教育の理想を求めて

補佐役


補佐役がいなければ、リーダーは孤立する。
補佐役が間違えれば、リーダーも間違える。
補佐役が一人だったり、偏っているとリーダーは偏向する。

民主主義の時代になったからと言ってリーダーそのものが否定されているわけではありません。むしろ、リーダーの役割は重要になっていると思います。そして、リーダーがリーダーとしての役割を果たすためには、増々、補佐役の役割が重要となってきています。

組織の中で一番間違いを犯すリスクが高いのは、リーダーである。一つは、リーダーは決断するのが仕事であり、決断する頻度も、回数も、重さも一般社員とは格段の差がある。決断しなければならない頻度が高ければ、当たり前に、間違う回数も高くなる。これは確立の問題ではなく。回数の問題である。
第二に、リーダーは標的にされやすいという事があるし、当然、誘惑も多い。故に、誰もガードしなければ、真っ先に狙い撃ちされてしまう。リーダーが倒されたら組織は機能不全に陥る。リーダーは要であり、中枢、核なのである。

だから、リーダーの盾となり、防壁となる補佐役が組織の命運を握るのである。
旗本や近衛兵が反乱するのが最も危険な事である。

リーダーは、組織の核となる存在であり、厳重に守られる必要がある。その障壁、盾になるのが補佐役である。
補佐役は、リーダーに代って自分たちの考えを説明したり、状況によっては叱られることもある。リーダーは、将棋でいえば王将である。
最近は、何でもかんでも平等で差というものを頑なに認めようとしない傾向がある。
しかし、組織は分業で成り立っていて、其々に役割の違いがある。リーダーとメンバーとでは役割に違いがあることは確かだ。また、組織は、意思決定の仕組みである以上、何らかの意思決定の仕組みがなければならない。全員が対等と言う訳にはいかない。処遇と働きとは違うのである。

補佐役は補佐役に徹した方がいいのだが、昨今の組織では、補佐役がリーダーさせられてしまう例が多くある。そして、それが組織の機能不全を引き起こす原因に往々としてなるのである。

リーダーと補佐役の仕事は根本が違う。リーダーの仕事は、究極的にいえば決断であり、補佐役の仕事は、リーダーが判断を間違わないように補佐する、つまり、情報を集めたり、調査したり、状況、情勢を判断したり、計画を立てたりする事である。
つまり、リーダーは、全体を総覧し、補佐役は、細部、詳細を詰める。補佐役が準備し、リーダーが決断する。それがリーダーと補佐役の役割分担である。

リーダーが、今、何を問題としているのか。何に悩んでいるのか。何を困っているのか、公私、関わらず理解していないと補佐役は務まらない。そこが問題なのである。
昨今は、仕えるという事自体が、隷属とか、封建主義的な考えに結び付けられて、悪い事のように考える風潮がある。他人に奉仕した対価として報酬を得る事は悪い事ではない。むしろ、市場経済では当然の行為である。対価をとることが悪いとされたら市場経済は成り立たない。市場価値が定まらなくなるからである。
しかし、他人のために働くから報酬を得られるのである。それが市場経済の鉄則であり、自分に報酬与えるのは、誰か。それが客であり、主人なのである。
そういう人間関係を否定してしまったら社会も組織も築けない。問題は、良好な関係とは何かであり、人間関係や組織まで否定してしまったら現在の経済の仕組みは成り立たなくなる。
先ず取引する相手が何を望み何を期待しているのか。その裏返しに、何が足りなくて、何に困っているのか理解する必要がある。そして、それが交易の元となるのである。相手の足らないものを補い。求めるものを与え。困っている事を解決する事で市場は成り立っている。市場の相互互助の働きによって経済は成立するのである。リーダーを補佐する事で報酬を得るものが、リーダーの悩みや困りごとを理解しなければ、取引は成立しない。リーダーは補佐役を必要としていないからである。
ところがこの事の意味が最近は受け入れられていない。単純に自分の働きの対価としてしかつまり、一方通行な考え方でしか自分の仕事の意味を捉えられていない。だから経済の働きが一方的なものになり、双方向の働きが成り立たないのである。それでは、自分がやりたいことをやっているに過ぎない。相手がいないのである。

なぜか、個人主義、個人主義といって他人に奉仕する喜びを一生懸命否定するが、他人に奉仕する事が喜びとする個人にとって他人に奉仕する事が個人主義なのである。
リーダーに向いている者もいれば、補佐役に向いている者もいる。自分に向いていない役割をさせられるのも不幸である。

武士道は、滅私奉公と言う言葉が象徴するように、奉公人の美学みたいなところがあります。主たる者に忠。誠心誠意尽くす。それは、単に隷従ではなく。主の過ちも正す。そうなると主たる者の価値観を超えてしまい普遍的な価値観を主に押し付けてしまう事になる。だから、盲目的に隷従するというのとは意味が違う。
侍の美学に反すれば主だって廃される。場合によっては、命も失う。こうなると他の国でいうリーダーと意味が違ってくる。主は何も決められなくなる。現に、昭和天皇のご聖断は、二・二六事件の際と終戦の時の二回しかないと言われている。いずれにしても国家元首だというのに、決定が極端に少ない。ある意味で日本ではリーダーは何も決めない方がいい。何も決めなければ後は補佐役が何でも適当にやる。それが、泰平の世を築いたのである。主ではなくて、お家大事なのである。
この様な価値観は江戸時代に確立され、洗練されてた。戦国乱世では、戦に敗れたら主君が腹を切ったが、逆に、明治維新の際に切腹した藩主はいないと言われる。
主の価値観と言うよりも家臣団の価値観によって君主の生き様は左右されると言っていい。
例えば、清貧ですね。自分の部下が贅沢をしても自分は粗衣粗食に耐える。それが主たるものの美学で、現代政治家にも、経営者にも清貧が求められる。
武士道は、主に忠と言う考え方を突き詰めたところに成り立っている。つまり奉公の美学です。その為に、名補佐役は出ても、名指導者がなかなか育たない。下手をすると、リーダー、主人なんてどうでもいい。なるべくなら象徴的存在、理想的な人徳者、極端にいえば、お飾りなのが一番いい。人徳者と言うのは無邪気、無欲な人間、子供のような人ですね。有能であるより、無能な方がいい。細かい事に介入せず、補佐役に任せてもらいたい。それでいて、いざとう時は、責任だけを負ってくれる。
生活は、贅沢をしないで質素倹約をする。清貧ですね。それで土光さんのような経営者が現れる。土光さんは、有能ですけれど。能力よりも私生活が評価される。
経営者が贅沢な生活をするなんてとんでもないという事になる。こんな例は日本以外にはありませんよ。君主でさえ一汁一菜ですね。
忠臣蔵がいい例ですが、主なき忠ですね。ここまで行くと一種の宗教ですね。
外国から見るとよくわからない。得体のしれない不気味さがあると思うのです。
つまり、日本人の忠義は信仰に近い。だから、戦後、忠義をとことん否定した。
その結果、信仰心も、忠誠心もない世界になり、道徳が失われつつある。なぜならは、道徳は、自分を抑制する則だからである。自分を抑制する為には、自分を超えた何者かの力に自分を最後は委ねるしかない。今の日本は、どんどんと道徳も規律も失われている。
それは、日本から奉公の美学が失われつつあるからである。

江戸時代によって奉公人の美学が確立され、名補佐役が育てられた反面、名指導者がいなくなった。戦後は、忠義が否定される事で名補佐役が生まれなくなった。その結果、名指導者も名補佐役もいなくなり、社会からモラルも規律も失われつつある。それが現代の日本である。

商売人と言うのは、金銭の遣り取りでコミュニケーションをとる。役人は、自分の役職、役割が自分の存在価値を表す。今の世の中は、官僚的な価値観が道徳的だとする。だから、贈与や賂は根本的な悪です。一円たりとも許さない。しかし、それは役人の美学でしかないですよ。政治にも、商売にも金が必要なんだと言っても聞かない。兎に角、決められた事以外の金品の授受は悪なのである。そうなると社会は融通が効かなくなる。

働いた対価として「お金」を貰うそのどこが悪い。報酬として「お金」を貰うは悪くて、税金で「お金」を貰うのがいいと言い切れるか。

私は、商売人の家に生まれましたから、お前は、誰から「お金」を貰っているんだ。「お金」をくれるものが主であり、客だぞと言って育てられ。「金」を貰うこと自体が悪だとは教えられなかった。ただ、相手を騙したり、力づくと言ったまっとうでないやり方で「お金」を稼ぐことが悪なのである。それが商売道である。商売人は、詐欺師でも、ペテン師でも、強盗でもない。商売人なのである。そして、今の経済を支えているのは、商売人なのである。
また、民間企業なら上司は最初の客だと思え。上司一人説得できないでまっとうな商売なんかできるか。要するに、誰が利益の元なのか、誰のお陰で自分の生活が成り立っているのかを忘れるなと言う事である。その根本は客なのであるが、一般の言う客と、システムでいうユーザーとは若干違いがある。一般に使われる客とはエンドユーザーを指すのに対して、システムでいうユーザーとは使い手であり、また、取引相手である。究極的には資金源である。
そして、ユーザーに奉仕する事で対価を得る。それが現在の経済の大本である。

日本は、戦争に負け。忠と言う思想を徹底的に否定された。その先兵となったのが教育とマスコミと官庁である。
忠と言う言葉を忠勇愛国、そして、軍国主義と結びつけ、忠と愛国の二つを徹底的に否定した。しかし、元々、忠も愛国心も軍国主義に利用されただけで、盲目的に権力に隷属することを意味する言葉ではない。忠に徹すれば諌死する事もある。愛国に徹すれば反権力、反戦になる事もある。
仁義礼智忠信孝悌の八徳は、人間関係に係る事であり。忠とは、中と心の二字からなり。内省して自らを欺かず良心の命じるままに従うこと、すなわち、真心を意味した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
料理人は、ただ、料理を作ればいいというのではない。料理を供する相手が美味してと感じて初めて料理人の役割を果たせる。
人をおもてなしするのに、ただ美味しいお店を探せばいいというのでは、心がこもらない。相手が何を食べたいのか、好物は何か、嫌いなものは何か、アレルギーはないかなどを調べたうえで、おもてなしをするから心がこもるのである。
今の仕事には相手がない。相手がないから心がこもらないのである。
何に忠たらんか、それが問題なのである。


今の世の中はおかしいのです。その自分たちのおかしさに鈍感になりつつある。
それが今の日本の危機の正体だと思います。
大体、経営者は、全知全能の神でも、万能でもないのです。そんなことは、大前提です。
経営者でも過ちを犯す。指導者こそ過ちを犯しやすい、だからこそ、補佐役を育てたのです。
今は、何かあると全ての責任をトップに求める。そのくせ、トップに対して平凡である事を求める。つまり、人間臭さですね。変な平等を持ち出され、トップも同じ人間だ対等にしようなどと言い出したら、トップは身を守る盾がなくなります。
経営者だって人間なんですよ。人間である以上、生臭い存在なんです。その生臭さを否定してしまったら、神になる以外になくなります。
人は、TOPに無謬性を求めるけれど、トップの仕事は決断ですから、会社の中で一番重い決断をする回数が多い。だから、会社間中で一番過ちを犯すリスクが高いのです。
それを責め続けられたらたまらない。だから、多くのトップが酒や女に溺れるのです。
そういう、経営者を沢山見てきました。
一番大切なのは、相談する相手を間違わない事です。
中国の歴史ドラマや大河ドラマ見ても侍従や侍女、側近が重要な役割を演じているではないですか。
今の日本は、側近や補佐役というものを全く認めないから、組織が組み立てられないんですね。いつもトップが裸にされてしまう。
我々は、TOPに謝らせてはならない。TOPと言うのは、組織を代表する者だから、TOPが謝れば責任は、全体に及ぶと…。しかし、現代社会は、何かと言うとTOPに謝らせようとする。些細な事でもTOPが謝らないと気が済まない。これは今の日本的な現象だという事にも気が付いていない。
何かあったらトップが謝罪させられる事を、いつも意識せざるをえないなんて、異常ですよ。その異常さを異常だと感じない。それが今の日本の異常さですよ。
これではトップは守り切れないし、組織も守り切れない。だから、国家元首、果ては、天皇にまで歴史問題で謝罪が求められ、収拾がつかないのである。それを、自分が蒔いた種、自業自得と言えばそれまでである。



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