何が必要なのか

 本来、教育は、生きていく為に、必要な事を身につけさせることである。ならば、生きていく上で、何が必要なのか、それを明らかにしなければならない。

 第一に、食べる事である。第二に、外界と自分を認知する事である。第三に、外敵や災害、危険物から、身を守る事である。第四に、意思を伝達する事である。第五に、排泄する事である。第六に、集団の規律を身につける事である。最後に自尊心である。

 教育の根本は、生きていく為に必要な事柄を教える事にある。そこから、人は、何を教えなければならないのかが、明らかになってくる。

 第一に覚えなければならないのは、食べることである。人間の世界では、一人前の社会人になるまでは、親か親に代わる保護者・庇護者が飯を食べさせてくれる。しかし、一人前の社会人になったら、自分の力で自分の糧を稼いでこなければならない。つまり、これは、経済の問題である。
 このことから、教育の第一義は、経済的に自立する事を覚えさせることにあることが判る。

 なぜ、戦争が起こるのか。それは、生きられない、生きることができない、生きることができなくなると考える人間がいるからである。その根本を見ないで、いくら、観念的に戦争を論じたところで平和は訪れない。戦争の背後には、必ず、何らかの経済的な原因が隠されているのである。経済的に破綻するから政治が前面に出てくるのである。

 次に、外界と自分を認知する必要がある。自分を保護してくれる者か敵なのかを識別できなければ、外敵の餌食になってしまう。弱肉強食が、自然の摂理なのである。だから、生きていく為には、外界を認知する必要がある。しかも、人間は、他の動物に比べて発育が遅い。自分の力で生きて生きていけるようになるまでの間、状況や環境を性格に把握する必要がある。正しい認知と記憶がなければ人間は生きていけないのである。
 つまり、経済の後は、認知の仕方が教育では重要になる。

 動物の世界では、危険な事が自分の身に迫った時、先ず、危機を回避するための術を身につける。そして、危機が回避できないと悟った時は、危機に立ち向かう術を身につける。そして、危機が去った後の処理を最後に身につける。これは、教育の根本である。
 つまり、危機回避、危機管理の仕方が教育の一つの目的になる。そして、それに付随して集団の規範、モラルの必要性が派生するのである。
 モラルをモラル単独の問題として考えているかぎり、モラルの持つ意味は明らかにならない。また、モラルを制御する事もできない。モラルは、一つの機構である。機構であるモラルを機能させるためには、モラルを制御しなければならないのである。

 危険が近づいたとき、意志の疎通の巧拙は、生きるか死ぬかを分ける。また、人間関係は、意志の疎通によって保たれます。自分の身を護るためには、周囲の人間との意思の疎通は不可欠である。故に、挨拶、礼儀作法のような、周囲の人間とアクセス、接触する為の準備行動、前段行動、基本的行動を躾ることは、教育にとって最も重要な要素の一つである。

 排泄の処理は、後始末のことである。不始末は、命に関わることである。火の用心、戸締まりは、自分だけでなく、自分の財産・家族、そして、近隣を災禍から護るための大事である。また、屎尿やゴミの処理は、都市にとって衛生にとって欠かせない問題である。そう言う意味では、排泄の処理というのは、自立心の現れでもある。自分の穴も拭けないでというのは、自立した人間になれと言う事を示唆している。

 モラル、行動規範は、生きていく為に必要な事をベースにして構築される。モラルの根源は、集団の規律にある。しかし、集団の規律の本質は、身を守ることにある。

 文明が進化し、我々は、直接、外界の脅威にさらされることが少なくなった。その為に、我々は、身を守ると言う事の意味を忘れてしまっている。しかし、我々は、自分の力や知恵でしか自分の身を守る術がなかった時代は、外敵や災害から自分の身を護り、食糧確保することが生きることの全てであった。そして、そこから、モラルの本質が形成されたのである。
 生まれたばかりの赤ん坊は、自分で自分の身を護ることもできない。何者かの庇護が受けられなければ、外敵の餌食にそれてしまう。だから、人間は、何者かに依存しなければ生きていけないように宿命付けられているのである。

 モラルは、集団組織を維持するためにある。その例を挙げると次のようなものになる。
 第一に、人を殺してはならない。第二に、人を傷つけてはならない。第三に、強姦してはならない。第四に、子を捨ててはならない。第五に、人の者を盗んではいけない。第六に、人の物を壊したり、傷つけてはならない。第七に、嘘をついてはならない。第八に、約束は守らなければならない。第九に、掟は、守らなければならない。第十に、決定には従わなければならない。第十一社会の共有の物を壊したり、傷つけてはならない。第十二に、老人や弱者の面倒を見なければならない。第十三に、共通の敵には、一致団結して戦わなければならない。第十四に、裏切ってはならない。

 モラルの内訳を見ると、集団内における個人の行い・自己の働きを規定した部分と自己と集団との関係を規定した部分から成る。第一から第八までの部分が自己の働きの部分であり、第九から第十四までの部分が自己と集団との関係の部分である。モラルは、集団を維持するために、最低限必要な事柄を定める体系である。そして、モラルの本質は、単純明快でなければならない。なぜならば、モラルは、集団の構成員共通の規範でなければならないからである。つまり、集団や組織を構成する者、全てが了解可能な体系でなければならない。最高レベルの合意事項ではなく、最低レベルの合意事項でなければならない。故に、法や規則は、自己に近づくに従って合意レベルが高まっていく性格がある。国家の法は、最低レベルの合意事項であり、国家の法を土台にして地域レベルの法、所属している組織の規則が上乗せされていくのである。なかでも、モラルは、不文律ではあるが、人として最低限守らなければならない規範である。これが、守られなければ組織、社会が維持できない規範である。

 最低限の合意事項といっても、相互に全く矛盾しないと言うわけではない。規範は、状況や環境に依存している。人を殺してはならない。傷つけてはならない。物を壊してはならないといった規範は、外敵から身を守らなければならないと言う規範に、状況によって矛盾してしまう。この様な場合、どう対処すべきかは、優先順位の問題である。つまり、モラルは、絶対的規範ではなく、相対的規範なのである。そして、優先順位を決める基準は、その前提の身を守るという根本的にあるのである。つまり、自分の身を護るという根本であり、自分の身を護るために、自分の集団を護るというのが基本なのである。

 そして、自尊心、誇りである。自分を自分として確立する。それは、誇りである。自愛である。自愛なくして、自分を保つことはできない。誇りがあるから規律に従うことができる。自尊心のない人間に自由はない。自信があるから、他者をいたわる事ができる。自制することができる。自制心がなければモラルは成立しない。
 だからこそ、誇り高くあらねばならない。恥を教えなければならない。

 現行の教育は、認知の部分ばかりに偏っている。それ故に、成人に達しても生きていく上で必要な事が身に付かないのである。生きていく為に必要な事が身に付かなければ、必然的に引き籠もらざるをえなくなる。それを個人の問題に還元するのは、あまりに無責任である。
 今の日本人は、外敵から身を護るという当然のことも解らなくなってしまっている。外敵の存在すらも解らないのである。自分の力で自分の身を護ることもできない。それは、家畜である。ペットである。戦後の日本人は、家畜化され、ペット化されているのである。家畜もペットも自分の生殺与奪の権は、結局、飼い主に握られているのである。
 自分の身は、自分で護る。自分の家族、財産も自分で護る。自分で自分の身を護れない者に真の自由は与えられない。そんなごく当たり前なことも解らなければ、教育はできない。人として、ごく当たり前なことから教育はすべきなのである。
 戦後の日本人の言う自由は、家畜の自由である。ペットの自由である。日本人は、誇り高い民族である。というより、誇り高い民族だった。世界一誇り高い民族だったと言っても過言ではない。誇り高いが故に、命がけで国家の独立を護ろうとしたのだ。貧しくとも、自分の国は自分で護る。さもなければ、自分達の自由は保たれないという事を知っていた。
 今の日本人は、どうだ。確かに、生活は豊かになった。しかし、肝心の誇りを失ってはいないだろうか。誇りを失えば、独立も自由も保たれない。侍魂。大和魂。今の日本人が求めるべきは、家畜の自由ではなく。野生の自由だ。ならば、家畜としての教育ではない。孤高でも野生の自由を獲得させることだ。その為に、必要なのは、教育ではなく。修業である。




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