スポーツ

 教育の目的は、知育、徳育、体育にあると言われている。そして、現代の学校教育は、知育ばかりを専(もっぱ)らにして、徳育と体育を疎(おろそ)かにしていると批判されている。なぜ、この様な批判が生まれるのでしょう。そこに、現代教育の問題点が潜んでいる。

 体育というとスポーツの授業と思われてしまう。それくらい、体育とスポーツは、密着している。しかし、体育とスポーツとは違う。

 体育というのは、教育の一環であり、スポーツは、教育の手段である。つまり、体育は、教育の一部であり、スポーツは、体育が教育で果たす機能を実現するための手段に過ぎない。ただ、重要な手段である。故に、スポーツそのものの目的と体育の目的とは違う。

 体育は、スポーツ選手を育成するものではない。況(いわん)や、プロのスポーツ選手を育成することが体育の目的ではない。体育の目的は、人格形成にある。つまり、体を鍛えることによって、団結力、忍耐力、責任感、規律、勇気、チームワークと言った徳目を身につけさせることに体育の目的はある。

 体育とは何か。それは、体育を通じて何を学ばされるかによって決まる。そして、何を学ばせるかは、国家理念、建国の理想による。
 体育の目的は、人格の陶冶(とうや)にある。

 その為に有効な手段としてスポーツはある。ただ、スポーツだけで、体育全般の目的を達成する事は困難である。
 また、体育の目的を明確にせずに総花的な授業をしてしまうと、体育本来の目的は失われ、ただ、スポーツを観戦したり、楽しむための素養を身につけさせるだけで終わってしまう。

 大学の体育の授業が形骸化し、あたかも盲腸のようなものになってしまっているのが好例である。それは、大学の体育の授業が、体育の事業本来の目的を喪失しているからである。しかし、体育というのは、教育の上で欠くことのできないものであったはずである。だからこそ、大学のみでなく、小学校から一貫して教育されてきたのである。しかし、今では、学校教育の中で体育の時間は、お荷物のように扱われており、体育の先生というのは、美術や音楽の先生と同様、学校教育の中ではおざなりの存在になっている。居場所がないのである。

 体育の根本は体得である。つまり、経験である。経験とは、実践である。その意味で体育は、経験主義教育の源流でもある。その源は、修業である。スポーツ道である。

 かつて体育、つまり、修業は人格形成のための柱でもあった。知育によって知識を身に付かせ体育によって礼儀や作法と言ったものを体得させ、その二つを総合することによって徳育を実現しようとしたのである。座学と修業は、相互に補完するものであり、両方がなければ教育は成り立たなかった。ところが、戦後、修業と言う側面をなぜか、教育界は切り捨ててしまい、座学のみに教育を限定してしまった。その為に、体育はその本質を失い、廃れてしまったのである。
 修養、修業の言葉が示すように、言葉でなく、経験によって身につけるべき人徳は、どちらかと言えば、本来、体育に重心が置かれていた。行動規範に直接的に体育は結びついているからである。ところが、躾や修養というものを切り捨てたことによって成り立っている今日の教育体制にあっては、体育は、余計なもの、受験勉強には邪魔なものと見なされるようになってしまったのである。

スポーツと教育

 スポーツを通して何を学ぶのか。何を教えるのか。現代の学校教育では、それが明らかではない。また、その根本的な精神・姿勢を忘れている。

 世界新記録や優勝をしなければ、感動できない人もいれば、たった一本ヒットを打てただけで感動する人もいる。たった一本のヒットが自信に繋がったり、新しい可能性のキッカケになったりする。どちらの方が、スポーツを楽しんでいると言えるか。また、スポーツ教育の目的は、どちらなのか。それは一概には言えない。しかし、どちらか一方を頭から否定する必要もない。現代教育は、結果に偏ってはいないだろうか。勝つことだけが、スポーツの唯一の目的ではない。

 現代人は、価値観を意図的に避けようとしているように見える。つまり、内面の動機よりも表に現れた結果ばかりを追い求めているように見える。それを科学的だ、又は、合理精神だと取り違えているようだ。しかし、スポーツの面白味は、結果よりも過程にある。スポーツは、本来過程を楽しむためにある。

 当初スポーツは、勝敗のみを目的としたものではなかった。クーベルタン男爵が奇しくも、参加することに意義があると述べたように、勝敗はむしろ二義的なものであった。しかし、それが段々に勝敗を競うものに変質し、名誉だとか、忍耐、勇気と言ったものが失われていった。つまり、人格形成よりも、勝敗が重視されるようになったのである。

 スポーツ教育の一つの目的は、スポーツマンシップを涵養する事にある。ならばスポーツマンシップとは何か。それは、誇り高さであり、公正を求める精神である。だからこそ、勝敗だけに拘泥することは、スポーツマンシップから逸脱している。

 勝敗のみを追い求めた故に、教育上におけるスポーツの目的や意義が失われつつある。本来、スポーツは、過程を楽しむものである。結果ばかり追い求めたら、意味がない。
 更に、スポーツのプロ化が進むにつれ、結果が営利に結びついてしまった。そのために、勝敗ばかりが重視され、スポーツ本来の楽しみが見落とされてしまった。
 しかし、スポーツの醍醐味は、過程にある。過程にこそドラマがある。勝敗は、結果に過ぎない。勝つためにならば、どんな手段を使っても良いという事になるとスポーツの本来の美徳は損なわれる。観戦してもつまらない。

 教育の目的の中心は、徳育にある。つまり、人格形成にある。その人格形成のための、手段として知育、体育がある。
 スポーツや体育を通じて、チームワーク、責任感、忍耐力、貫徹力、友情、組織、名誉などを経験的に体得させることにその主眼があるのである。それを忘れて、勝敗のみを追求すれば、教育の目的は失われる。それは、知育とて同じである。
 身につけた体力・知力を反社会的な活動、犯罪に用いられれば、教育の最終的目的に反する。教育の最終的目的は、人格形成、即ち、徳育にあるのである。

決断力


 人心は、決断する者に靡く(なびく)。決断の適否ではなく。決断力ある者が、指導力を発揮する。故に、決断力は、指導力を発揮する為に不可欠な要素である。
 また、決断は、行動に先立ってやるものである。決断なき行動は、抑制できない。だから、責任がとれない。故に、社会的な責任を果たすために、決断力は、不可欠な要素である。そして、決断力は、訓練によって磨かれる。座学では磨かれない。決断力は、決断することに依ってしか身に付かないのである。スポーツは、最も決断を要するものである。そこに、スポーツ教育の必要性、即ち、目的がある。

 決断というのは、 抜刀する気合いでするものである。考えてするものではない。決断は、論理的飛躍である。一対一に対応する性格のものではない。つまり、決断は、第一感、直感に基づいて気合いでするものであり、考えてするものではない。迷えば決まらないのである。
 好きだと思うから好きな理由があげられる。最初から嫌いな相手に好きな理由を聞いても意味がない。人を好きになるのは、理屈ではない。好きだから好きなのである。だから、理屈ばかりこねていたら、人は好きになれない。
 戦後、子供によく考えて決めなさいと教える親が増えた。それは、決断力を鈍らせるだけである。決めさせ、それから考えさせる。その修練によって第一感、直観力は磨かれ、決断力は、鍛えられる。つまり、決断力は、座学勉強では養われない。決断力は、知育に基づくのではない。体育に基づくのである。好きか嫌いは、第一印象に左右される。つまりは、直感である。履歴書を見て好きになるわけではない。
 子供が、直感で物を選ぼうとする時、それを制止してよく考えなさいと躾(しつけ)てきた。馬鹿である。だから、優柔不断の大人が増えたのである。玩具でもその子が選んだ物を与える。その代わりに、それに文句は言わせない。そういう厳しい姿勢でしか決断力は養われないのである。

 スポーツを通じて学ぶ目的の一つは、決断力を養うことである。現代人は、物事を決められなくなっている。決めると言う事は、訓練によって身に付く。しかし、この訓練が現代教育の中に欠けている。だから、多くの人が決められなくなっている。決めると言う事は、暗記では身に付かないのである。

 決められないと言うのは、何をどうやって決めたらいいか解らないからである。
 スポーツというのは、ある意味で決定の過程を様式化したものだと言えないこともない。現代人、特に、戦後の日本人は、形式的なもの、例えば、礼儀作法、儀式を徹底的に否定してしまう傾向がある。その結果が、決められない人間や引きこもりを増やしている。
 つまり、世の中は成文法と不文律とで成り立っている。成文法は、世の中の骨格を形成し、不文律は、肉体や精神を形成している。骨格である成文法ばかりでは、世の中は成り立たない。むしろ、世の中を円滑にしているのは、礼儀作法のような不文律である。この不文律を否定してしまったから堪らない。挨拶もろくにできず、人とどう付き合えばいいか解らないものを増やしてしまったのである。

 一連の決断には、過程があり、構造がある。あたかも、一回一回の決断は、独立しているように思えるが、一つ一つの決断は、前後の決断と関連、脈絡があり、ここの決断を見ただけでは、その決断の正当性を評価することはできない。この決断をある程度、様式化したのが礼儀である。礼儀作法を否定したら、決断力が鈍るのは、当然の帰結である。
 スポーツは、局面、局面を様式化し、局面・局面で決断すべき事を明らかにしている。だから、多くの決断を短時間で下すことができる。

 しかし、決定というのは、単純なことが多い。単純化することで決断はしやすくなる。つまり、基本的には、バットを振るか振らないかである。そういった単純な決断を順序よく、前後の流れに沿って行うものである。
 日常的な決断も同様であるが、この順序や手順・流れがつかめないために、決断ができなくなっているのである。そして、決断力は、基本的に修練、経験によって身につけるものである。
 スポーツは、この意志決定を効率よく身につけさせるものである。

 また、意志決定において、結果のみが重視され、過程が重視されなくなってきた。しかし、これは、民主主義の堕落を意味する。

 決断というのは、決して断じることである。つまり、第一感、直感を重視したものである。ところが、多くの教育者は科学的合理精神は、懐疑主義、論理主義に基づくと錯覚している。むろん、科学は、直感力を否定してはいない。むしろ、最終的には、直感に基づかなければ理解できない。論理的に決断はできない。
 よく考えて決めなさいと教える者がいるが、考えたら決められないのが普通なのである。考えて決めろ、考えて決めろと教えるから、優柔不断になるし、論理力も身に付かない。論理の根本も直観的認識なのであり、直観的認識なしに論理は組み立てられない。決断は、直感に基づくものである。直観を否定したら、科学も成り立たないのである。
 決めてから考えるべきなのである。決めてから考えさせるように教えるべきなのである。ああだこうだ、迷ったところで決められない。普段日常的に物事を決める訓練をし、その結果に対して責任を持たせるように指導すべきなのである。そして、決断というのは、決して断じることなのである。その決断を支えるのは、普段日常の心構え以外にない。その心構えを鍛えるのが、体育の第一の使命である。
 
 決断というのは、根本的に第一感、直観力を研ぎ澄ますことである。体育やスポーツの目的もそこにある。

スポーツと平等

 スポーツほど、平等という概念を具現化しているものはない。だからこそ、平等という概念を身につけるためには、スポーツほど適しているものはない。

 近代という時代は、平等化・自由化の時代でもある。その割りに、平等・自由という概念は曖昧である。中でも平等の概念ほど、都合良く解釈されてきた概念はない。

 平等とは何か。個人の能力差や個性を無視して、全てを同等に扱うことを平等というのであろうか。それならば、なぜ、年齢や体重別、柔道のような階級別、ゴルフのハンディのようなものが認められるのであろうか。

 人は、存在において既に平等である。人は、自然の法則の前に等しく平等である。生・病・老・死は、極悪人にも、聖人にも、独裁者にも、市井の人にも、天才にも、凡人にも等しく訪れる。平等なのである。
 この法則を敷衍化したところに近代の民主主義は成り立っている。つまり、人は、法の下に平等であらなければならないという思想である。これは、思想である。所与の法則とは違う。人間の意志が創り出したものである。自然の真理ではない。人間の意志である。
 このことを端的に現したのが、スポーツである。即ち、スポーツは、ルールの下に平等なのである。

 故に、平等とは何か。それは、存在に関わることである。同時に、法に関わることである。この二点において、人は平等である。それ以外の差、例えば、肉体的差や個体差を認めないと言っているわけではない。均一・均質・統一・同一することを平等というのではない。それは、同等である。

 皆、等しく存在するが、一つとして同じ物がないというのが、平等概念の大前提である。

 スポーツは、この平等観に徹したところで任意によって作られている。故に、ルールが重要なのである。一度ルールが定まれば、そのルールの下に平等が実現するからである。ルールを決定・改廃する過程に不正・不公平が介在すれば、必然的に平等は実現しない。それは、民主主義の原理も同様なのである。

 日本人は、ルールを所与のものとして捉え、ただ、ルールは無条件に受け容れるものだと思いこんでいる節がある。しかし、ルールは、合意に基づき、所定の手続きによって決められる性格の体系なのである。このことを理解しないと、平等の意味は理解されない。

 ルールと自然の法則とは違う。自然の法則は、所与の原理であり、人間は、無条件にただ受け容れざるを得ない。それに対し、ルールは、任意な体系である。それは、人間が創り出したものである。人間一人一人が積極的に係わり合うことによって形成される性格の体系である。それが決定的に違う。だからこそ、ルールにおいて重要なのは、合意を形成する過程なのである。人間社会における平等とは、法やルールを制定する手続きによって保障されている。そこに、不平等が存在すれば、平等は成り立たないのである。法の下の平等というのは、法を制定・改廃する手続きの下の平等とも言えるのである。また、任意である法やルールの平等は、条文によって定義される性格のものであり、自然の法則の下、存在における平等とは、本質が違う。つまり、社会的平等は、極めて、制度的、観念的、思想的平等なのである。

 平等を論ずる時、個体差は、当然、大前提となる。個体差を認めなければ、法やルールは成立しないからである。個体差があるから、法やルールは必要とされる。問題は、その個体差を法やルールはどのように受け止め、どう規制するかでなのである。

 日本人は、平等を実現したいならば積極的にルールの制定・改廃に係わらなければならない。人に決められたルールに不満を言ったところではじまらないのである。スポーツは、ルールに始まる。スポーツは、ルールによって作られる。即ち、スポーツ教育の肝心なところは、このスポーツのルールの制定・改廃に対しどのように係わっていくかにあるのである。

 差をなくしてこそ平等は実現するのではなく。差を認めてこそ平等は実現する。個体差を認めずに何でもかんでも同じに扱うのは、同等であって、平等ではない。
 生まれたばかり赤ん坊と成人とを同じ条件で競わせるスポーツはないであろう。差を認めてこそ、平等は成り立つのである。
 男女を同等に扱っているスポーツはまだない。なぜならば、それが女性に圧倒的に不利になることが明らかであり、平等の精神に反するからである。それを男女差別というのは、強者の論理である。弱い立場の女性が言い出すのは、物事の本質が見えない証拠である。

 個性や能力差を認めずに、全てを同等に扱うことだと錯覚をしているものがいるが、それは、平等ではなく、同等である。

 全員を勝者にする事が平等なのではない。全員を同じ条件で競わせることを平等というのである。

スポーツと自由

 我々は、いろいろなスポーツをいろいろな仕方で楽しんでいる。プロスポーツを観戦して楽しんだり、また、休日には、仲間達と実際にスポーツをしたりしている。ただ、いずれにせよ、ある程度のルールを知らなければスポーツを楽しむことはできない。されに、プロの選手となると、ルールだけでなく、技能も身につけていなければならない。ルールや技能を身につけると、華麗で自由なプレーを楽しみ事ができる。
 プロの選手は、自在に身体を使いこなし、自由にプレーを楽しんでいるように見える。しかし、それは、厳しい練習と修練の賜物(たまもの)なのである。

 自由とは何か。ルールを無視してやりたい放題やることを自由というのであろうか。そうではない。ルールがあるからこそ、自由は保障されるのである。

 最初から自由にさせればいいと言うのは間違いである。自由は、自儘(じまま)、自分勝手ではない。自由は、自己実現である。自己実現には、自己が確立されていなければならない。自己が確立されていなければ自由にはなれない。
 自由になるのである。
 つまり、人は、肉体的には、自分の心身を鍛え抜くことによって自由となり、行動においては、ルール・法則を我がものとする事によって自由になるのである。ルールだけでなく、自然の法則も見方にしなければならない。いずれにせよ、ルールや法則に逆らっても自由にはならない。

 ルールを自分の内部に取り込み、自家薬籠中の物とすることが自由になることである。ルールの在り方や意味を実際にスポーツをプレーする過程で体験し、習得する。それによってルールや規則による呪縛から解放される。それが自由である。ルールや規則を無視したり破ることではない。ルールを我が物とすることである。

 その意味で、スポーツほど自由を具現化しているものもない。平等と同様に自由の意義を学ぶためには、スポーツほど適しているものはない。

 だからこそ、自由になるためには、ルールの意味を理解しておく必要がある。ルールを理解することは、自由を実現するためには不可欠な要件なのである。

 スポーツは、ルールを下敷きにして成り立っている。
 このスポーツのルールを日本人は、絶対普遍的なものとして捉えがちであるが、スポーツのルールは、人間が話し合いで決めたものであり。ルールを話し合い、決定するところからスポーツは始まることを忘れてはならない。そして、スポーツのルールを決める過程こそが民主主義のルーツであることも忘れてはならない。ならば、この基本的な過程を学ぶことは、民主主義を体得する一つの手段であることに相違ないのである。

 近代スポーツの祖を近代オリンピックにおくのは早計である。むしろ、サッカーやラグビーと言ったフットボールに求めるべきである。
 サッカーやラグビーの歴史は、ルールの歴史でもある。そして、ルールを決定することからスポーツは始まるのである。そして、ルールは、決して普遍的なものではない。スポーツは、ルールを決めるところから始まるのである。つまり、ルールは所与のものではない。自明なものでもない。任意な体系である。

強いチームとは


 甲子園を戦い抜いてきた高校球児は、勝って泣き。負けて泣く。高校野球では、球場外での行いも問題にされ、それが時々、新聞紙上を騒がす。中には、スポーツに関係ないことであまり小難しいことを言う必要はないではないかという意見もある。
 しかし、気になるのは、問題とされている事が、表に現れた行為に拘泥して、その動機を軽んじる傾向があることである。体罰論争でも問題になるが、体罰そのものを否定すべきなのか、教育姿勢や教育信条を問題とすべきなのかである。勝敗という結果にこだわるのも同じである。ただ、勝てばいいのか。
 問題は、勝てさえすれば、倫理観はどうでも良いという姿勢である。かつて、高校野球で、当時、強打者の松井を四連続敬遠をして、勝ったチームが、社会的に糾弾されたケースがある。これなども典型的な例である。

 確かに、勝敗を競うことだけがスポーツの目的ではない。しかし、勝敗を度外視して良いのだろうか。スポーツが、結果として勝敗を確定する以上、勝敗を目的にするのは、当然である。スポーツの目的と体育の目的の違いがそこにある。

 勝敗、強弱、損得、優劣は、倫理観から見て否定的な価値基準である。しかし、現実の世界では、最も有効な価値基準である。勝てば官軍、勝った者の言い分が常に正しいというのが世の常である。西洋文明が隆盛を極めているのも、結局、他の文明が負けたからに過ぎない。ならば、倫理上の矛盾をどう解決するのか。勝敗は時の運。善悪とは無縁と言っても敗者の正義が否定されてしまう以上、そうはいっていられない。

 教育の目的というのは、何を学ばせるかにある。スポーツから何を学ぶか、それは、スポーツマンシップ、即ち、人間いかに生きるべきか、どうあるかを明らかにし、何が公正で、何が不公正であるかを学ぶことである。
 スポーツの目的は、勝敗にある。いずれに収斂(しゅうれん)させるかは、受ける側の意志による。教える側が強要することはできない。だからこそ、話し合いが必要なのである。
 教育は、教育者の意図と違う効果をもたらすことが往々にしてある。それを教育者の意図と違うからといって一応に否定することはできない。

 ならば、全国大会や対抗試合に出場することの意義は何か。多くの若者達は、なぜ自分達の青春をなげうってまでスポーツに打ち込むのか。その情熱はどこから来るのであろうか。それは、打算だけであろうか。
 勝負にこだわることもそれは、それで意義がないわけではない。
 何もかも忘れて、一つのことに無我夢中、没頭することは悪い事ではない。むしろ、人間形成の過程では不可欠なことかもしれない。しかも、それが団体競技であれば、仲間や友情、名誉や責任感を学ぶ絶好の機会ともなる。
 全てではないが、勝利すること、成功、成し遂げること、達成感、団結と言った事を学ぶことは大切な事である。強くなることは、決して悪い事ではない。
 勝敗を競うことも無意味なことではない。ただ、教育において勝敗は一義的なことではない。あくまでも二義的なことである。それを承知の上であえて勝負にこだわってみる。それは、一つの目的に向かって皆が一致協力し、団結することに意義があるからである。

 チーム作りの過程で、我々は、現実の社会の問題にも立ち向かう。スポーツのチームは、勝つことを目的としている。中には、勝つことよりも親睦やチームワークの習得を目的としているものもあるが、しかし、チームは、機能的には勝つことを目的としている。その為に、勝つためのチームは、いかにあるべきかが問われる。民主的在り方は、どんな時にも絶対か、身をもって学ばされる。

 強いチーム作りのためには、何が必要なのであろうか。民主的に運営すれば強いチームはできるであろうか。例え、専制的だとしても統制のとれたチームの方が、強いことを多くの子供達は経験的に理解している。
 頭から、統制的なものは悪で、民主主義的なものが絶対だと決めつけるのは早計である。大体、民主主義とは、個人の意志に基づく体制である。その人が、勝つために統制の厳しい組織を選んだからと言って非民主的だとは断定できない。重要なのは、個人の意志なのである。

 目的や状況の変化に合わせて体制が選べるチームが生き残れるのである。民主的というのは、民主的手続きによって体制が選択できる体制を言う。

 勝敗を度外視しようとする考え方が、行きすぎてしまうと、幼稚園の徒競走で、オテテつないでゴールインというような事態を招く事になる。
 極端な非暴力主義や平等主義から、喧嘩や競争を頭から否定している人間がいる。現実の世界は、相対的な社会である。その中でお互いが競い合って自分の所在を見出している。最初から暴力を否定し、喧嘩をしたら、原因や動機も調べずに叱ったり、泣いたら、泣かせた者が悪いという短絡的な判断に依っていては、健全な価値観は形成されない。物事には、道理がある。その道理をわきまえてはじめて成り立つのである。道理の解らない者は、教育者になっても、保護者になっても厄介である。教育者になれば、子供達を臆病にし、保護者になれば、教育者を臆病にする。

 民主主義、イコール、話し合いという間違った認識がある。民主主義と話し合いと言うのは、イコールではない。何でもかんでも話し合いで決めればいいと言うものではない。それこそ民主主義に対する幻想である。一度競技が、ゲームが始まったら、会議を開いている隙はない。プレーに専念するしかないのである。
 民主主義は、法治主義を下敷きにしている。つまり、民意に添って法的に決定をするという方が正しい。そして、一度決まれば、それに従って行動をするのが民主主義のルール、決まりである。それは、スポーツの在り方に重なる。
 そして、勝敗の意義は、スポーツ教育においては、選手達の成長のためにある。

 強いチームを作るために、強いリーダーが、強いリーダーシップを発揮することは大事である。そして、メンバーシップも同時に学ぶのである。それもまた、民主主義の勉強である。また、強いリーダーが歯止めをなくさないためには、どのような仕組み、ルールが必要なのかを学ぶのもスポーツ教育の目的である。

 スポーツを通じて社会の在り方や民主主義の在り方、集団活動を身につけさせる。そして、強いチームの在り方を学ぶのもスポーツを通じた教育重要な機能である。

 勝敗は、スポーツを学ぶ目的が明らかな時にこそ、意義があるのである。

プロとアマ


 アマとプロの目的は、自ずと違う。そして、体育の教育目的は、勝敗とは別の次元にある。体育においては、アマチュア以上に勝敗にはこだわらなくて良いはずである。しかし、勝敗にこだわらない体育の授業は、魅力がない。

 スポーツを生業にする者とスポーツから学ぶ者と、つまり、プロとアマでは、勝敗の意義か違う。スポーツを生業とする者の目的は、基本的に生活の糧を得ることであるが、スポーツを通して学ぶ者は、人格の陶冶が目的である。つまり、プロは、営利を目的とし、アマは、栄誉を目的とする。必然的に、プロは勝敗にこだわるのに、アマチュアは、勝敗よりも名誉を重んじる。

 同じスポーツでも相撲の世界では、横綱の品位が問題になる。しかし、その品位を何処で決めるかの基準は、極めて主観的である。しかし、そこには、スポーツとしての相撲という側面と修業道、相撲道としての相撲の側面の両面が現れている。それをいずれか一つに集約する必要があるのか。その答えは、その国の歴史や伝統、社会、時代背景といった多面的要素によって決まる。勝負によって一義的に決まることではない。

 プロは、アマチュア的な練習をし、アマチュアは、プロ的な練習をする。プロほど、基本に忠実な練習をする。
 それは、勝負に対するプロとアマの姿勢、捉え方の違いからくる。所詮、アマチュアは、娯楽、遊びの域を出ない。しかし、プロは、違う。厳しい競争社会、戦いを生き抜かなければならない。だから、なりふりかまわず勝ちにいく。勝つための練習をする。
 素人は、つい格好いいことをしたくなる。単調な基礎練習を怠りがちである。特別な練習や応用練習ばかりに目が向いてしまう。
 ただ、オリンピック精神の原点にもハッキリ現れているように、スポーツの本質は、アマチュアリズムにある。そこに、スポーツマンシップの原点がある。
 スポーツから修業・修養の要素が失われ、単なる遊び娯楽の要素だけが残された結果、フェアプレーの精神に代表された、スポーツマンシップが、コマーシャリズム、ショーマンシップに取って代わられてしまったのである。そして、スポーツがショー化されていったのである。
 これも、ある意味でスポーツ教育の形骸化の結果かも知れない。ただ、表意面的な格好良さばかり求めて、心身の鍛練を忘れた結果である。

 結局、アマチュアリズムの崩壊とスポーツ教育の形骸化とは符合している。
 このまま放置すれば、ショー化したプロのためのスポーツと娯楽や遊びのためのスポーツに二分化してしまう。自己を鍛え、人格を陶冶するという目的のスポーツは、廃れてしまう。面白いことに、女性の方が、自己を鍛錬する目的でスポーツをする機会が増えている。ただ、なぜ自己を鍛錬するのかについての動機や目的は、ダイエットである事が多いが・・・。しかし、それでも何にもしないよりもずっとましである。

 人間は、自己の精神を高めてきた。人間にとって道徳は、最高の境地であった。しかし、現代人は、倫理観や道徳の問題を意図的に避けているようにすら見える。それを科学的とか合理的と称して。しかし、それは、科学的でも、合理的でもない、単なる逃避に過ぎない。客観性といって当事者意識から逃れているに過ぎない。人間は、どこまで行っても主観的な動物なのである。自分が何を信じているかによってその人の一生は定まる。
 現代のスポーツ教育にかけているのは、主観である。主体性である。それは、教える者の人格に依存している。だからこそ、師たる者の人格が問われるのである。それは、避けて通れない。結局、客観的合理性とか言って教育者の人格問題から逃げているのが、現代の教育実態なのである。
 先ず自らの姿勢を改めよ。そうしなければ、体育、徳育は実現できない。




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