思うと言う事


思うと言う事

 何事も始まりは思うことである。
 成績を良くしたいな。
 友達と仲良くしたいな。
 どこか、旅をしたいな。
 野球をしたいな。
 綺麗になりたいなと思うことである。
 何も思わなければ始まらない。
 思う様に行動し、思う様に生きるのである。
 いい仕事をしたいと思えば、いい仕事をし、
 適当でいいやと思えば、適当な仕事になり、
 どうでもいいやと思えば、どうでもいい仕事になる。
 ただ言われたことをやればいいと思っていれば、言われたことしかできなくなる。
 良い人生を送りたいと思えば、
 良い人生を送れるし、
 適当な人生でいいやと思えば、適当な人生になる。
 どうでもいいなんて思えば、どうでも良い人生になってしまう。
 プロ野球の選手になりたいと思えば、少なくともプロ野球の選手になれる可能性はある。
 最初から諦めていたら、一生、自分の望む人生なんて送れない。
 そうさ、思うと言う事は、望むことにもなるんだ。

 死にたいと思えば、死に。
 生きたいと思えば生きる。

 そして、望みも、もういいやと思った時に、終わってしまうんだ。

 どういう生き方がしたのかその思いがなければ、何を学んでも身に付かない。
 身に付かない学問なんてしたって意味はない。
 だから、教育とは、思わせることから始まる。
 日本人は、無為を善とし、無作為であることを良しとするように教えられている。
 しかし、人生は、作為なのである。
 人の意志で決まるのである。
 人生は、舞台である。
 どう生きるか。いかに生きるかである。

 根本は、自分の意志である。覚悟である。

 何でも、かんでも今の教育は、疑ることばかりを教える。
 人を疑ることを教えるのが教育ではない。
 人を信じる事が難しい世の中だからこそ、人を見る目を養い、人を信じる事が出来るように指導するのが教育なのである。
 何でも、かんでも、疑ってかかれと言うのは、教育の敗北である。

 以前、絵を習いに言っていたことがある。
 その時、絵の先生が
 「絵は、上手くかけないからこそ上達する。」と教えてくれた。
 「芸術大学へ行くと、絵を描く技術を教えてくれる。しかし、絵を描く技術を覚えてしまうと本当の画を描くことが出来なくなる。例えば、真珠を本物らしく描く技術はある。そうすると何も考えずに、苦労せずに真珠を書けるようになってしまう。しかし、それでは、絵を描く本来の意味がなくなってしまう。それは芸術ではなく。工芸である。
 芸術の本質というのは、何とかして真珠を通して真珠を描くことで自分の思い描きたいと言うところにある。だから、絵を描くことよりも絵を描く思いこそが大切なんだ。」と言われていた。

 出来なくて、哀しくて、辛くて、苦しくて、厭な思いを沢山するから人は、成長発展する。最初からうまくいったら何も努力したり、工夫したりしなくなるし、かといってすぐに諦めても成長発展の芽はない。
 だからこそ大切なのは、自分の意志なのである。
 例えば、絵を描きたいという自分の思いなのである。

 人生というのは、ドラマなのである。
 芝居がかったところがあっても可笑しくない。
 陶酔したって悪くない。
 酒も飲まずに酔えたら安上がりでいい。
 他人にのせられたり、乗じられたとしても
 自分がそれで幸せになれればいいのである。
 夢のために、他人に利用されたとしても、
 夢のない人生よりよっぽどましである。







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