決     断


決    断


 我々は、日常的に決断を迫られる局面、分岐点に立たされている。
 それこそ、何時に起きるか。朝食は食べていくか。着ていく服は何にしよう。靴は何が良いか等と言う事から一日が始まり。
 それから、晩の食事はどうしようとか。風呂に入るかどうか。いつ寝るかと言ったことまで。一日は決断で始まり、決断で終わると言っても過言ではない。
 彼女と喧嘩したけど仲直りの電話をすべきか。
 上司への報告は、口頭で良いのか、文書にすべきか。
 次の道は真っ直ぐ行くべきか、曲がるべきなのか。
 今日、結婚を申し込むべきか。どうする。
 そう言った細々としたことも決断の一つである。
 また、災害や事故に遭遇した時の一瞬の迷いが生死を分けることもある。
 考えてみれば人の一生は決断の累積である。
 そして、その一つ一つの決断の在り方がその人の人生を形作っていく。
 何が正しくて、何が間違っているか、その時その時の状況によって左右され、絶対に正しいと言える尺度などない。
 全て、結果でしか判断されないのである。
 その時、その時は、誰もよかれと思った決断する。
 しかし、結果的に間違いだとされることの方が多い。
 善意で決断したことが取り返しのつかない結果を招くこともある。
 ちょっとした出来心が人生を狂わせる事も屡々(しばしば)ある。
 何気ない判断が大惨事を招くこともある。
 言い訳や、嘘が他人を結果的に陥れてしまうこともある。
 それでなくとも、過ち、失敗は心に深く残り、正しいことや成功は、忘れ去られていく。
 結局、苦い思いしか残らないことが多い。
 苦い思いを打ち消そうとして、酒や快楽に溺れれば、それも又人生を狂わせてしまう。
 だから、人は苦しみ悶えるのである。

 人生というのは、鑿(のみ)、一つで、岩山に隧道を穿つように決断を積み重ねることなのである。しかも、その正しさの証は、結果を待つしかない。

 決断とは、一つを選んで他を捨てることである。

 人間、いつだって決断を迫られているんだ。
 そして、間違えなんて確かめようもない。
 なぜなら、決断したこと以外の結果なんて現れないからさ。
 決断した事以外の結果の成否は確かめようがない。
 どんな決断をしたって悪い結果しか出ない時だって、逆に良い結果しか出ない時もある。
 しかし、それは確かめようがない。
 確かめようにないところ落ち込んだり、有頂天なったりして我を忘れる。
 それでも、その時その時、最善を尽くす以外にない。
 そうなると是々非々は、程度の問題に過ぎないという事になる。

 酒も、煙草も、麻薬だって自分の意志で決めなければ、飲みはしない。
 男と女の関係は、女は望まなくとも力ずくで結ばれることがあるが、男は、自分の意志がなければ結べはしない。
 だから、男には自制心が問われ、又、責任も問われるのである。

 大いなる変化は、緩慢に来る。
 人は、決まり切った生き方をしているつもりでも、老いは必ず来る。
 そして、時は、いつか、必ず誰に対しても重大な決断を迫るのである。
 しかも、その時は、明らかではない。
 いつ重大な決断を迫られるか判らないのである。

 特に、指導者や人の命に関わる仕事に就く者の決断は重い。
 医者は、常に、人の命の選択の緊張を強いられている。
 経営者は、会社の運命の全てが自分の判断に委ねられている。
 政治家の判断は、国家の命運を握っている。

 決断をしなければ、決断したことからの責任から免(まのが)れるように思う込んでいる人もいる。
 確かに、決断しなければ、決断した事による結果からは逃れられるかもしれない。
 だからといって何も決めないと言うのも問題である。それは無責任なだけである。
 不決断は、最大のご判断だとも言える。
 決めないと言うのも決断の一つだからである。

 決断を誤れば人の命にも関わる事さえある。
 また、何気ない決断によって、社会や仲間を破滅させてしまうこともある。
 気の迷いによる決断によって人生を狂わせてしまうこともある。
 そのちょっとした過ちも許されない。
 僅かな違いが、時がたつと大きな違いになることもある。
 生きると言う事は、普段の決断の連続なのである。
 成否を分けるのは紙一重のさなのである。
 悪気があって間違いを犯す者は少ない。
 よかれと思って決めた事が後になって祟ることが往々にしてあるのである。
 どこで間違ったかなどという事は、なかなか、明らかにできるものではない。
 良くいくも、悪くいくも、たまたま、偶然に支配されている場合が多いのである。

 そうなると善悪の本質は、結果よりも心根にあるのかもしれない。
 だから、道徳が大切なのである。
 行為よりも動機が問題となる。

 振り返ってみれば、人生は、過ちばかりである。
 少なくとも、そう思えることばかりなのである。
 思い返せば恥ずかしい事ばかりである。

 人の一生は、思い通りにはならない事ばかりである。

 人生において突破口が開けたと思ったら、大体、引退すべき時が近づいたと思うべきなのかもしれない。

 生きるか、死ぬか。
 死によって人生の全てが清算されるとしたら、この一瞬に全てを賭けて決断する以外に術はない。
 この瞬間に己(おのれ)の全てを投げ捨てるのである。
 死中に活を見出す。
 己の全てを賭けて、己の真実を全うするのである。
 義によって生きる。それが決断の為所(しどころ)である。
 何が正しくて、何が間違っていたかではなく、何を信じるかが大切なのである。
 そして、教育の最大の使命は、信じられる存在、信じられる事を、迷える人々に与えることなのである。。

 一つ一つの決断が過ちだと言われてしまえば、それまでである。
 決まり切ったことを決まり切ったように決めれば問題がないかというとそうでもない。

 大切なのは、どう生きたかと言うよりもどう生きようとしたかである。

考えると言う事
決断力を養うと言う事
決断を学ぶ
決められないという病
やらない理由、できない原因
組織的意志決定
やる気
結婚




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