではない。今日の打ち合わせで結論が出なかった。これらは状況である。結論と状況報告とは違う。
自分の考えはこうで、主旨はどうだというのも結論ではない。
仕事上の結論というのは、仕事をする上での一つの結末を指して言う。結末を明確にすれば次の作業が組み立てられるのである。

とにかく仕事作業に落とす、結びつけるようにするように心がける。
実務屋は作業、要件によって考えるように躾ける。抽象的な事柄に逃げないよう。要件によって定義できない事のないようにする。

そして、極力作業指示を早く出す。
作業時間が取れるように配慮する。作業時間が取れるよう、打ち合わせや会議を早めに切り上げる。
やるべき事をやってから話をするよう習慣付ける。打ち合わせや会議を中断しても必要な指示を出し、作業に入らせる。作業時間をなるべく多く作る。それが基本である。

最近、コンピュータ技術の発展パソコンの普及によって簡単に計画書や日程等は作ろうと思えば作るのである。しかし、チームワークに求められているのは、計画書や日程表を作る事ではなく。計画を実現する事であり、日程を守らせることなのである。計画を実現するためには、計画書は一人で作るのではなく、その時からチームワークで作らなければ効果がないのである。その点を忘れると計画を作るのが目的ではなく、計画書を作ることが目的となり、計画を作ることが目的となって計画を実行する事が目的ではなくなてしまう。
やたらり精緻な計画書はできても実際に計画を実行に移したり、実現できないという事になってしまう。


物事には順序がある



何を基本として聞くのか。それは事実関係を基本として聞く。
事実関係とは何か。それは、いつ、どこで、誰が、何をと事実に検証できることを言う。
いうなれば、誰もが当たり前で確認できる事象をいう。
例えば、ある会社のシステムを問題とした場合、システムとは何ぞやとか、システムの目的とは何かとか、システムの働きは何かというのは事実ではなく概念である。事実というのは、いつ誰から該当するシステムの説明を受けたのか。何によってシステムの説明がされたのか。何回、システムの説明を聞いたのか。実際のシステムを見たことがあるのか。実際のシステムを動かしたことがあるのかといった事である。
見る、書く、話す、聞く、触る、食べる、動かす、運ぶ等何らかの動作を伴う、あるいは、結びついた事象を言う。
要するに、事実というのは、馬鹿な、不器用な、当たり前な事なのである。
報告するというのは、子供が理解できるように報告できて一人前である。
かつて猿でも使えるシステムを理想とするといそれたが、それこそが本質なのである。

馬鹿にされたくないと、わからない事をわかったとした時、所から嘘が始まる。それは事実に反するのである。
馬鹿にするのは、馬鹿にする方が間違っている。馬鹿にする者の多くの動機は劣等感である。馬鹿にする者は、馬鹿にする程度の認識力しかない。

基礎を身につけるうえで重要な要素の一つは素直である事である。
つまり、わからない事はわからないとする。できない事はできないとする素直さがなければ正確に聞き取ることはできない。

正確に相手が言っている事を理解するためには、基本的な論理の形を習得しておく必要がある。物事の思考、論理には一定の形があり、その形を身につけておけば相手の言っている事の道筋を負う事ができるようになる。
道筋を終えれば、大きな間違いを犯すことが少なくなる。
道筋に沿って論理を推論し、また、再現すればいいからである。

物事には本末、順序、先後があるのである。

組織的な仕事の成否は初期設定にかかっている。初期設定は、チームワークの前提となるからである。
最初に設定されたものを土台にして順序良く論理を展開できれば、相手の考え、指示・命令を再現する事ができる。

前提が違えば内容も変化する。
故に常に前提条件を確認する必要がある。

同じことを聞かれても相手の質問の前提や状況によって質問の主旨が違っている。
緊急時にどこへ行くかときかれのと、暇な時にどこへ行くのかと聞かれも質問の主旨は違うのである。

基本を身につけるといことは、同じことを反復繰り返す。
言われたことを言われたとおりにする。
最初はまねる。
定石を覚え、定石どおりにする。

基礎のできていない者は頑固である。頑固であるうえに自分が頑固であることを認めない。だから基本が身につかないのである。

基本は、基本である。
基本は素直に受け入れる事なのである。
基本との多くは、多くの人の経験を積み重なった上に、妥当だとされる事である。
この点を素直に受け入れないと基本は通用しなくなる。
第二に、基本というのは、それを基本だとしている社会の共通認識の上に成り立っている。その基本を否定してしまったら、その社会の常識に従わない事を意味し、その社会での集団生活に支障をきたす事になるからである。
ただ、注意すべきなのは、基本と善悪は同じ基準ではないという事である。



基本ができていないという事は



基本ができていない人に限って、自分たちは基本がわかっていて基本を守っているのに、自分以外の人が基本ができていなくて仕事がうまくいかないと思い込んでいる。

基本ができていないとはどういう事か。
例えば、会議を設定したと仮定する。仕事の段取りができない者は、会議の日程と参加者がを決めたら会議が開けると思い込んでしまう。せいぜい言って会議の参加者に通知する程度、それもメールで済ませてしまう。会議を設定した者に、会議がどうなっているかを聞くと会議の日にちと場所、出席者をメモ書き程度にして報告する。会議の責任者や担当者も決まっていない。これでは仕事にならないではないか、だれが責任を持つのかと聞くとハァというう感じて聞き返してくる。それ自分がやるんですか言わんばかりである。

例えば、歌謡ショーのようなイベントを開催しようとした時、出演者と開催日時、開催場所さえ決めておけば何とかなると考えているような人が増えている。
イベントをやる事を決めた後、そういう人間にどうするんだと質問すると、開催する事に決まったんですよ。何か文句ありますかと逆切れされるのがオチ。自分たちが何をしたらいいのかを理解していない、できないのである。
仕事作業を洗い出すという事がわからないのである。せいぜい言って歌手との出演交渉をしていますとか、会場の手配ぐらいすればいい。後は当日のは式次第を作っておくかなといった程度で甘く考えて仕事を進めてしまう。
怖い事に、パソコンなどを利用すれば何とか仕事が回ってしまって何とかなってしまうケースがある。そうなると結果オーライで物事の本質が改められないでそれが常識化してしまう。気が付いたら、組織が組織として機能しなくなっているという事態に陥るのである。
さすがに歌謡ショーのようなイベントになれば当日の式次第ぐらい作るとは思うが、社内のちょっとした会議に対しては、式次第なんて何も作らず。遣っ付け本番で臨んでも痛痒とも感じない。
最近大手企業が主催する会議に出席した時、見受けられるのだが、資料のミスプリントは当たり前、簡単な計算ミスや段取りのなさなんてその場で訂正されればいい方である。恥かしいとか、申し訳ないなんて考えもしない。
式次第を準備していないのだから、式次第に沿って資料を準備する事も担当を決める事も考えが及ばない。
会議の事前通知にしても、会議の主催者、責任者担当者を明らかにせず、出席者だけを書いてきたりする。責任者はだれかと質問すると平気で決めてないと答える。それで会議が開けると本気で思っているのである。
その事を指摘してもそんな細々とした事どうでもいいと露骨に嫌な顔をされる。
基本とか、常識以前の問題なのである。

とりあえず会議の式次第を作り、それに基づいて会議当日の構想、イメージを描く。仕事は現実であり、写実的でなければならないのである。仕事は具象、抽象ではできない。

責任者は出世魚のように姿を変える。
準備段階の責任者、実施段階の責任者、後処理段階の責任者の役割は違う。必然的に組織上の立場も変わってくる。責任者がどこに属するかも違ってくる。準備段階でも企画段階と実際の準備段階とでは、組織も責任者も変わるのである。
この様に組織は、段階に応じて変態する。
この点を理解しておかないと組織は硬直的になる。

準備というのは、実現できる状態にすることを言う。例えば会議を開けるようにすることある。

組織はシステムである。情報系である。
コンピューターはそれを動かすソフト、プログラムが事前に設定されていなければ、ただの箱である。組織も、事前に組織を動かす手続き、規則が設定されていなければただの人の集団に過ぎない。
組織を動かしているOSにあたる部分は規則・手続きといった定型業務フローにあたる。それに対して個々の業務を動かしているアプリーケーションソフトにあたる部分は、予算とか、事業計画に相当する部分である。
いずれにしても組織は、事前に手続きや決めごとを刷り込んでおく必要がある。

どんな事業でも最初から儲かるという訳ではない。どちらかと言えば最初は投資や融資に頼るか、持ち出しにならざるえないのである。儲かるようになるまで一定の期間がかかる。利益が計上できるようになるまでの間、収益以外の部分から資金を調達する必要がある。その間、資金元にいかに説明をし納得させるかである。
だとしたら、利益が上がるようになるまでの筋道・計画を明確にしておく必要がある。

基本的に作業は、できる事をできる範囲で、できる人間が執行する事になる。

基本がわからない人は、、できない事をできると言い、わからない事をわかるとする。
しかも頑固である。
わからない事をわからないとする事、できない事をできないという事は、恥ではない。むしろ勇気のいる事である。
わからない事をわかったとして取り繕うえば、嘘になる。この様な嘘が綻びると組織全体が分解してしまう。
わからない事、できない事から始まるのであり。最初からすべてが理解されているわけではない。
それこそわからない事をわからない。できない事をできないとすることが基本なのである。





チームワーク
管理はプロセス
指示・命令
反権威・反権力・反体制という思想
組織は情報系
仕事の論理
執務要領
指導要領
社会に出て困らないようにする
組織の原則
組織とは
組織嫌い
情報は縦の流れだけではない
組織的意思決定
物事には順序がある。
仕事の基本
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