フィードバック

 現代社会は、フィードバックのない社会、仮想社会である。その最も典型的なのがテレビの世界である。
 フィードバックがない上に仮想的な社会なのである。子供達が、現実離れしていくのは、必然的な結果である。
 かつて、子供達は、野や山で遊びながら、多くのものを学んだ。また、大人達や周囲の人間との関わり合いの中で、社会との関わり合い方を習得した。
 周囲との関わりが、立たれた世界が、現代社会の特徴である。
 テレビやゲーム、ビデオ、漫画というのは、周囲から遮断された閉鎖的な社会なのである。そして、それは、仮想的世界、非現実的世界、非日常的な世界なのである。つまり、現実には、あり得ない世界を、現実の社会や世界と遮断した空間の中で、一方的に刷り込んでいる、それが現代社会なのである。しかも、学校が、それと同様な働きをする。学校も、社会から隔絶した、閉鎖的な社会である。そのなかで、世の中とは、関わりのない知識を詰め込んでいく。しかも、自分のやっている事や、興味のある事とは、無縁の関わりのないところで、一方的に教え込まれていく。これは、一種の洗脳である。しかも、もし、そこで刷り込まれている事が、間違っているとしたら。自己も確立されておらず、フィードバックもされない空間では、それは、その人間が、修正することもできないまま、その人間の価値観を支配していくことになる。
 それは、その人間の自立を妨げるばかりでなく、正常に判断すら下せなくしてしまうのである。

 フィードバックのない社会である。テレビ、ビデオ、漫画、学校は一方通行の社会であり、フィードバックがない。テレビゲームもフィードバックがあるようでない。つまり、学校もテレビもテレビゲームも自己完結的で閉鎖された世界だと言う事である。他との関わりがなくても、その世界だけで完結することができる。友達同士集まっても、お互いに会話することもなく、遊ぶのでもなく、ひたすら、自分だけの世界に、浸っている事のできる世界だと言う事である。つまり、フィードバックを必要としない世界なのである。

 今の学校は、フィードバックのない社会だ。生徒達が現実に困ったことに遭遇し、相談したとしても、何の応答もない。また、期待できない。授業は、同じ教室にいるというだけで、同級生との関わり合いはない。関わろうとすると叱られる。そう言う空間である。更に、勉強となるとお互いが、ライバルであり、競争相手になる。つまり、人間関係を遮断し、断ち切ってしまうのが、学校である。この様な空間でフィードバック機能は、期待しようがない。

 しかし、本質的には、教育には、フィードバックが重要なのだ。英語でも使わなければ、すぐに忘れてしまう。受験勉強で一生懸命やったことも、試験が終われば忘れてしまう。日常会話は、日常的に繰り返される。そして、語学力は深化するのである。日常的な繰り返しと、それによるフィードバックがなければ、語学力は、深化しない。現実の社会における学習や教育は、フィードバックの働きがなければ、効果が出ないのである。
 学んだことを、実行してはじめて、教育の意義が実現する。

 思想や考えは、実際の社会や世界に反映される事で、実証される。価値観や規範も同様である。また、仕事も同じである。いくら、頭の中だけでこねくり回しても、それが通用するかどうかは解らない。考えた事を実行しなければ、その考えは、身に付かないのである。 

 好例は語学である。語学は、生き物であり、単語と単語を文法に従って張り合わせればいいというものではない。言葉は、日常的に繰り返し、使っていることで身に付く。使わなくなれば、直ぐに忘れてしまう。日常的なフィードバックが重要なのである。

 フィードバックのない学習は、結果的に暗記に頼るしかなくなる。暗記は、知識を貯蔵することである。必要に応じて、その知識を引き出したり、組み立てる能力や技術とは違う。知識は、それを、必要に応じて引き出し、再構築する事によってはじめて有効になる。知識をただ、意味もなく貯蔵するのは、使い道もなく、引き出し方も解らない貯金をするようなものである。ただ、虚しい。

 人間が、学習するためには、二つの働きがある。一つは、主体的な働きである。二つ目は、自己に対する間接的な認識の働きである。この主体的な働きと間接的な働きの二つの作用によって、人間は、自己認識をしていく。自己認識の過程で、価値観を形成し、内面の世界を成長していくのである。
 つまり、周囲に対する主体的な働きかけによって、周囲の人間の反応を引き出し、自己を間接的に認識するのである。

 自分の考えを行動に表し、周囲の反応を見て、考えを改めていく。その繰り返しによって自己の概念を形成していく。試行錯誤が学習の基本なのである。そして、その働きこそ、フィードバックなのである。

 教えてしまうと学べなくなることがある。経験や体験を積む以前に、結果が分かってしまうと、その結果を生みだしているメカニズム、仕組みが理解できないのである。
 学ぶとは、経験や知識を現実に生かすことである。学んだ事を実行できなければ、学んだ事にならない。そのために反省するのである。フィードバックの働きは、その過程に作用する。だから、フィードバック機能を最大限引き出すためには、経験が重要なのである。

 現行の入学試験は、フィードバックという機能が稀薄である。確かに、試験が終わると、見直しという作業する。しかし、それは、あくまでも見直しであって、それが、その後の行動を決定付けるわけではない。それは、試験勉強が、試験にしか役に立たないからである。そして、試験は、結果だけが、最後には、問題となるからである。
 フィードバックは、目的に沿ってなされるものでなければ、効果がない。その目的が、自己完結的なものであると、フィードバックは、限定的な機能しか持ち得ない。そのうえ、自己完結的なものであるとフィードバックの機能も目的以外のことと関わりが弱くなる。故に、試験というのは、フィードバックの働きが稀薄であり、限定的なものになるのである。 
 教育は、結果ばかりを追うべきではない。むしろ、目的や原因、動機の方が重要なのである。試験の結果よりも、できない問題があれば何が、原因で解けないのかを、考えることが、大切なのである。考える過程で、他との関わりも出てくる。
 学習というのは、考える過程の上で、更に、何の目的で勉強をしているのかが重要になってくるのである。英語は、英語をマスターする事が、目的であって英語の試験で百点を取ることが目的なのではない。相手に言葉が通じれば、多少文法的に、間違っていても、問題ではない。試験勉強をする過程で、英語をマスターする事が、肝心なのである。
 試験英語という言葉がある。試験にしか、通用しない英語という意味である。この様な英語をマスターする事に、言い換えれば、教育することにどれだけ意味があるのであろう。試験英語というように、受験が終わると廃っていく。徹夜、徹夜でマスターした英語も数年もたたずに元の木阿弥である。これでは、受験が終わった子供達に、悪影響、後遺症を残すのは、必至である。

 フィードバックがないと現実の世界と関わりが持てない人間を生み出すことになる。現実世界と関わり合いができない人間とは、空想と観念の中にしか住めない人間である。また、考えていることを実行できない人間である。もっと酷い場合、考えている事とやっていることの脈絡のない人間である。この様な人間は、自分の行動を制御することができなかったり、妄想と、現実とを区別できない。つまり、価値観と行動規範が分離した人間である。
 自分がやっていることが正しい事か、悪い事かの判断はできても、自分の行動を抑制する事ができない。悪いと思っていても、行動を抑制できない人間である。ただ、外見や普段、接している限りにおいては、全く異常なところはない。行動が、行動を抑制している限りは、何ら問題がないのである。しかし、何らかのキッカケで行動を制御できなくなり、行動が暴走した時、自分の力では、行動を制御することができないのである。
 また、現実の社会と関わりのできない人間は、社会徒の関わり合いを断ち、自分一人の世界に閉じこもる。社会からのフィードバックを受け入れたり、理解することができないから、一度、社会との関わり合いを断つと改めて、社会との関わり合いを持つことができなくなる。そして、周囲の世界と隔絶したところで、自己の妄想を膨らませ、社会を敵視するようになる。更に、同じような境遇の者が、何らかの関係を持つと一つの閉鎖的な集団を形成することもある。インターネットが発達した今日、彼等のネットワークが、社会の底辺で、知らず知らずのうちに拡大する可能性が多分にある。そして、突然、社会に顕在化し、社会問題となるのである。

 この様な人間を現行の教育は、大量に生み出しているのである。それも、自主性や個性を育てると言う名目でである。






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