遊びと教育


 最近、野や山で子供達が遊ぶ姿が見られなくなってきた。野や山どころか、公園からも消えてしまいつつある。子供達は、外で遊ばなくなりつつある。子供達の遊びの質が変わりつつある。自然な遊びから人工的な遊びに変わりつつある。

 遊びの中に教育の根本を見いだすというのは、教育玩具のようなものを指すわけではない。子供達の遊びそのものである。近代の教育というのは、子供達から、遊びを奪ってきた。遊ぶ時間も、遊ぶ場所も、遊ぶ道具も奪ってきた。そこには、遊ぶことは、悪い事だという先入観念があった。

 遊びという言葉には、どうも悪い響きがある。遊び人という言葉が意味するように、仕事をしない、定職を持たない、怠ける、さぼる、女たらし、不真面目であるといった具合に。しかし、多くの人は、遊びが好きだ。

 子供の遊びというのは、教育玩具や教育プログラムのように則ってされる遊びとは違う。子供達が自発的に遊んでいる遊びを基礎にしたものである。つまり、子供達の遊びをよく観察することからはじまらなければならない。つまり、大人達が遊びを押し付けるのではなく。大人達が、遊びから学ぶのである。
 子供の遊びは、大人の社会の原型である。つまり、子供達は、遊びの空間の中で、社会へでていく準備をしているのである。その子供達の遊びの空間を尊重しないと子供達は、自分達の社会を生み出していく、作り出していく事ができなくなる。
 子供の世界と大人の世界は、いずれか一方が絶対的な優位に立っているのではない。相互に影響を及ぼしながら発展していくのである。

 子供達は、遊びの中で経験的に、掟や人間関係を覚えていく。子供の世界は、原始的、原初的な世界である。未熟な社会である。しかし、反対に純な世界である。大人の社会の仕組みを子供の社会の中に投影し、還元していくと同時に、子供の社会の持つ純な部分を取り込んでいくのである。

 子供の世界も遊びも子供達の成長と伴に変質し、成長していく。その成長に合わせて、学ぶ空間を作り上げていくのである。それが教育である。つまり、教育とは、注意深い観察と、フィードバックを基礎として、その社会の根底にある価値観を写像していくことにある。 

 昔話や民話は、古いしきたりや掟、伝承を伝える生きた知恵。唯、単に勧善懲悪というのではなく。我々の祖先が言い伝えてきたかすかな記憶と教え。それを、迷信と蔑むのは、思い上がり。山や川に神が宿る。罰が当たる。それを迷信と蔑み、乱開発をした結果、山や川は荒れ果て、結局、人々の生活に災いする。科学的に説明すべきだというのか。科学的に説明すれば、乱開発はなくならないのか。それよりも、人々の怖れに訴えた方がいい。それが、私たちの祖先の知恵でなかったのか。
 遊びや語りの中に潜む真実を見極めねば。

 教育の根本は、真似る事と盗む事です。なぜなら、肝心な事は教えられないからです。だから、教育の基本は、ごっこ遊びにある。子供は親の真似をし、ごっこ遊びに学ぶのである。 
 おままごとやごっこ遊びこそ物まねも原点であり、勉強の原点でもある。教育というのは、模倣から始まるのである。親の物まねをする。大人の物まねをする。それが学習につながるのである。
 だから、教育者は、人に真似される事、盗まれる事を生業としなければならない。真似をされると怒るのは、お門違いだ。自分の真似をされるにを嫌がるのは、自分が学んだ事を盗まれのが嫌だからである。自分が苦労をして身につけた者を真似をされるのは、嫌かも知れない。しかし、学習の根本は、真似る事、盗むことである。なぜならば、社会に必要な事は、体得しなければならないことが沢山あるからである。実力のある人が実力ない者の真似をしたら、すぐに超えられる。それは、それでいい。教育者は、教え子が自分を越えていく事を喜びとしなければ成り立たないからである。自分が、身につけたことを盗ませる。だからこそ、生徒は、先生を尊敬するのだ。

 遊び相手、相談相手こそ善き師である。良き友達は、生涯の師です。良き先輩、良い後輩も、良き師です。良き師、良き友は、宝である。
 特に、喧嘩友達は、尊い友である。子供は、葛藤をしながら、自分の限界を知る。物事の道理を知る。自然、自然に、自分達の掟を作り上げていく。それが自分達の社会の原点、原点的体験となる。大人の論理で子供の喧嘩に口を出すべきではない。日本の格言にもある。子供の喧嘩に親は口を出すなと。

 遊びには、危険がいっぱいある。遊び場には、危険なところが沢山ある。しかし、危険があるから、危険なところがあるから、子供達は、学べるのである。危険なところをなくしてしまえば、危険なことを学ぶことはできない。だからこそ、大人がついている必要があるのだ。大人は、知識を与えるためにいるのではなく、知恵を体得させるためにいるのである。

 遊べ。遊べ。子供達は、遊べなくなっている。それは、遊びが悪いと学校で教えるからだ。遊びにこそ教育の原点がある。

 子供達は、遊ぶ場所をどんどん奪われている。裏返しいて言えば、、大人達は、子供から遊ぶ場所をどんどん奪っている。子供達から勉強の機会と場所を奪っていることになる。それは、遊びは、悪いという考えがどこかにあるからである。しかし、遊びは、教育の原点である。遊びの空間こそ、本来の学校なのである。学校に金を掛けるくらいなら、公園や遊び場に金を掛けるべきだ。自然を残すことに金を掛けるべきだ。遊び場こそが学舎なのである。






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