坂本龍馬が流行っているけれど・・・


坂本龍馬が流行っているけれど



 坂本龍馬が流行っているけれど、それは今の話し。
 坂本龍馬が生きていた時代には、坂本龍馬は、追い回された挙げ句に惨殺されたのである。
 坂本龍馬を褒めそやすのは良い事だが、もっと大切なのは、いま生きている坂本龍馬、隠れた逸材を発掘し世に出すことである。
 死んでしまった坂本龍馬を褒めそやす一方で今の坂本龍馬を潰しているようでは、何の意味があるというのであろうか。

 何事も結果が出てから評論するのは容易い。反対に、結果か出る前にいち早く結果を予測することは難しいのである。

 世の中には、隠れた逸材が数多くいる。
 人を侮り、馬鹿にしているといつ千載に恥をさらすか解らない。

 坂本龍馬を英雄視するのは、良い。しかし、ただ、坂本龍馬を英雄視するだけでは、坂本龍馬の生き様から何も学べない。

 大体、坂本龍馬は、司馬遼太郎が、「龍馬が行く」を著す以前は無名だったのである。
 又、龍馬の華やかな側面ばかりが強調され実像はどこかにいってしまっている。

 明治という時代を作ったのは、あの時代の若者達である。
 その時代の思想や背景を見ずして、ただ、上っ面ばかりをもてはやしても意味がない。

 もてはやしている人間の多くが、儒教も武士道も知らず。
 ただ、今風の民主主義や共産主義、革命主義を当て嵌めて勝手に解釈している。

 坂本龍馬や吉田松陰の切実な思いを知らずに、ただ、格好ばかりを追い求めているのに過ぎない。
 売名行為に坂本龍馬を利用しているに過ぎないと言われてもしかたがない。

 坂本龍馬は、当時、多くの同士もいたが、敵も多かったと聞く。仲間すら信じられないような状況下の中で、志半ばで倒れたのである。
 その壮絶の生き様の向こうに我々は何を見出そうとしているのか。それこそが、大切なのである。龍馬一生は、テレビドラマとは違うのである。

 そこには、壮絶な生と死の葛藤があるのである。

 一人で死のうと思う。

 龍馬のごとき生き方をする者にとって周囲の人間の理解を得るというのは、至難の業である。
 だいたい、自分がやっている事が正しいという保証はどこにもないのである。
 正しいと自分で信じる以外に道はない。
 自分を信じられるかと言えば、なかなかできない。よほど傲慢でないとできない。
 だから、本来、理解者は不可欠である。
 しかし、それを周囲に求めても、土台からして無駄である。
 ここに絶望的な状況がある。この絶望的状況を乗り越えた者だけが、大事がなせる。
 どんな人間だって目の前にいる人間は、ただの人である。
 失敗もすれば、愚痴もこぼす。
 それに、志のある者ほど、周囲から見れば、変わっている人間であり、おかしな人間に見えるものである。
 その証拠に偉大な人間ほど周囲の人間から、変人、奇人扱いを受け、疎まれるものである。さらに、体制に阿るらなければ、迫害や弾圧を受ける。
 仏陀は、両親や妻の理解を得られず。キリストは磔にされ、エジソンは、学校から追い出され、ガリレオは、裁判にかけられ、ゴッホは、狂死し、多くの先人は、餓死したり、野垂れ死んだ。そして、坂本龍馬は暗殺されたのである。
 だから、周囲の人間から理解されようなどという考え方は、最初から捨ててかかるべきなのだ。
 一人、身内や仲間からも見捨てられ、裏切られ、野垂れ死ぬ覚悟がなければ、龍馬のごとき偉業は成し遂げられない。
 なまじ、成功などしようものなら、後々、自分の節操まで疑われるのがオチである。
 自分の行いが認められなければ、自分の志は、遂げる事はできない。そのためには、本来、周囲の人間の理解は不可欠なはずである。しかし、それをも期待できないところに自分を追いやらなれば、志を保つことはできない。
 そこに龍馬の壮絶な生き様が隠されているのである。
 その生き様に憧れるのは、後生の人間の思い込みである。龍馬の生き方に憧れるのはいい。しかし、憧れるだけでは龍馬を理解したことにはならない。
 龍馬はそれでも名が残ったからましだともいえる。明治維新の大業の陰には、名もなき志士たちの屍が累々と隠されているのである。

 二、三十年以前。予算に関して優れた研究をしていた中山聡という税理士がいた。しかし、彼は夭逝してしまった。その結果、彼の優れた著作も散逸し、名前も忘れられてしまった。いくら有能な人間が優れた業績を残したとしても、結局は忘れ去られていく運命にある。名前が残せただけでもましなのである。身内ですら、覚えていてくれはしない。
 多くの著名人が忘れないでと言い残して死んでいった。それが現実なのである。

 それでなくとも、これからの時代は、身内の人間が面倒を見てくれるなんて期待しない方がいい。

 義理とか人情が、古くさくて、あほらしいという世界なのである。
 志を持つといっても目の前にいる人間からすればただのオッサンである。
 何かに志すなどと言うのは、酔狂にもほどがある。当人にしか、否、当人でも理解できない。事を起こせば、家族に迷惑もかける。江戸時代のように規制が厳しい時代では、言論弾圧だって今の比ではない。
 多くの志士は、世に受け入れらずに生涯を閉じる。
 生きている時は、敗残者か、失敗者である。
 人間、志を持って生きるより、世に迎合して生きていた方が、生きやすい。
 経済的な成功もする。名声も得られる。しかし、志に殉じようなどとすれば、ただ、夢想家の世間知らずと見なされる。
 世に阿らずに、信念に従って生きていこうとすれば、世の中からはじき出されるのは、当然の結果である。正職に就けないこともある。貧困の中で死んでいく者も多い。
 中には、龍馬のようにお尋ね者になり、白昼、町を歩くこともままならない者もいる。
 後の秦の宰相である張儀が、自分の進言が受け入れられず、妻子にまで見捨てられた時、「俺の舌はまだついているか。」と尋ねたという故事もある。
 専門知識といっても学校の勉強に役立つとは限らない。
 目先の役に立たなければ、彼らにとっては、役立たずなのである。
 そうなれば、子供にとって親父など、隣のおじさんより始末が悪い。
 理解しろという方が無理なのである。
 少しは、隣の親父を見習ったらと説教もされのがオチである。
 人格まで否定され、それでもなお我が道をいくのか。
 常にその自問自答が続く。
 志士といえども生身の人間である。
 どこかに勤めて平凡で、平穏無事な日々を送りたいという誘惑は常にあるものである。
 しかし、現実には、それも不可能である。
 先の見えない、不安定な日々で、収入も安定していないとなれば家族の理解など求めようがない。
 何様のつもりと馬鹿にされるのがオチである。
 学校へ行けば、なんだかんだいっても学校の先生が一番偉い。
 学校の先生ときたら、アインシュタインに物理学を教えたり、ブッタやイエスに平気で説教をたれる人種なのである。でも、子供にとっては、アインシュタインより、学校の先生の方が偉い。なにせ、先生は絶対の権力を持っている。だから、我々のような凡人では敵わない。下手に教えると怒られてしまう。
 いろいろと教えてやりたい事があっても、相手に見くびられたら何も教えられない。
 指導という者は、相手が望まなければできない。
 だから、最初から家族を捨てている者さえいる。
 しかし、それでは人の道を理解する事はできない。

 世の中の人の成功を成功とは思わない。
 世のため、人のために役立ってこそ成功というのである。
 それは、名誉や富とは無縁なところにある。
 名誉や富は結果に過ぎない。

 やっぱり最後は自分の理解者に看取られて死にたいと思うのが人情である。
 でもそれは所詮叶わぬ夢なのである。
 だから、一人で死ぬ。いつも。一人で死ぬ事を思う。一人で死ぬにしても体を少しでも前に倒して死にたいと思うのである。一歩でも前進を・・・。

 そして、老いである。
 それに、年をとってからガミガミ言われたらたまらない。
 年をとるというのは、哀れな者だ。知力体力いずれも衰え。
 若い者に追い越されていく。
 残されるのは、人間としての矜恃だけだが、老いは、情け容赦なく、人としての尊厳も奪っていく。
 だから、今から一人で死ぬ覚悟をしておく必要がある。

 それに、死ぬ時は、結局、一人になる。

 一人で死ぬといっても、孤独死ばかりではない。
 高額な施設に入っていても誰にも看取られなければ一人で死ぬ事に違いはない。
 不慮の事故で死ぬのだって一人でという事になりがちである。
 酔っぱらいと喧嘩をして死ぬ事もある。
 拷問や迫害によって死ぬ事もある。
 転んで死ぬ事もある。
 だから、一人で死ぬといっても孤独死ばかりを言うのではない。
 イエスは、自分が死ぬ時、全ての弟子が自分を裏切るだろうと予言をした。
 シーザーは、自分が信頼した仲間だと思っていた者に刺されて死ぬのである。

 これだけは忘れてはならない。結局いかなる人間も死という現実からは逃れられない。そして、死に伴う苦痛は、どんな者でも平等なのだと・・・。人君子も拷問され、迫害され、惨殺された例は数多くある。反対に、悪逆非道な者でも、安楽な死を迎える者もいるのである。
 ならば、重要なのは、死という現実ではなく。生きるという思いなのである。自分の信じた事に従って生き抜いてみせるという気概でしかない。
 だからこそ、生きがいは死にがいでもあるのである。
 その気概を失った時、志ある者は、息絶えるのである。

 ただ、今の流行を追いかけ、自らが何のために生き、何に殉じて生きようかとも考えていない者が、龍馬をもて囃したところで何の意味があるのであろう。
 タレントの中には、今龍馬をきどり、龍馬の物まねをする者がいるが、そうやって見せかけばかりをもて囃す事自体、龍馬の生き様を理解していない証である。

 龍馬に憧れるのならば、まず、志をもつことである。
 何かを信じ生き抜く事である。

 何を怖れているのであろうか。
 何にたじろいでいるのか。

 志を持って生きていこうと思うものにとって一人で死ぬ事は、宿命のごときものかもしれない。
 誰にも認められないというのも覚悟のうちである。というよりも、誰かに認められたいなどと思っていたら志に従って生きていくなんてできはしない。
 坂本龍馬の生き様を考える時、志を持って生きるという事がどんな事なのかを思わざるをえない。
 坂本龍馬をちやほや言うのは、後世の人間であって、龍馬の心持ちはすさまじかったのだと思う。
 そのすさまじさの向こうに見えるのが、今の日本である。
 是か否かといったレベルの問題ではなく。何を信じるかといった問題なのであろう。

 この国をよくしたい。新しい時代を自分達の手で切り開きたい。
 それは、先の見えない暗闇の中をただ先を信じて真っ直ぐに駆け抜けていく勇気があっての事である。
 そして、龍馬は言うのである。自分が、全ての身内から見捨てられ、その辺の野原や溝で野垂れ死んでいる姿を絶えず思い浮かべ。それでもなお前に向かって倒れようと・・・。
 その思いなくして、龍馬を語ったところで何の意味があろう。

 結局、最後に、対峙しなけれはならないのは、死である。
 そして、死に伴う苦痛である。どんな人間も死が避けられない宿命ならば、いつかは、その死の苦痛に直面しなければならない。
 だとしたら、苦しみを怖れてばかりいて臆病な生き様はしたくない。
 だからこそ前を向いて死のうとするのである。

 イエスだって人間は、十字架にかけたのである。

 ただ龍馬に憧れるだけでは意味がない。
 キリストを処刑したのも、龍馬を殺したのも、彼らが救おうとして人々なのである。






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