少年犯罪


 今の若者の中、「幸せになりたくない。幸せになりたくない。」という人が、沢山いる。というより、そう言う人を沢山、学校が、生み出している。彼等は、自虐的で、刹那的で、愛とか、夢など最初から信じていない。自分達には、可能性など無縁だと決めつけている。自暴自棄になり、破滅的で、無軌道な行動に走り勝ちである。彼等からは、若者らしさを感じない。妙に、ひねていて、人生に対し諦観的である。醒めている。若者特有に熱ぽさも、正義感も清潔感も感じられない。腐りきった、すえた臭いしかしない。一種の死臭すらする。挑戦とか、向上とか言う事は期待しようがない。何かに熱中したり、立ち向かっていこうと意気力を感じない。意欲がない。悪いと解っている薬に手を出し、欲望の儘に行動をし、自分の身も心もボロボロの傷つけてしまっている。そう言う若者が増えている。そう言う若者の群を教育が生み出している。
 「幸せになりたくない」というのは、「生きたくない」というのにつながるから、とても危険な考えだと思う。「幸せになりたくない」というのは、表面的か、又は、結果的にそう思いこんでいるのだと思う。その根底に「幸せになれない。」もっと酷いのは、「幸せになる資格がない。」というふうに思いこんでいる事だと思う。そして、そう言う風に思い込ませてしまっているのが、現行の教育である。

 今の日本の子供達は、何も悪い事をしていないのに、罰を受けているような、そんな状況にずっと置かれている。やりたくもないのに、役に立たない勉強を長時間やらされる。それも、役に立たないことを承知の上で、しかも、狭い部屋に閉じこめられて。まるで監獄である。そのうえ、成績が悪いと、まるで、罪人のように責められる。馬鹿だ、間抜けだ、出来損ないだ。以前、僕なんか、母親に、育て方を間違えたとまで言われた事もある。そんな酷い事を、最愛の母親から言われたら、言われた方は、ショックだ。それでいて、友達とは仲良くしろ。争うなという。矛盾している。受験戦争に放り込んでいて、何を、ぬかすって反発しても当たり前だ。でもそれが理解できない。親は、親で、子供の幸せを願ってやっているのだから。ここに、親子の断絶が生まれる。しかし、断絶の原因を作っているのは、学校教育である。だから、この断絶は埋まらない。
 更に、テレビや、ビデオ、漫画、ゲームで四六時中、強烈な刺激や思想が一方的に流される。これでは一種の洗脳である。子供達の喚声が、街や公園から聞こえなくなって久しい。無邪気に野山を駆け回っていた子供達はどこへ行ったのであろう。狭い部屋の中に閉じこめられた子供達は何を考えているのであろうか。
 子供達にしてみれば、ずうっと自己否定され続けているようなもの。自分は、駄目な人間だと思いこんでも不思議がない。これは、拷問だよ。罰だよ。呪われているんじゃないかとすら想うくらい。
 だから、子供達は、「何か自分は、きっと悪い事をしたんだ」と思いこむ。その上、いつまでたっても子供扱い。一人前の扱いをされない。五十を過ぎても子供扱いされている奴もいる。これでは、いつまでたっても自立できない。大人になれない。大人として認めないで、それでいて自立できないとなじる。これでは、立つ瀬がない。
 そのうえ、社会と学校との間の断絶が大きい。社会で自立して生きていく為に、必要な事は、何も、身につけていない。こうなると、自信がもてないから、将来に対する希望がもてない。それで、自暴自棄になる。引き籠もる。鬱になる。切れる。燃え尽きてしまう。いつまでも定職に就かない。フリーターのままでいる。ニートなんて言われる。これでおかしくならない方が不思議だ。おかしくなって、当たり前だ。まともでいろと言う方がおかしい。
 そして、とどめに、迷惑とくる。迷惑を掛けなければ、何をしても良い。冗談じゃあない。迷惑を掛けなければ何もできない。迷惑を掛けなければ、幸せにはなれない。迷惑を掛ける気にならなければ、人を愛することもできない。迷惑を掛けなさい。そのかわり感謝しなさい。迷惑を掛けてはいけないと言うのは、何もするな。幸せになるなっていっているのと同じ。
 だから、「幸せになりたくない」と自分を誤魔化して実は、「幸せになれない」「幸せになる自信がない」「幸せになる資格がない」と思いこんでいる。辛いよな。それを精神病だと言ったらおしまい。化学物質、沢山やって病気にしておいて、おまえは、病気だと言っているようなものだ。
 先ず、性知識を身につける前に、異性との付き合いかたを覚えろって。そう言う事って学校で教えてくれない。そのくせ情報ばかり氾濫している。おかしくなって不思議はない。よって、たかって、おかしくしているのだから。

 そこへきて、マスコミは、一方でそそのかしておいて、もう一方で弾劾する。マッチポンプのようなものである。裸の写真や、暴力的な情報や映像を氾濫させておいて、挑発にとって犯罪を犯すのは、犯した奴が悪いという。そして、自分達は、言論の自由の楯に隠れている。人間は、イメージできないことは行動できない。情景として思い浮かばないことは行動できない。それなのに、悪いイメージを子供達に植え付けている。何の罪の意識も持たずに。それが彼等の言う自己責任、自主性だ。なんてことはない、彼等の自己弁護に過ぎない。悪い事は、悪い、なぜそうハッキリ言えないのか。

 大体本当に少年犯罪は、増加しているのであろうか。どうも、その根拠も怪しい。

 最近になって少年の凶悪犯罪が増えているかの記述が見える。しかし、本当だろうか。 そう主張する者の多くが団塊の世代、全共闘世代である。では、学園紛争、大学闘争は何だったのか。あれは、反社会的、犯罪的行為ではなかったというのか。主義主張がハッキリしていれば、犯罪ではなくて、主義主張がハッキリしていなければ、犯罪だというのか。ならば、その主義主張の正当性は誰が証明するのか。自分達は、正しくて、後の者は、間違っている。理解できないと言うのは、独善に過ぎない。
 学園紛争が激しい時代は、多くの人間は、自分の抑圧された状況を社会に向けて発散することができた。しかし、現代の若者達は、それすらも許されていない。その根っ子は、同じ物である。

 迷惑を、かけなければ、何をしても良いと教える。そう教えている人の多くが、自分は、他人に、迷惑を、かけていないという前提が、なければ言えないという事を忘れている。
迷惑は、掛けてならぬものではありません。掛けたくなくとも掛けざるをえないものです。だから、人は、感謝をする。恩を感じるのです。迷惑を掛けなければと言ったとたんこの意味が失われてしまう。結果、何をしても善いという言葉だけが残る。だから、子供達は、開き直る。成人式で暴れても、人に迷惑を掛けた覚えがないという。大人は、迷惑だから謝れという。これでは水掛け論です。
 
 子供の魂が善良であるか、ないかという議論が、犯罪の低年齢化にともなってよくされるが、馬鹿げている。いかに善良な魂を持っていたとしても、その後の教育が間違っていたら、意味がない。
 正しい教育が、なされているという前提があって、はじめて、性善であるか、性悪であるかの議論が成り立つ。善良であろうとなかろうと、精神に異常をきたしてしまうような教育をしている限り、犯罪の低年齢化は防げない。

 少年犯罪が、起こるたびに見た目は、普通の子だという報道が、目立つ。犯罪を犯す子は普通ではない。普通の子だとするのは、その子の持つ異常性を見抜けないだけだ。むしろ、それを、普通だと報道する人間の感性が、普通ではないのである。そういう報道を見て、違和感を、感じない大人が、普通ではないのである。
 では、なぜ、その子を普通だと判断したのか。それは、だいたい成績が問題がなく、学校にも普通に出席し、学校にとって問題ある行動をとっていない事を根拠にしている場合が多い。
 ならば、学校にとって問題のない行動、成績がよい事が、人間の価値を決められないという事を教育者が、自分から認めていることになる。
 成績がよくて、遅刻欠席がなく、学校内部で問題を起こさない子はいい子なのである。しかし、人格や性格と成績や遅刻欠席は関係ない。そのことは子供たちが一番よく知っている。
 母親を殺害し、父親と弟に重傷を負わせた大学生とその恋人の高校生。大新聞社がどこにでもいる普通の大学生と高校生と記事に書いている。同じ欄に二人とも自殺願望があり手首には何度も切った後があり、それを友達に見せびらかしていて、風体は、ビジァアル系で全身黒ずくめ、人前でも、イチャイチャしていて、見るからに気持ち悪いと、周囲の友達は、もららしていたと載っている。普通じゃないと言うの。どこにでも、いないというの。どこが、一体、普通なのか。どこにでもいる普通と言っている人間が、普通じゃない。

 何かを信じたい。それが当たり前の本音である。

 子供達は、何を信じて良いのか、誰を信じていいのか、解らなくなっている。この世には、真実はない、完全な男はいないと思いこんでいる。だから、自分達の手本となる人を見いだせないでいる。しかし、真実であるかないか、完全かどうかは、受け取る側の問題なのだ。
 幸せだと感じれば幸せなのだ。自信があるといえば自信があるのだ。理想は、理想である。理想は、現実的でないと否定する理由がどこにある。

 何も、小難しく、深刻に考えなくても良いじゃあないか。言われたことを、ただ、はいはいと言われたとおりにすればいいのだ。それが戦後教育の一貫した姿勢だ。しかし、現実の世の中というのは、そんな簡単なものではない。病気になった時、医者にかかるべきかどうか。どんな医者にかかり、どんな治療を受けるべきなのか。人を、好きになると言うことは、どういうことなのか。性的な関係を持つと言うことは、どういうことなのか。結婚について考える時。離婚すべきか。子供のしつけはどうすればいいのか。目の前で犯罪行為があったとき、どうすればいいのか。暴漢に襲われたら。どんなときにも暴力を振るってはならないのか。嘘をつくのはどんなときでも許されないのか。人を傷つけたらどうすればいいのか。肉食は、悪いことではないのか。けんかをしたけど仲直りをすべきか。体罰は許されるのか。これら一つ一つが難しく深刻なのだ。そして、その判断には、思想や哲学が必要なのである。それなのに、学校では、それを深刻に考えるな、なるようになるさとしか教えない。だから、子供たちは深刻な悩みに遭遇してもまともな相談相手すら見つけられないのだ。その結果、風俗の乱れである。しかし、風俗が乱れ、その結果、子供たちが、被害にあったとしても、大人たちは、被害者である子供たちを責める一方で、誰も責任をとろうとしない。

 少年の凶悪犯罪は、ただ、親の責任を問題にすれば片づくほど単純なものではない。犯罪を引き起こす要因は、構造的な場合が多い。病理学的なものも含め、複合的に考えないと本当の解決策はでない。むろん、家庭環境や社会環境といった犯罪という原因を引き起こす基礎的な要因を、考慮の内から、はずすことが、できないことだけは、確かである。また、人権の観点から、情報を隠蔽しようとする傾向があるが、人権を楯にとって問題の本質を見えなくするのは、見当はずれである。それは、病気の原因を悪霊の祟りとする事と大差ない。子供が善良であるか、ないか、保護されるべき人権に、相当するかの判断は、状況に応じて、慎重になされなければならない。






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