植民地教育


 かつて、日本人は誇り高かった。故に、誰にも屈せず自国の独立のために戦い抜いたのである。
 日本を隷属させるためには、日本人の誇りを失わせなければならない。
 そこに植民地教育の目的がある。

 植民地というのは、一切の主権と独立を認められていない地域を言う。故に、植民地というのは、一定の地域を指して言うのであり、国家や国権は認めらていない。そこの住む者は、自治権も、人権も、土地財産の所有権も与えられていない。つまり、差別されているのである。

 植民地教育とは何か。それは、徹底して自己否定を基礎とし、無条件の隷属と服従を受け容れさせることである。
 つまり、主体性と独立心を削ぎ落とし、依頼心と依存心を植え付けることにある。
 その為には、人間としての尊厳を一切認めないことである。必然的に差別主義に結びつく。

 植民地教育というのは、両刃の剣であることを忘れてはならない。相手の尊厳を傷つけるが自分の尊厳も傷つけられる事を念頭に置いておく必要がある。

 植民地教育は、必然的に利己主義(egoism)になる。利己主義と個人主義(individualism)とは違う。個人主義というのは、自己中心の思想である。それに対してエゴイズムとは、個人を尊重しているように見せ掛けて自己を喪失させる思想である。
 また、個人主義とは、公と私を一体的に捉えるが、エゴイズムとは、公と私を分離し、対立的に捉える。
 つまり、エゴイズムは、自己存在の根拠、又、自己存在の位置付けを欠いている。その為に、今年との関連づけがされていない。
 個人主義も利己主義も自分さえ善ければいいと言う。しかし、個人主義におけめ自己善とは、公と私とを関連付けることによって成り立っている。それに対して、利己主義には、公という観念が欠落している。
 戦後の日本人に対する学校教育は、自分さえ善ければ良いの後に、わざわざ、他人なってどうなってもいいと付け加える。即ち、自分さえ善ければと言う文脈と他人なんてどうなっても良いという文脈を同義的に扱って教えているのである。

 植民地教育を行う場や機関は、主として公立学校とマスメディア、組合である。
 自分は、組合運動を頭から否定するのではない。組合運動を政治闘争の道具とするから話し合いができなくなるのである。口では、労働問題と言いながら、結局、政治闘争にすり替え、言論の自由を楯にとって敵対する者の言論を封じ込めてしまう。

 植民地教育の先兵となったのが、所謂、焼け跡派、無頼派と言われる世代であり、その後に続いたのが、全共闘世代、団塊の世代である。
 与党にせよ、野党にせよ国家国民を顧みず政争を繰り返している世代である。つまり、今の政治の指導者達の世代である。彼等は世代交代を叫びながら決して自分達の次の世代を信用して委せようとはしない。

 彼等の特徴は、自分達は、戦争へ行ったわけでもない癖に、被害者意識ばかり高く。反戦、平和とかけ声ばかり。戦争の犠牲者達を馬鹿よ、間抜けよと嘲笑い。その上、戦前、戦中の人達が築き上げた資産を食い潰し。自分達は言いたい放題、やりたい放題して。社会や制度を壊すだけ壊し。終身雇用の恩恵に浴して、家のローンの支払も終わり、高額の退職金をもらって、年金を満額支給され。上の世代を批判するだけして、下の世代を馬鹿にするだけする。それでいて、自分達だけ良い格好しているだけで、何の責任もとろうとしていない。とにかく、独善的でエゴイストが多いという事である。間違いを指摘されるとすぐにそれが悪いかと開き直る。又、感情的で凶暴になる。自分達は、非暴力と言いながらである。自分達は不道徳な行動をしながら周囲には道徳を強要する。北野タケシなどその典型である。
 破壊するだけ破壊して何も創造的なことをしてこなかった。
 その結果、若い世代にしわ寄せが全部きている。彼等の次の世代は無気力に陥り、リストラされ。40代、30代は、派遣問題が起こり、20代は仕事さえ見つけられない。

 彼等は、反省とか、悔い改めると言う事をしない。常に、自分達は正しく。間違っているのは、世間、大人だと言い張る。自分達が大人になってさえも・・・。つまり、いつまでも責任ある行動がとれないのである。他人の意見を尊重しろと言いながら、結局、独善的に自分の意見を押し通そうとする。自分立場ばかり主張して相手の立場を考えない。

 叛逆、反抗を美徳とし、他人を批判し、反対だけしていても許されるという立場は責任さえ問われなければ、居心地が良いのである。自分の考えなどうでもいいし、なくても良い。ただ相手に言っている事に反対さえしていればいいのだからである。
 それが何よりも危険なのは、家族や社会、企業、国家を分断し、歴史や文化を断絶してしまうことなのである。自分自身の主体性や自律性をも分裂させてしまう。つまり、主権や独立を一時的にも喪失してしまう。
 何でも反対するという事は、アイデンティティや統一性を失わせる行為だからである。人と人とを背かせ不信感を撒き散らすことだからである。

 日本の学校教育の巧妙なところは、教育者自体に反体制を装わせていることである。それは、学校教育の場で反体制派を黙認すれば、いとも簡単に実現できる。思想教育だって可能である。

 戦後の学校教育では、他人の意見を尊重しろとしか教えない。他人の意見を尊重するためには、自分の主張を明確にする必要がある。先ず名を名乗れである。自分の考えがハッキリしていてはじめて他人の意見を尊重することができる。それなのに、ただ、他人の意見だけを尊重しろと教える。その為に、戦後教育を受けた者は、自分の意見が持てなくなっている。その上で教師は、自分の思想を植え付けていく。これも洗脳教育の常套手段である。
 思想ではないと自分達に都合の良い思想を刷り込んでいく、そして、自分達以外の思想を中立公正の名の下に排除していくのである。そして、主体性を奪っていく。

 また、何事も先ず疑ってかかれと教えられる。批判的に考えろとも・・・。要するに、何も信じるなと教えるのである。素直さとか、正直というのは、馬鹿なのだと学校で教える。そして、体制や権力、権威に逆らえとも教え込まれる。その典型的対象が国旗、国家に対してである。それを公立学校で刷り込まれる。学校では、国民が結束することは、体制に逆らう時だけしか認めないのである。

 規律や統制という言葉、忌避される。使ってはならない言葉である。故に、号令は教えられない。時間厳守も強制的であると否定される。間違いを指摘したり、叱る事も許されない。

 人権は、加害者だけにあって被害者には認められない。
 言論の自由も反体制主義者に認められても、権力者や体制側にはない。

 暴力は、悪い。とにかく暴力を振るったら、無条件で謝る事、それが現代学校教育の鉄則である。
 相手が自分や自分の友達、両親の名誉を傷つけたとしても、相手の不正な行為を正した結果だとしても、相手の挑発にのったとしても、理由いかんによらず、暴力は悪い。だから謝れと教え込む。
 しかも、その暴力には、言葉の暴力まで含まれる。相手が嘘をついて自分の信用が傷つけられ、それに抗議するつもりで言った言葉も相手の受取方では暴力となる。それでも謝れと学校では教え込む。それは、教師や親に対しても同様である。だから、何が何でもすいません、すいませんと謝るしかなくなってしまう。
 その果てに言葉狩りである。どうやって子供達の名誉を守ればいいのであろうか。

 ところが、暴力は駄目だと言っている当人達は、極めて暴力的なのである。暴力的に自分達の主張を押し通そうとする。何せ、暴力革命を窮極の手段としている集団なのであるから。

 何が何でも暴力は悪だと教える。自分や家族の生命・財産を守るためでも、名誉を守るためでも暴力を振るってはならない。無抵抗主義を貫くことが憲法で決められているという。著名な野坂や田原総一郎は、他国が攻めてきたら、自分は家族を棄てて逃げ出すか、妻子を侵略者に差し出すと臆面もなく公共放送を使って公言する。
 それは、日本の自由と独立、主権を最初から認めていないことを宣言するに等しい。

 戦後の日本人は、とにかく謝ることばかりを教えられる。とりあえず謝れば何でも許されると思い込まされている。
 故に、異常なほど指導的な立場の人間がメディア上で謝らされる。何がなんだか解らなくても、誰に謝っているのかわからなくてもとりあえず謝らなければ気が済まない。その様に社会もメディアも仕組んでいる。そう仕組む意図がどこにあるのかを考えれば、その国や社会の責任者や指導者の権威を著しく傷つけることにあることは歴然としている。国家や企業の長が謝ると言う事は、国民や企業全員が謝罪するのと同じ事だと言う事を故意に理解していないのである。これも植民地教育の成果である。

 すいません、すいませんと謝ってばかりいるとすいませんという言葉が口癖になってしまう。
 口癖になりその人の考え方の枠組みまで浸透し、謝ることがその人の一つの思想のようにまでなってしまう。
 最後は、人格や体質まで謝ることが全てであるようになる。何も悪い事をしてなくてもとりあえず謝ってしまえという発想になる。
 謝ったところで、自分の非を認めていないのだから、相手も本心から許すことはない。又、謝れという事になる。そして、いつの間にか、誇りも意地もなくなり、卑屈さと隷属を受け容れいくことになる。
 これも一つの植民地教育である。

 これでもか、これでもかとお前たちの先祖は悪い事をしたと言い聞かせ。そのうえで謝らせる。そして、お前たちは劣等民族なんだ。隷属、服従するのが当たり前なのだと刷り込んでいく。また、隷属し、服従する方が楽だと言い聞かせていく。自分たちの力だけで主権や独立など護れやしないと思い込ませていくのである。誇りや自尊心を徹底的に叩き潰すのである。
 自分の国や先祖、祖父に誇りを持たせないように、歴史や伝統を否定するようにもっていかせるのである。

 反対に、戦前の日本人は、何の主体性もなく、体制に従ってきた被害者のような印象を持たせる様に努める。悪いのは全て為政者、権力者である。戦前の日本人の多くは、単に強制的に戦わされてきたのだというように吹き込まれる。それではまるで戦前の日本人は馬鹿である。戦前の日本人は、命懸けで国を護り、だからこそ、今の日本の繁栄がある。戦後の日本の繁栄を享受している我々が戦前の日本人を侮辱することが許されるであろうか。戦うには、戦うだけの理由や原因があった。その原因を明らかにした上で、反省すべき点は反省すべきなのである。一部の権力者の暴走と片付けるのは容易い。しかし、それでは、あれだけの犠牲を払って実現した今日の日本の繁栄の源を理解することはできない。
 今の日本人より戦前の日本人の方が余程、自分達の思想や哲学に直結した生き方をしてきた。戦前、戦中の日本の庶民は、被害者であるかの如き教育は間違いである。彼等は、彼等なりの信念に基づいて生きてきたのである。今の日本人の方が余程主体性がない。誇りがない。
 戦前の日本人には、少なくとも、使命感があったし、信念も、道徳もあった。今の日本人が彼等を批判するだけの信念や使命感を持ち合わせていると言えるであろうか。
 戦争を繰り返したくないのならば、ただ、反戦、反戦とお題目を唱えるだけでなく。戦争の本質を理解する必要がある。被害者意識に囚われてばかりいて、戦争は厭だ、戦争は厭だと感情に訴えるだけでは、平和を維持することはできないのである。

 今日の日本の教育にはまやかしが多い。大体、自由と言い、平等と言うが自由や平等の意味すら何ら明らかにしていない。自分達が都合が良いように勝手に解釈し、押し付けているのに過ぎない。
 平等という言葉に潜む差別。平等と同等とは違う。
 違いを理解することが平等への近道である。男と女とは違う。しかし、男と女と違うと言う事と、男と女を差別すると言う事とは違う。男と女の違いが解らなければ、なにが、男と女を差別することなのかも解らない。
 温泉が良い例である。私が子供の頃は、男湯と女湯では、男湯の方が断然豪華であった。これは確かに差別である。しかし、昨今は、この差も解消され、処によっては逆転している。だからといって男湯と女湯のしきりまでなくしてしまえと言うのは暴論である。それこそが平等主義に潜む差別である。

 現代の日本人は、日本人であることをやめようとしている様にすら見える。
 黒髪を茶髪、金髪に染め。義理や人情と言った日本の伝統や文化を頭から否定し、日本語を否定して、和製英語に被れる。日本人としての誇りはどこへ行ったのであろうか。
 日本人であることは、恥だというのであろうか。日本の歴史や伝統、風俗は唾棄すべき事だというのであろうか。

 恩や義というのは、日本人にとって大切な徳目の一つだった。それだけに、恩義は、戦後教育で目の仇にされた徳目の代表である。恩義なんて古くさい、又、封建的だ。だから、我々の世代は、恩義は、恩着せがましいという言葉によって生理的に嫌悪する言葉の一つである。

 言葉に対して生理的な嫌悪感を持たせるのは、言論弾圧、洗脳教育の手始めである。先ず、言葉に対して嫌悪感を植え付け、その背後にある思想や文化を封殺する。
 その典型が、先に出した恩義や愛国心、恥等である。嫌悪感を植え付けるための名分は、封建的、古くさい、不合理、或いは、差別的、自由に反するという言葉である。ただ、実際に封建的であるか、古いか、不合理かは問題とされない。言葉と伴に鍵となる概念が連想され、無意識、無自覚に結びつけばいいのである。
 言葉狩りこそ言論弾圧、洗脳の常套手段なのである。

 髪の毛が薄くなっていることを気にしている人間に禿というのはどうかと思う。だからといって禿という言葉は差別用語だと決め付けるのは、問題である。禿と言うのは、言った人間の人間性道徳の問題であり、個人の問題である。
 それを禿という言葉を差別用語だと決め付け、辞典からも、社会からも抹消しようと言うのは言論に対する挑戦である。しかも、言論とは、無縁なところから、又、言葉尻を捉えるようなところから徐々に本質的な部分へとせっまっていく。洗脳の基本は、一見どうでも良いような、指さないな変更から、徐々に徐々にその人の価値観の根幹を変質させるところにある。
 めくらと目の不自由な人に言うのは、言った人間の人間性の問題である。だからといってめくらという言葉をあらゆる公的な物から抹消したらその言葉自体の背景すら失われてしまう。めくらという言葉を使っているのは、差別している者だけでなく。差別をなくそうとした者も使っているのである。

 意地、面子、面目、体面、意気地もなくなった。意地を張るなと言われ続けた。お陰で意地もなくなった。意気地なしと言われたら子供でも立ち向かってきた。しかし、今では、意気地なしと言われても泣き続ける。面子に拘るなと教えられて、国家の面子も失った。お陰で、領土問題もどこ吹く風。体面を気にするなと言われて姿勢が悪くなった。だらしなくなった。仕事にも意地もなく。面目もない。これでは、覇気など持ちようがない。
 しかし、日本が独立を護れたのは、日本人に意地があったからではないのか。だとしたら、なぜ、誰が、意地や面子、面目、意気地という言葉を日本から消し去ったのか。

 ごくありふれた、普通の、どこにでもある、誰にでも起こりうる出来事とというのも曲者である。人々の良識を逆手にとって洗脳しようとする。その典型的枕詞である。
 しかもさも当たり前のように、ごくありふれた、普通の、どこにでもある、誰にでも起こりうると言う前提をさも自明であるかのようにさりげなく前提とする。この様な曖昧で普遍的な条件を世の中の出来事の全てを前提とされたら、物事の本質は曖昧模糊としてしまう。尚更、極めて特殊で異常な出来事ですら普遍的な事象に取り違えられてしまう。これ自体が洗脳のキーワードになる。
 ごくありふれた、普通の、どこにでもある、誰にでも起こりうると言う前提ほど、抽象的で非現実的な前提はない。ごくありふれたとか、普通とか、どこにでもある、誰にでも起こりうると言うのは、普遍的前提なのである。つまり、何を基準として普通というのか、、どこにでもと言う前提ほど所在不明な前提はなく、誰にでもと言う誰は何を指すのかが曖昧である。つまりこれ程、欺瞞的前提はないのである。
 そして、この様な普遍的事象に基づいていきなりある種のさも当然の帰結のように結論を持ってくる。これは、ある種の結論を刷り込むための前処理なのである。

 我々の子供の頃は、まだ、犬でも三日飼えば恩を忘れないと言った躾がされていた。親の恩、会社の恩、国の恩を忘れるな。恩人を大切にしろと色々な局面で日常的に教えられてきた。しかし、植民地教育をする人間にとって恩や義という思想は、甚だ、都合の悪い概念である。なぜならば、支配しようとする人々が結束し、助け合うための鍵になってしまうからである。だから、恩着せがましい事は辞めろ。恩や義なんて封建思想だと言うことになる。しかし、国民国家こそ恩や義を重視すべきであり、現実に、社会主義国は、愛国心や恩義を鼓舞しているのである。つまり、支配者は自分達に対する恩義や忠誠は求めても被支配者間で恩義を感じられては困るのである。同じ事は愛国心である。自国民は愛国心を持つべきだが敵対国は愛国心を持たれては困るのである。それこそが植民地教育の本性である。

 国益や権力、権威という言葉も当然、言葉狩りの対象である。最近は、国家という言葉も使うなくなりつつある。

 恥という言葉も然りである。恥という言葉の後にあるのは自尊心である。自尊心は、主体性と独立心の要である。誇り高い民族を支配することはできない。だから、恥という概念を持たれては困るのである。恥知らずな人間をもてはやし、その国の手本とする。それも又、植民地教育の典型である。本心は臆病なのに、上っ面を反抗的で、批判的に見せ掛け。その癖、卑屈で、格好ばかり気にして、主体性がなく。何にでも意味もなく同調し、権力には無条件に服従する。そんな人間こそ、植民地の理想的国民なのである。

 孤高にして、気高い人間は、植民地には居ては困る人間なのである。なぜならば、その様な人間は、独立自尊、不羈だからである。

 凛としたという言葉も使われなくなった。凛とした日本人こそ、植民地主義者にとって最も不用な人間なのである。

 戦後の日本は自由になったと言うが、所詮は、家畜の自由に過ぎない。
 今年、宮崎県で口蹄疫が流行し、三十万頭近くの牛と豚が殺処分された。家畜の運命は、買い主の思惑や都合によって決められるのである。自分の力で、自分の身を護れてこそ真の自由を実現される。他人に自分の運命を委ねているかぎり、それは偽りの自由に過ぎない。

 真の自由とは、野生の自由、即ち、自分の身は自分で護ってはじめて実現する。自分の力で生きられない者は、いつかは堕落する。なぜならば、自制心を保つ誇りがないからである。恥を知るからこそ、自分の生き方を糺すことができる。その矜持、自尊心を植民地教育は、粉々に打ち砕いてしまう。だからこそ、人は、主体性や自立心が養われず人に依存して生きていかざるを得なくなる。なぜ、ひきこもりやニートと呼ばれる人間が増えてきたのか。なぜ、鬱病にかかる人間が増えてきたのか。それは自立心や自尊心が養われなかったからである。植民地教育が成果を上げてきたからである。

 公立学校の剣道場や柔道場では、神棚は奉れない。思想信条の自由に抵触するからだそうだ。逆に言えば、今の公立学校に、神棚を奉る自由もないのである。当然、日本人精神を教育する自由もない。

 主権と独立を護ってこそ真の自由は実現される。真の自由を実現するためには、凛とした日本の国造りが不可欠なのである。そして、それこそが教育に求められていることである。

 植民地教育では、とにかく、私がと言う考え方をさせないように仕組まれる。私の家族、私の国、私の人生と言う考え方を棄てさせる。そして、当事者意識をなくさせてしまうのである。私がなくなれば、公もなくなる。我が国という言葉が失われ、この国と言うようになる。日本は誰の国だというのか。日本人の国ではないのか。親子の情に背かせ、友を裏切り、国を裏切らせる。つまりは主体性をなくさせるのである。
 私は、自分の後輩達を見て思う。自分という者をなくしてしまったと・・・。しかも、自分をなくさせた張本人達は、自由だ平等だとがなり立てて本当の自由や平等の意味を解らなくしている。自分を見失っている人間が自由だ平等だと言ってもはじまらないのである。
 独立自尊の精神なくして自由なんてあり得ない。
 自分のことしか考えていない癖に、他人に尽くしているように見せ掛けている。自分と言ってもそれは、我執、エゴに過ぎない。私と公とを対立的に捉えている者が公に尽くすなどと言うのはあり得ないのである。私利私欲と公の利益との見境もつかないのである。単なる我利我利亡者に過ぎない。
 正直に、素直に生きていこうとする者達を孤立化させ、無気力にしている。力のある者に媚びへつらい。弱者をどこまでもいたぶる。自分達は、叛逆だ、反抗だと言いながら、相手には、反論や抵抗の余地さえ与えない。
 しかも、自分達は、権力を握っても、表に出て責任をとろうとはしない。どこまでも反権力者を装う。要は、自分が決断し、そして、責任をある立場に立ちたくないのである。陰に隠れて暗躍する。陰性だからお天道様の下をどうどうとは歩けないのである。現に、大学闘争を主導した人間達は、大学を荒廃させるだけ荒廃させてその再建をしようとはしなかった。次の世代になにも残さなかったのである。だから、大学闘争は、継承されなかった。私は、そんなに今の大学が厭ならば、自分達の大学を作ればいいと主張したのである。
 今、彼等は又同じ過ちを繰り返している。旧政権の過ちをほじくり返すだけで、何ら、新しい国の在り方、構想を示そうとしていないのである。他人の失敗を責めるのは容易い。しかし、国民が望んでいるのは、今、国を良くする方策である。
 世の中に間違った風潮に、不正に迎合しながら、自分は、正しいと言い張り、他人からも善い人だと思われるように振る舞う。かつて、今の日本は、孔子や孟子が最も嫌った郷原ばかりが横行する。
 かつて、北野タケシや久米宏は、過激な言動をとり、社会に重大な影響を与えながら、たかが、コメディアンですよ、タレントですよと自分達の言動に対してまったく責任を負う意志のないことを公言していた。彼等は、常に自分は安全な所にいて、自分の手先を操ろうとする。主体性の責任感もなく。力のある権力者者に媚びへつらう。
 それこそが植民地根性なのである。



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