教育の理想を求めて

過去を否定しても


何か問題があってうまく事が運ばない時、今まで何もやってないからうまくいかないのよという人がいる。

問題は、やってこなかったからできないのか。過去にやっていたことが、今できなくなったのかである。問題の捉え方で全く違った事になる。

今我々が抱える問題の多くは、やってこなかったからできない事が問題ではなく、以前できた事が今できなくなった事が問題なのだ。やってこなかったからできないのと、できてた事が出来なくなった事とは問題の本質が違うのです。
今、深刻なのは、以前は当たり前にできていたことが今、できなくなってきた事です。
それを何もやってこなかったからといって過去をリセットしてしまったら問題の解決どころか問題の核心を見失う事になる。
改めるのならば過去を直視する必要がある。その方がずっとと辛いんです。
ええどうせ馬鹿だから、部下が馬鹿だからと開きなわれるくらいならずっと楽です。
何もやってこなかったと過去をリセットしたところで何にもならない。
過去の人間の責任を問うたところで、何の解決にもならないんです。それをわかってほしい。
何でもかんでも古い事は悪いとして土台から否定してしまったから基本が忘れされつつある。
自分たちの世代、その上の団塊の世代は、何でもかんでも世の中が悪い、体制が悪い、昔の人間が悪い、時代が悪いと責任を上の人間や祖先に擦り付けてきた。その結果、前任者がやった事でなぜ我々が責任を問われる必要があるのかという態度がありありとみられるのです。それだから歴史問題がいつまでも尾を引く。
戦後、我々は被害者だといった教育が横行し、戦前の日本を頭から否定する風潮が強くありました。ただ、我々には、まもらなければならない筋かあります。貞節があります。
それに三年やったら、過去の人間の責任は問えませんよ。自らの問題だと自覚した時はじめて物事の本質が見えてくるのです。
努力したけどできなかったのと努力せずにできないのでは物事の本質が違うのです。
何もやってこなかったというのを認めるのは、何の努力もしてこなかったという事を認める事であり、それは人格そのものを否定することになるのです。
人生とはつらいものです。できない苦しさ、できない辛さは、できない人間でしかわかりません。でも彼等は精いっぱい努力しているのです。彼らの努力を否定したら、後がなくなります。
どんなに正しい判断でも結果が悪ければ間違ったと糾弾される。それを甘んじて受けなければならないのが指導者です。部下があほだから間抜けだからと一瞬たりとも思ったら、彼らの上に立てません。彼等に自らの運命を委ねているのですから。
ただ、何もやってこなかったという事を認めるのは、心血を注いできた部下の努力を全否定することになりますから、それはできませんし、前任者の責任を今問う事は、自分の責任逃れになるだけです。
自分の怠慢を他人のせいにしてはならない。
親が悪い、社会が悪い、会社が悪いと他人の性にしている限り何も変わらない。
過去の事と言っても自分がかかわってきた以上、それは自分の責任でもあります。だから、何もやってこなかったという事を認めれば自分の怠慢を認める事になり、責任以前の問題になります。自分の事を認めないのかという事になる。
努力を怠ってきた人間は、それだけで論外に置かれてしまう。何の努力もしてこなかったなんて認める者は、最初から見込みなんてないんです。

頑張って、努力してもどうしてもできない。自分の限界をしてはじめて人を頼る事もできるし、学ぶ事もできる。自分の限界を悟られることは恥でも何でもない。それより何でもかんでも自分一人でやろうなんて思いあがる事の方が問題なんです。何事も一人ではできないそれを認めるから指導者になれる。
大体、指導者にとって自分の限界が恥だなんだなんて私情です。自分の力不足を恥じていてどうするんですか。土台、組織は一人では何もできないんですから。
一担当者ができるできないは個人の問題だが、組織の中枢を担う者ができないというのは、会社全体の問題なんです。
面子だの恥じなどは、指導者のとって私情に過ぎない。恥ずかしいと言って自分の限界を認めず、自分の限界を指摘されて面子をつぶしたと怒るのは私情である。私情で公の判断を間違うのは、天に恥ずべき事である。己一人では何もできないのが指導者の宿命である事を自覚すべきなのである。
一番心配なのは、当たり前にできた事が出来なくなってきた事です。物事には手順段取りがある。自分にも覚えがありますが、親が社会に出た時困らないように躾けようとしたことに無用に反抗する。我々の世代は、その時、やれ反体制だ、自由だ、解放だと意味もなく理由づけされた。そのまんま大きくなってしまった。
剣道でいえば技以前の礼儀作法の問題です。礼儀作法がしっかりしないうちに技がどうのこうのと言っても仕方がないし、講釈をたれても通用しない。剣道はスポーツだから礼儀作法なんてどうでもいい。素振りなんてあほくさい。伝統だ歴史なんて言うのは、権威主義的だと過去をリセットしたら剣道の本質が失われます。柔道は、その道を選びました。そしてもう引き返せないところまできた。世の中や会社を変革するというのと基本を蔑ろにするというのは、話の筋が違う。基本が失われたから今の体たらくです。
新しい挑戦をするにせよ初心原点に返るべきで、初心原点を否定したら元も子もないのです。
それを今の日本人はどうしても理解できない。理解しようともしない。
団塊の世代は、日本人の原点そのものを否定してしまったのです。

初心原点を捨てたから手順、段取り、手続き、差配といった基本を馬鹿にするようになった。それ考えが蔓延するようになって組織全体が機能しなくなりつつある。組織が崩壊を始めたのである。これは巧妙な罠である。しかし、この巧妙な罠の手先に学校が成っているのが情けない。

学園闘争の世代にいつも言ってきたのです。あなた方は、古い秩序を破壊するだけ破壊したけど新しいものは何一つ作り出してこなかったと。
その集大成が民主党の時代だったのです。
彼等は愛国心まで否定してしまったから理屈でしか自分の行動を正当化できなくなってしまったのです。
それでは、国を良くしたいという思いは伝わりません。
どんな理屈もこの世を良くしたいという思いがなければ成り立たないのです。


システム化にも弊害がある。
システム化されたことで失われたノウハウや技術、知識が結構ある。そのうちの多くは、取り返しのつかない事態を招いている。


私は、今の日本から組織のリテラシーが失われつつあることを懸念しているのです。
専務の考えを実現するのは、組織です。その組織を動かす原理、それを組織人は身につけていないと邪悪なものになります。
手順、段取り、手続き、指示、命令の出し方、受け方、報告の仕方、確認の仕方、組織的決定の仕方、そして、責任の取り方。
組織人は、各々の立場で責任の取り方をわきまえておかなければなりません。担当者には、担当者の責任の取り方があり、下級管理職には、下級管理職の責任の取り方があり、上級管理職には上級管理職の責任の取り方があります。そして、経営者に経営者の責任の取り方があり、昔は、美学の域まで高め、講釈、講談、浪花節、落語、歌舞伎や能の世界までそれを繰り返し国民に浸透させてきました。
そういった、責任の取り方は、最も組織人として基本となるリテラシーです。
これなくして組織は機能しない。少なくとも命があるものにはならない。単なる仕組み、システムに過ぎなくなるのです。

それが失われつつある。残されるのは、薄汚い私利私欲です。人は、自分以外の人間の私利私欲のために働きませんよ。そうなると組織を支配するのは恐怖でしかなくなる。

会社は、常に人を育成していかなければなりません。
その時その時、時代の変化に合わせて考え方を改めていかなければなりません。
日に新たに、日々に新たなり。
新たな指導者が自分の理想に基づいて部下を導こうと試みた時、今まで何もしてこなかったと、過去、社員のやってきたことをリセットしてしまったら身も蓋もなくなります。
どんなに頑張っても、努力しても結果が出せずに苦しんでいる者がいます。
そういう人間にきっかけを与え結果を出させてやればおのずと従うようになるのです。
それが教育の本旨です。
人は、一人では生きられない。一人で生きられないから組織を作る。組織には指導者が必要だし、指導者に求められるのは、ノーブレス・オブリージュ。
今、東芝でも歯を食いしばって耐えている社員達がいるのです。トップが見苦しい事をすれば社員たちの後がなくなる。それまで社員の人生まで否定することになる。彼等から生きる希望まで奪う権利は誰にもありません。
経営者たるもの、自らの出処進退を明らかにし、粛々と事を進めるべきなのです。
例え、戦争に負けたとしても日本人としての誇りを失わないよう。最後まで心を砕いた人たちがいます。鈴木貫太郎だって阿南さんだって、終戦を見届けたうえで責任とったのです。戦前に開戦に賛成したか否かではなく。何を任されたかなのです。

わかっていますと言ったって一番肝心な事はわかっていない。責任をとらなければならない事はわかっても、ではどうやって責任をとったらいいかわからない。これは、永遠のテーマなのです。
上手く責任をとるなんて考えたら責任なんてとれません。せめて潔くありたい、下の者が誇りを失わないよう。最悪でも、光輝ある撤退ができるように計らうべきなのです。ですから見苦しい態度だけは避けるべきです。それがわかるという事です。

指導者は教育者でもあるべきなのです。自分の生き様を常に部下に見せ続けなければならない。だから姿勢が問われるのです。
何もやってこなかったというのは、指導者に対しては禁句です。



                content         

ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2017.5.22 Keiichirou Koyano
教   育