教育の理想を求めて

世話をやく



金儲けだけが経営の目的であり、それを前提として営利事業を捉える考え方が一般的になってきた。
しかし、以前、企業は公器であり、世の為人のために尽くすもの。社員や社員の家族の世話をやく機関だという考え方が一般にあった。そして、考え方は今日でも日本の多くの企業に継承されている。

例えば、パナソニックとか、出光、ホンダ、トヨタ等の日本を代表する企業にもみられる。
世話をやく、という思想は、仲間意識に支えられている。仲間意識というのは、内という思想に象徴されている。内の人間だから面倒をみるのが当たり前。それは企業を核とした共同体意識、大家族主義に端を発している。

金儲けを目的として形成された組織と言うよりも、お互いの生活の面倒をみるために集まった集団という意識が強かった時代の名残である。
つまり、義理人情と恩によって結ばれた親分子分の関係を基礎とした集団である。

この世話という思想が廃れ、金儲け集団だという考え方に支配されるようになってから日本の企業は変質してきたのである。

お世話というのは、気を配って面倒をみる事。手数をかけて援助をする事。手数がかかって厄介な事と言う意味で使われる。
「世間でよく言われるいいぐさ」とか「世俗の人がよく使う話言葉」というのが語源で、世間の人の話というのが本来の意味であるそれが長じて日常的なもの、通俗的なものという意味になったと言われる。
また、病人の世話をするというのは、せわしいという意味が転じたもので世話という字は当て字だとされる。江戸時代中期には」「やっかいなさま」とか「面倒なさま」という意味で使われるようになったとされる。(語源由来辞典)
要するに世話をするというのは、日常的で手数のかかる厄介な事の面倒をみるという意味である。

こういう世話を企業はみてきたのである。世話をする機関が会社だという意識があった。
しかし、会社に対するこうした認識はいつの間にか消え失せ、会社は金儲けを目的とした機関だという認識が世間一般になったのである。

そこから、企業は、資本主義社会の必要悪だなんて乱暴な意見まで飛び出すようになったのである。
しかし、企業の使命は社会貢献にあるという事を忘れてはならない。
金儲けばかりが企業の使命ではない。

本来企業は共通の目的を持った者が集まって生活をする集団だと言える。
その共通の目的を達成するために、事業を営むのである。

故に、世話をするというのは、有償とか、無償とかにかかわらず人として当たり前な事なのである。
例えば、雇用契約を前提とするからと言って日常の生活に不自由、不便するものや事があったらその面倒をみるのは、別の話だと言う事である。
独身者がいれば嫁を世話するし、食べるものがなければ食べる物を世話する。
住む家がなければ住む家を世話する。
その延長線上に企業という存在があったし、家族がいた。

だから、終戦後、トヨタや日産という自動車工場は、自動車が作れない間は、鍋釜を作って社員と社員の家族の糊口を凌いだのである。

経営者に求められたのは、社員の面倒をみる。世話をすると言う事である。
そして、世話をする、面倒をみる事が会社の経営者の当然の勤めだという意識が働いていた。

そこに世話人、世話役という発想が生まれる。

この世話をみるという思想が廃れたあたりから、企業の社会的貢献とか、コンプライアンス等と言う事が声高に叫ばれだし、又、ブラック企業、派遣などが社会問題化してきたように思える。
私が子供の頃は、経営者は社員の面倒をみる、世話をするのが当たり前なんだ。それが仕事なんだという考え方が一般だったし、多くの従業員は、住み込みで働いて、行儀作法を学んでいたのである。
この意識が日本企業の底辺を支えてきた。

世話をやくというのは、広い意味で捉えるとボランティア活動のような事と考えても良いが、世話をやく事とボランティア活動との相違は、ボランティアを日本人は、何か特殊な、特別な行為、非日常的な行為のように考えられているのに対し、世話というのは、人として当たり前な親切な行為、日常的で当たり前な行為として捉えている事にある。
故に、世話をするという言葉の中には、生活の面倒を見るという意味も含まれている。
日本でなかなかボランティア活動が根付かないのも根底にボランティアという行為を特殊な行為として捉える傾向があるからに思える。
日本人の感覚では、ボランティアで結婚相手を世話をしたり、住む家の心配をしたり、看病をしたり、食事を作ったりという事は考えにくい。しかし、日本人一般には、これらの行為は全てを世話をするという範疇に含まれている。そして、これらの行為はほぼ無償であり、無償の行為だから世話をするという意味がある。これらが商売になったら世話をするという意味は薄れていく。
ただ、ボランティアと普通の仕事との間は、かなり曖昧である。
世の中の役に立つ仕事をしているから生活が成り立っているのだという意識がどこかな働いている。世の中の役に立たない仕事はない。
世の中の役に立つ仕事という定義にしてみれば、世の中の役に立たない仕事はないのだから、ボランティアが取り立てて世の中の役に立つと言う事で特別視するのは当たらなくなる。ボランティアが世の中に立つ仕事で営利性がない仕事と定義するならば、今度は営利性とは何かと言う事になる。この思想は営利事業を慈善事業よりしたら見る事を前提としなければならない。営利事業ではないからボランティアだと言う事になる。
しかし、営利性とは、利益を上げて利益の中から自分達の生活費を調達する事だとしたら、営利性を否定する事は、生活そのものを否定する事になる。
だから、どうらかと言えば、ボランティアというのは、宗教的熱情でしか説明がつかなくなる。つまり、ボランティアであるかないかの差は、思想によるのである。
それに対して世話をするというのは現実である。現実に困った人がいるから世話をやくのである。だから世話をやくのは、日常生活全般にわたる。日常生活で困った人がいれば世話をするのである。それは共同体の理論から出る。

一神教的な思想がボランティアにはある。
ボランティアは、基本的に生活にゆとりがある者が行う無償の慈善事業であり。神への信仰の証として行う行為である。
だから、欧米では罪の償いとしてボランティア活動が求められる事すらある。
元々ボランティアというのは、志願兵が語源であり、十字軍にまでさかのぼれると言われている。現代では、ボランティアは、自分でできることを自分の意志で周囲と協力しながら無償で行う活動を一般に言う。基本的に無償活動である。
志願兵という考え方の背景には、選民思想、エリート意識がある。つまり、ボランティア活動を通じて自己の救済を求めるのである。だから、無償であり、行為をする相手が問題なのではない。自己の行為が問題なのである。ボランティアの対象は、自己の信仰を助けてくれているという意識が大切になる。ボランティア活動の本質は、神への信仰に基づいた慈善事業、奉仕活動なのである。それがボランティア精神の根本にある。
しかし、日本のボランティアというのは、根源が違う。日本のボランティアはどちらかというと助け合い活動、互助活動の意味合いが強いである

日本では、阪神淡路大震災や東日本大震災などが契機となって定着してきた。
それまでの社会主義運動や共産主義運動が社会主義体制の崩壊と伴に下火になった事で、方向性を失った若者達が、震災や洪水、津波等のような災害を通じてボランティア活動に多数参加するようになったのである。

ボランティアは、基本的に無償であるが、最近は、実費などを負担してもらう有償ボランティアも認められてきた。しかし、ボランティアの有償化は、ボランティアの本質を変える事になりかねない。故に、有償化にあたってはボランティアの目的を充分に留意する必要がある。
ただボランティアは、基本的には、キリスト教のような価値観とそれを基礎とした社会的背景が前提となっている点を忘れてはならない。ボランティアというのは、自分の信仰を実現する事。だから報酬を相手に求めない。つまり、修行の一環なのである。宣教師が不況をを行うのと同じ事である。そこにボランティア精神の崇高さがある。

このボランティアの根底にある魂を理解していないとボランティアの持つ本来の姿を見失う事になる。ボランティアのあり方そのものを変質させてしまう危険性があるからである。

基本的に世話人というのは、恩着せがましい事は控える。恩は、世話をやいてもらった人が感じるものであって世話をした人が押しつけるべき事ではないという暗黙の合意があるからである。
そして、日本人の倫理観の核に恩という思想があった。

同じ釜の飯を食った仲間という考え方が古くから日本にはあった。つまり、寝食を共に下仲間。苦楽を伴にした仲間。死線を伴にくぐり抜けた戦友という意識である。
同じ仲間だから世話をするのが当たり前という考え方で、お互い様、御陰様、お世話様という思想である。
だから、日本人は、会社に入る時、お世話になりますといい、会社を去る時は、お世話になりましたと声を掛けるのが通例である。



経済とボランティア


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