教育と地域社会


 私が子供の頃は、母親達は、外で遊んでらしゃいと追い出されたものだ。外へ追い出された子供達は、庭先や道路で遊んだ。いわば、庭先や道路が公園・遊び場のようなものだった。道路いっぱいに石墨で絵を描いたり、缶蹴りや鬼ごっこをして遊んだ。自分の前の道路や庭先だから、当然近所の子が集まって遊び仲間、コミュニティを形成した。遊び仲間が、長じて、地域コミュニティの中心に育っていく。つまり、それが土地の伝統や文化を継承してきたのである。
 ところがいつのまにか、子供達は、庭先や道路で遊べなくなった。原因は、自動車社会の到来である。都会では危なくて子供を外で遊ばせられなくなった。やがて、それは地方にも及び。今では、日本中、何処でも、子供を安心して道路や庭先で遊ばすことのできる所はなくなった。当然、ガキ大将グループも姿を消した。そして、子供を狙った犯罪が輪をかけた。公園で遊ばせるにしても、親は、子供に付ききりにならなければならなくなった。これは、母親にとってかなりのストレスである。かなりの負担である。
 外で遊ばせられなくなった分、家に閉じこめるざるを得なくなった。体のいい軟禁状態、監禁、拘禁状態である。密室で、親子が監禁状態に置かれるのは、大変な緊張である。親も子も逃げ出す場、捌け口を失った。過干渉、過保護になるなという方がおかしい。
 逃げ場を失った母子が頼ったのが、テレビであり、漫画であり、ビデオ、テレビゲームである。しかし、もともと、テレビや、漫画、ビデオ、テレビゲームは、一方的かつ仮装現実にすぎない。密室の中で現実離れした世界の中に母子を沈溺させる結果を招いた。

 地域社会が、子供達にとって安全な場所ではなくなったのである。地域社会は、文化の担い手であった。

 やっていいこと、言っていいことを、地域社会が、いろいろな局面を通じて、子供たちに教えていった。教訓や説教ぞくしんと・小言は、そういう場合に重要な働きを示してきた。祭礼や冠婚葬祭によってその土地で生きていく為の作法を伝承してきたのである。
 地域コミニュティーが教育の土台・基礎なのである。地域コミュニティーを土台にしているからこそ教育は、現実の生活に根付くのである。

 祭り、盆暮れの行事、冠婚葬祭、青年団といつた行事や組織によって仕来りや掟といった社会の不文律が伝えられてきた。むろん、これらに、閉鎖性や排他性という弊害はあった。しかし、だからといって全面的に否定する根拠にはならない。その長所をより積極的に評価し、欠点を改めればいいのである。

 歌舞伎、浄瑠璃、義太夫、能、狂言、講談、浪曲、浪花節、落語、漫談、説法、こういった大衆演芸が教育に一役買っていた。この様な大衆文化を育んできたのが、地域コミュニティーである。
 この様な大衆文化の根本には、仏教思想や儒教思想があった。大衆は、仏教や儒教の思想を大衆文化を通じて自分達の生活の血肉とし、生きる為の指針にしてきたのである。
 この様な大衆文化を迷信・俗信と蔑むのは、知識人の思い上がりである。

間違ったリアリズムが横行している。ここにも客観性、自然主義、科学主義が顔をのぞかせる。
 神も仏もありはしない。神や仏は迷信に過ぎない。それを現実主義、写実主義というなら大きな間違いである。神を信じるのも、信じないのも、個人の信条の問題であり、現実主義でも、写実主義でも、科学主義でもない。個人の見識に過ぎない。
 地域コミュニティーを成り立たせていたのは、インテリが言うところの俗信、迷信、神・仏である。神や仏の力を借りて地域住民は、自己と土地とのアイデンティティを高めてきたのである。
 教育にせよ、言論にせよ、その主張の意味するところが大切なのである。勧善懲悪によって、犯罪を抑止することができたら、それは、それなりに意義があり、それがその世界のリアリズムでもある。
 客観性やリアリズムを装った、偽りの主張の方が質が悪い。現実は、きれい事ばかりではないというのがリアリズムだというならば、悪が栄えたためしなしというのもリアリズムなのである。要するに、小説にせよ、映画にせよ、作り手の内面の価値観が反映されたものに過ぎないのである。ならば、主張が明らかなものの方が、受け手に対して誠実ではないか。
 大衆文化を否定する者の多くが、俗ぽいからだという理由にすぎない。自分達の方が、科学的で合理的だと思いこんでいるのである。しかし、それは、思いこみに過ぎない。俗ぽいという大衆文化の方が余程、人間の生活の用に立っているのである。

 人を育む環境は、その人が実際に住む空間にある。そう、地域コミニティーである。地域コミュニティーが、

 地域コミュニティーの核は、町内会活動である。町内会は、民主主義の末端組織である。確かに、戦前は、町内会活動が政治的統制に利用された。しかし、それは、町内会が統制的だからではなく、社会の末端組織だからに過ぎない。そして、全体主義的為政者がそこに目を付けたからである。民主主義を信奉する者は、町内会組織の持つ本質を見抜くべきである。真の民主主義を実現したいならば、町内会活動をこそ民主主義の最前線と捉えるべきなのである。

 町内会活動を衰退させているのは、少年団、青年団活動の衰退に原因がある。その少年団、青年団活動を衰退しているのは、学校である。
 少年団や青年団の前身は、子供会、子供組、若者組や娘組、若衆宿、娘宿と言った地域社会の教育啓蒙機関である。
 夜這いも偏見によって歪められているが、本来は、呼びつづけるからきており、地域社会における男女交際の形態に過ぎない。(「図解雑学 こんなに面白い民俗学」八木透・政岡伸洋著 ナツメ社「手にとるように民俗学がわかる本」岸祐二著 かんき出版)地域社会に認められた男女交際の在り方が廃れた結果、風俗が乱れたとも言えるのである。

 社会に巣立つ前の教育を間違うことは、人生の最初から間違うことになる。社会に巣立つ前の教育が、密室化された家内と社会から孤立した学校によってのみ担われていていていいのであろうか。
 引きこもりが問題にされるが、教育空間そのものが引き籠もっているのである。

 教育の内容を統一する必要があるのだろうか。明治維新以前は、地方がそれぞれ独自の教育をしてきた。それでも、有為な人材を数多く排出することができた。地域コミュニティーこそ文化の担い手ならば、地域コミュニティーにこそ教育は、根ざすべきである。

 古里。生まれ故郷。田舎。我々の父祖の時代には必ず、古里があり、生まれ故郷があり、田舎があった。豊かな自然と温かな人情があった。子供達は、そこで多くのことを学んだのである。その古里や故郷、田舎が失われつつあるのである。それこそが現代教育の根本的問題なのである。




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