決断を学ぶ

決断を学ぶ


どんな時にも、どんな状況でも決断できるようにしておく。
それが決断を学ぶ第一歩である。
決められる状態だから決められるのである。
決められない状況におかれたらどんな簡単なことでも決められない。

決断は一瞬でできる。
と言うよりも一瞬でする事である。
迷ったら決められなくなる。

そして、決断は自分でする事である。
最後は、何事も自分で決めなければならない。
自分の運命、生き様は自分で決める。
決断した結果には、自分以外責任をとれる者がいないからである。
自分がしなければならない決断は、自分以外の者にはできない。
自分がしなければならない決断を他人に委ねるのは、決断ではなく服従である。
あなたを服従させようとする者は決断力を挫く教育をする。
日本を支配しようとする者達は、決断力を弱くするよう教育を施すのである。
それを忘れてはならない。
自由と独立を守りたければ、決断力を養うべきなのである。

決断とは、決して断じる事である。
決断とは、鋭く問題に斬り込み、その上で行動を促す事である。

決めると言う事は、一つの事を選択して後の事を捨てる事である。
結婚というのは、一人の人を選んで、後の人との関係を捨てる事で決まる。
それができなければ結婚は成り立たない。
一つの事を選んで決める。後は未練である。
つまり、決断とは未練を断ち切る事である。

決断には、タイミングがある。
つまり、決めるべき時に、決めるべき人が、決めるべき事を、決めるのである。
特に、組織では、決めるべき時、決めるべき人、決めるべき事を予めに明らかにしておく必要があるのである。

決めるべき時というのは、一つではない。総ての事を一遍に決める事はできない。
だから、決断、特に、組織的意志決定では、段取りが必要となるのである。

決断は、心の問題である。
心の平安を保てれば冷静沈着な決断ができる。
心が乱れれば、安定した決断はできない。
平常心こそ冷静な決断を下す上の心構えである。
怨恨や一時の悪感情で決断をしてはならない。
見栄や外聞、偏見は決断を鈍らせる。
それは禍根となるからである。

決断力をつけるためには、直感を磨く事である。

決断力は、理屈で学ぶ事ではない。学べる事ではない。
決断は、修行によって体得していく事である。

一つひとつ直感で決める。それを繰り返す。
些細な事で、一つひとつ意識して決めるようにする。

決断は、実際に決断を繰り返すことでしか養えない。
実践的な事である。

スポーツや武道か好例である。
スポーツでも武道でも当事者が刻々と変化する状況に対応し、自分で判断して行動していく。そのための訓練でもある。

第一感を鍛え、磨き、研ぎ澄ます。
決断は一瞬でできる。

考えてから決めるというのは、間違いである。
決めてから考える。
考えたら決められない。

抜刀の気合いを以て決断する。

決めたら決めた事に責任を持つ。
決めた事によって生じた事に責任を持つ。
決めなければ結果は出ない。
何事もやってみなければ解らない。
だから何事も始めは決断である。
何事も第一感で決める。
不決断も又決断である。しかも不決断こそ最大の誤判断である。

組織活動において決断は重要な意味を持っている。
指導者に求められることは決断である。
又、指導者以外の人間でも判断を間違えば組織全体に被害を及ぼす。
軍隊、警察、消防であれば全滅する事態も想定される。
決めるべき人間が、決めるべき時に、決めるべき事を決められないと、忽ち、組織は機能不全に陥るりである。
組織が機能不全に陥るという事は、その被害が、一個人の問題に留まらない。
場合によっては、組織の構成員が全滅してしまう事にもなりかねない。
だからこそ、責任が生じるのである。
一人で片付く問題は自己責任と言えば良いが、組織はそういうわけにはいかない。
一人のミスが全体に被害を及ぼすのである。
だから、迷惑をかけてない、俺の勝手だろとはいえないのである。
そうなると身勝手な行動や独善的な態度をとる者を組織は排除しようとは炊きかけける。

だから、会議や打ち合わせにおいては、決定権者が決断できるような状態に準備することが求められているのである。その点を理解していない人が増えている。
何の準備もせずに会議や打ち合わせにでることは許されないのである。
何も決められない、又、会議の目的を実現できないくらいなら会議そのものを取りやめた方が良い。
事前に準備をしていなかったり、重要な情報や役割を担っている人間が欠席すればそれだけで、その人間がいなくても決められる事も、かえって決められなくなることすらあるのである。
自分が欠席する場合は必ず自分の代行者を用意し、決定できるように配慮するのが責任ある立場にいる者の最低限の責務である事を忘れてはならない。

今の日本には、妙な平等主義が横行している。
責任者や権限を決めることは、不平等だというのである。
指示、命令を出すこと自体、権威主義的で悪いとするのである。しかも、学校教育の場でこの様な考え方がまともに実践されている。憂うべき事態である。
私なども学生の時は、この様な考えに毒されていた。
人は皆平等なのだからと組織的なことや権威、それが昂じると権限とか責任の一切合切を否定してしまう。権限や組織的職能は差別だというのである。
権限も責任も決められなければ、何も決められなくなる。決められないことで自分の責任も回避できると思い込んでいるのである。そして、誰も決めずに、誰も責任をとらない、それを平等だと言い張る。責任者を決められない、責任者を決めても権限を与えられない、それは、無政府主義であって、平等ではなく、無責任なだけである。
この手の発想は特に学校教育の現場で見受けられる。人でも自発性、自主性を重んじてと言って指示、命令の必要性を拒む。命令は悪だとするのである。
責任者を決めることを差別だというのならば、指示、命令は不必要だというのなら、社会、組織的活動に参加することは許されない。
組織において決めない。決められないというのは最悪事態を招くことを忘れてはならない。
最後は誰かが、責任を持って決めなければならない。

悲観的に準備し、楽観的に判断するそれが鉄則である。
少なくとも常に誰が決めるのかを明らかにしておく必要がある。
たとえ、自分が不在でも組織が機能不全に陥らないように用意するのが指導者の役割てある。

甘く考えていて非常な事態が起こった時に動顛するのでは指導者としての資格はない。非常時、緊急時にこそ指導者は必要とされるのである。

又、物事が決まってから仕事は始まる。決定は終わりではなく、始まりである。
先輩達に決まってからが仕事が始まるのだからなとよく注意を受けた。この点も最近の指導者、管理者達は錯覚している者が多い。結論が出たら総て終わったと思い込むのである。
会議の日が決まったら、会議まで何もしない。やることが決まった瞬間、何もしなくなるなどと言うおかしな現象が往々にして起こるのである。

決めるという事、決断は、決断することで覚えていくしかない。修行である。



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