教育について


教育と民主主義


 民主主義の根本は、個人主義である。自由主義の根本も個人主義である。個人主義の根本は自己である。故に、民主主義や自由主義は、自己の確立を前提としている。すなわち、民主主義教育、自由主義教育の目的は、自己の確立にある。

 衝動や欲望によって自己の行動を抑制できない人間が、社会の大勢を占めるようになったら、民主主義は、崩壊する。言論の自由に代表される自由の権利も危機となる。これは、個人主義の敗北だからである。なぜなら、自己を抑制できなくなることが、意味するのは、自己の喪失だからである。これが民主主義教育の原則である。
 民主主義は、自律した自己を前提とした社会である。そのために、民主主義国は、教育を義務化するのである。義務教育によって自己を確立しようというのである。我が国の義務教育の目的も自己の確立である。

 では、現行の義務教育は、この目的が守られているであろうか。体制の側も、反体制の側も民主主義の名前を借りながら、この目的も原則も踏みにじっているのが現状である。それ故に、日本の民主主義も自由主義も危機に瀕している。

 これは、民主主義国家、自由主義国家に対する反逆である。

 主体的な意志というのは、自己にある。この自己の主体性を発掘し、伸ばすことによって、主体的意志を確立させ、個人を基礎とした、自律的な社会を築こうというのが民主主義である。

 つまり、主体は、生徒の側にある。このことを現行の教育制度は忘れている。そして、自己を確立するどころか、反対に、自己を喪失させている。

 その結果、社会に適合できない人間や、人間関係を作れない人間を、生み出してしまっている。

 自己を確立させるのは、環境である。自己は、意識と経験によって触発され、目覚める。この様な意識や経験を触発するのが、環境である。故に、民主主義教育は、生徒を取り囲む環境を整備するところから始まる。

 教育の現場は、社会そのものである。なぜならば、民主主義教育は、民主主義の基本的な仕組みを、体得させることに、目的があるからである。

 教育の主体は、生徒と保護者にある。しかし、未成年者は参政権を認められていないので、保護者が、義務教育期間はこれを代行するのである。故に、義務教育期間中の、教育の主権は、保護者、特に、親にある。保護者は学校のカリキュラム、教科書、教師、校則全般に対し、自分の主張を反映させる権利がある。権利があるというよりも義務がある。教科書を選ぶ権利は、学校でも、出版社でも、教師でもなく、生徒と保護者にある。現行教育制度の問題は、その生徒と保護者が、教育の現場から排除されている事にある。

 学校や教師に、主権者である生徒や保護者が服従しているのは、主客の転倒である。また、学校が地位社会から隔絶した、閉鎖的な社会を形成しているのは、民主主義の精神に反している。

 民主主義は、国民が主体的に政治に関わることを前提とする。国民が主体的に政治に関わるためには、民主主義の仕組みやルールを身につける必要がある。そのためには、学校は、地域社会に開かれたものでなければならず。学校の運営に対しては、地域住民と保護者は、積極的に関わっていく必要がある。学校と保護者、地域住民との関係は、会社と株主の関係ににている。

 戦後の我が国の教育では、儀式、典礼、形式を軽視している。儀式や典礼、形式は、封建的だと考えている向きがあるが、民主主義こそ、儀式、典礼、形式を重んじる体制はない。それは、民主主義が、属人的な体制ではなく、法という理念に基づく体制だからである。理念という観念的で、抽象的なものに基づく以上、何らかの形に現す必要がある。それ故に、儀式や典礼が必要となるのである。また、民主主義とは、本来手続きに基づいている。手続きで重要なのは、形式である。

 民主主義教育の原点は、この手続きや形式を学習と経験によって身につけながら、自己を確立させていくことである。そのためには、教育の現場は、実社会におかなければならない。学校の役割は、実社会における教育を補助することである。つまり、実際の人間関係や出来事を通じ、民主主義とは何か、自由とは何かを、自分で理解していけるようにするのが、教育本来のあり方である。

 礼節の根本には、信念がなければならない。信念の本質は、思想信条である。信念がなければ、人間関係での問題は、迷惑と言う事に要約される。結果、迷惑さえかけなければ、何をしても良いという事になる。しかし、迷惑という概念には、人間の行為を起立する基本的な基準が欠落している。

 礼節の基本的な形を教師が教え、それを通じて、その根本の精神を生徒自身に体得させる。それが民主教育の本当の姿である。

 現行の教育制度は、民主主義の名の下に、民主主義とは、全く正反対のことを行っている。そのために、民主主義も自由主義も危機的な状況におかれている。このまま、放置すればいずれは、民主主義的な社会は崩壊するか、国家そのものが破滅することになるだろう。それは、戦前に学校や教師が犯した過ちを繰り返すことである。
 民主主義教育の原点は、生徒の自律した自由な意志、すなわち自己にあることを忘れてはならない。そして、子供達の中にある彼らの未来や可能性こそが、最も大切な宝であることを思い起こすべきなのである。

 民主主義教育の偽名の下に子供達の可能性を潰してはならない。


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