新家族主義(教育と家業)

 全ての始まりは、父と母が、出会った事である。それは、愛の始まりである。だから、本来人生は、愛に満ち満ちていなければならない。ところが、現行の学校は、愛を否定し、家族の関係を断ち切ってしまう。

 父母は、自己の人生の本源。自らの人生の始まりを愛に求めるのか、欲望や快楽に求めるのかによって、自分の人生の意義の奥深いところが変わってくる。自分の人生が愛より、出ると思うのか。欲望、快楽から出るのと思うのか。今の教育は、愛を否定し、欲望や快楽を是認する。
 快楽や欲望の果てに、自分は、望まれて生まれてきたわけではないと思いこめば、自虐的で、自暴自棄な、人生に陥りやすい。自分なんてと、最初から自己否定的になりやすい。どうせ自分は、誰からも望まれて生まれてきたわけではない。自分も望んで生まれてきたわけではない。だから、どうなっても良い、そんな考え方をさせてしまう

 家族は、自分の源、自己の根源である。父母の存在は、自己の存在の根源なのである。故に、家族は、自己の始源なのである。
 家族を否定するのは、自己否定であり、根本的に人間嫌いなのである。そして、自虐的なのである。

 学校教育の最も深刻な弊害の一つは、断絶である。つまり、自己と家庭との断絶、自己と社会との断絶である。
 人と人との繋がり、絆を引き裂いてしまう。人間は、一人では生きていけない。生きられない。それを教えずに、それでいて、自律する術を教えない。子供達は、将来に不安を抱きつつ。人間不信に落ち込んでいる。救いを求めてもどこからも救いはこない。来るとしたら、闇の底から、救い主の姿に似せて、奈落へと引きずり落とそうとする者達だけだ。真の救いは、自分の足下、依って立つところにあるはずなのに。それに逆らったことしか学校では教えない。
 自己と家族とを引き裂くことは、自己と共同体との分離を意味する。つまり、関わると言う事を教えないことである。自分の家の事や生活のことに関心を持たせる。関わり合いもたせることが大事なのである。

 一定の年齢になると家の仕事を手伝わされた。家の仕事は、家業とは限らない。そして、家の問題の意志決定にも参加することが許された。
 冠婚葬祭、盆や正月といった儀式によって、子供達は、自分達が家族の一員である事を自覚させられた。そして、それが、家族の絆を強め、家族の連続性を高めたのである。そして、それが、地域の祭りしきたりと連動することによって、自己といえと社会の連続性が保たれていた。家の継続やしきたりを否定する事は、家族の歴史、絆を否定する事である。それは、自己と家族と、社会の関係、連続性を否定する事である。
 仕事と社会、家庭との連続性が保たれてきた。この連続性、関係の中に学校は位置付けられるものであり、これらと無縁なところに学校が位置付けられれば、その存在そのものが、これらの関係や連続性を断ち切る要素になる。関係や連続性が断ち切られれば、家族も社会もバラバラになって、解体してしまう。

 戦後は、家の否定にはじまった。家というものを否定する事、それは、あらゆる方面から為された。しかし、家の否定は、愛の否定である。そして、今日、日本は、愛の不在の社会に突入しようとしている。
 戦前の家族制度、家父長制度が悪いからと言って、家族を否定するのは、行きすぎである。

 家というのは、自分が安心し、和らぐ場所である。自分が自分でいられる場所である。
 学校から家を否定されれば、学校へ行きたくなくなるのは当然である。学校が親の教えや躾に反することを教えれば、子供内面は、引き裂かれる。学校へ行きたがらないのは、正常だからかも知れない。学校では、自分の子供や孫に教えて欲しくないことは、教えさせるべきではない。子供を産み育てている者の当然の権利である。そうしなければ、自分と家族と学校の連続性は保たれずに、社会は、分裂してしまう。

 社会が多様化するのは、良いとして、教育を意味もなく多様化するのは、間違っている。多様化するのは、学校の方であり、生徒当人に対する教えは、統一すべきなのである。価値の多様化といって自分の考えをあやふやにするのは、教育者としてあるまじき態度ある。卑怯である。医者が、病気に対する見解は沢山あるといって自分の所見を明らかにしないのに似ている。教育者自身の思想は、一つであるべきなのである。

 経済学的に見ても、家族は、一体である。最小単位と見なすべきである。家族が依存関係にあるのは、不自然なことではない。自然なことである。況や、それを悪だと決めつけるのは、明らかな論理の飛躍である。男は、女を必要とし、女は、男を必要としている。それは、それでいいではないか、なぜ、それを否定する必要があるのか。なぜ、家族を経済的最小単位であることを否定するのか。そのことからくる弊害の方が、家族を固定する事による弊害よりも大きいではないか。

 家計は、経済の最小単位である。
 家内労働を金銭に換算しようという試みがあるが、それは、ほぼ所得に相当するはずである。それは、家計が、経済の最小単位であることを証明している。つまり、家内労働というのは、主に消費と支出を担っているからである。所得と支出は、経済単位の表裏を担っている。つまり、収入と支出は一致するのが当然なのである。

 また、離婚すれば、慰謝料や養育費が派生するのも、家計が一体である事により必然的なのである。

 ただ、支出が所得に依存するために、家内労働の従事者が、所得を担う者に対して従属的な立場に立たされるという事が問題なのである。故に、所得を担う者に対して法的な責任を重くすることによって均衡を保っているのである。

 問題は、家内労働の社会的地位の向上である。それが、真の男女同権なのである。

 家内は、空疎な場所ではない。家内が空疎な場所になった時、家族は崩壊し、社会は、乱れ、国は滅びる。

 家内を守る者が必要なのである。家内を暖める者が必要なのである。家内で待つ者が必要なのである。

 家内労働は、主に、女性によって担われている。なぜならば、出産と育児が女性固有の特性だからである。家内というのは、空白地帯ではない。

 家族の問題は、出産と育児をどう考えるかの問題である。それ抜き、性差別がどうのこうのと言ってもはじまらない。

 出産と育児は、人間の尊厳である。その尊厳を否定してしまったら、愛は育たない。家族の絆を否定する社会は、愛のない社会になる。故に、家族は、社会を構成する核なのである。

 母親は、昔、太陽だった。家の大黒柱だった。家の中心に母親の居場所があったのである。

 税制や家族制度で、母親の地位は、確立されていた。その地位が危うくなったので、母親は、自分の居場所がなくなり、自信をなくしているのである。母親の妻の地位を確立することこそ、真の男女同権である。
 ところが、多くの男女同権論者は、男性を賛美し、女性を卑しめ、女であること自体をも否定しようとしている。これは、男性同化主義であり、単一主義であり、全体主義である。

 家内労働というのは、プロの仕事である。誰にでもできるという仕事ではない。むしろ、どの仕事よりも、総合的で、万能な能力を要求される高度な仕事である。この様な能力を要求されるために、家事を担う者は、常に、自己研鑽が要求される。また、多くの科学技術が、家事の合理化、機械化に向けられたのである。
 この様な万能な労働を可能にしたのは、家事労働には、明確な目標、動機があったからである。つまり、家事労働は、愛する者達の為にという強い動機があるのである。
 家内労働には、高度な知識も技術も必要である。ただ、相対的に社会的な地位が低いだけである。この社会的地位を過激な男女同権論者は、更に低くしようとしている。しかし、過激な男女同権論者の正体は、男女同権論者ではなく、女性の男性同化論者である。

 家事、即ち、炊事、洗濯、掃除、育児、介護を卑しむのは、それを奴隷にやらせていた民族である。日本人は、決してそれを卑しんでいるわけではない。むしろ、そう言う仕事を尊んできた。主婦にそう言う仕事をさせたからと言って母親を奴隷扱いしたわけではない。むしろ、お袋の味というのがあるように、尊い仕事としてきた。少なくとも、それを恥ずかしい仕事とは思わなかった。

 その証拠にそれを外注するとなると莫大な費用と労力を必要とするようになる。家計で賄いきれなくなるから国家が補助しなければならなくなる。 

 子だくさんの時代は、一つの家族が社会を形成できた。母親は、その中心に自分を位置付けることができたのである。だから、母親は、自信に満ち、穏やかでいられた。しかし、少子高齢化、核家族化が進むと、年老いた母親達は、家庭の中に居場所をなくす。ならば、人生の終の棲家は、ホームのような施設で本当に幸せになれるのか。少子高齢化の時代を迎えたとき、放置しておくと母親は、自分の居場所を見失う。それが最大の問題なのである。介護問題は、それに付随して出てくる問題である。
 老後の面倒を見ることは、義務なのかモラルなのかの問題である。義務とするのならば、強権を持ってしなければならない。それが自由で民主的なやり方なのか。違う。強権によって国民を支配することは、民主主義の本義からはずれる。

 戦争で、兵隊は、最後の時を迎える時、「おかあさーん」と叫んだという。母性は崇高なのである。母とこの間に分かちがたい絆がある。その絆が、人間と人間を結びつけ、社会を形作っている。故に、社会を破壊しようとする者は、先ずこの絆を断ちきろうとする。

 次に、歴史と伝統の断絶である。

 家内が密室化することは危険である。家庭と社会との連続性が失われるのも危険である。その意味では、家内と社会との接点が稀薄なのが問題なのである。家内にいる者、特に、母親が社会から孤立してしまう。母親が、社会に積極的に参加できるような仕組みを作るべきなのである。問題は、家内労働の地位の低さと、それに伴う密室性である。本来、家内労働というのは、最も社会性の高い労働である。地域コミニュティは、家内労働の延長線上にある。経済の変動が直撃するのは、家計である。故に、家計を担う者は、社会性や政治性が要求されるのである。それを家に閉じこめてしまうから問題が生じるのである。平和を願うのは、母親達である。最も愛情に満ちた世界それが家庭なのである。それこそが社会を動かす原動力とすべきなのである。その為には、家事を専業化し、その上で、合理化して、多くの時間を社会活動に割けるように化することが大切なのである。女性を家に閉じこめたり、逆に排除しようと言うのは、ある種の陰謀である。
 地域コミュニティ、PTAがより母親達に開かれるべきなのである。また、政治活動や市民運動にも積極的に参画できるような環境作りが大切なのである。また、母親達の為の学校が重要なのである。
 女性を家の中に閉じこめようと言う発想は危険である。母親を孤立させるだけである。

 子供を預ける場所が必要なのではない。母親を孤立させない事が重要なのである。共に育児を考え、同じ立場の母親が集える場所、安心できる場所が必要なのだ。更に進んで、育児や家事を通じて社会に貢献できるような場を提供することである。家事や育児を通じて社会貢献できないと決めつけることが、女性蔑視なのである。
 その意味において、家事労働を否定し、母親が家にいられなくするような、現行の育児制度、保育制度、税制は、本来の目的から逆行している。

 父親と、母親は、子供達の手本となるべきである。少なくとも、そう心懸けるべきである。父親の仕事や母親の仕事を恥ずかしいように思わせるべきではない。そうすれば、親は、身持ちが良くなる。
 子供は、父親や母親を手本とするべきである。少なくとも、父親や母親の仕事を恥ずかしいと思うべきではない。そうすれば、自分の生き様の足元が固まり、生きる方向が明らかになる。
 子の目、親の目、世間の目を気にするから自制できる。それが羞恥心である。子の目、親の目、世間の目が気にならなくなったらおしまいである。犯罪者には、羞恥心がないのである。周囲の目が気にならないのである。
 父親は、誇りと、尊厳の源、母親は、愛情の源なのである。

 子供も、一定の年齢に達すると家の事を相談された。集団就職や仕送りよって家族を助けた。子供と言えども、それなりに、役割を与えられて、責任を持たされたのである。

 今の子は、勉強に専念させられる変わりに、家のことは、無縁にされる。責任は持たされない。だから、家のことに無関心になり、責任感も育たない。それは、無視され続けたからである。

 今の教育の姿勢は、親に心配を掛けるなではなく。子供に心配をかけるなである。つまり、家の問題に、子供達を関わらせるなである。かつては、子供は、十五歳で元服し、それからは、堂々と家の問題にも発言したし、社会でも一人前にあつかった。その変わり、責任も仕事も与えられたのである。今は、子供達は、家の問題に心配をしなくてもよくなったかも知れないが、無視され続けている。だから、子供達は、いつまでたっても一人前になれない。学生さんのまんまである。

 そのうえで、封建的と一刀両断に切り捨てられ、父親や母親は、自分達の生き方、考え方まで否定された。それは、民主主義ではなく、全体主義、植民地主義、帝国主義なのである。

 問題なのは、家族の在り方である。家内分業の在り方を見直す事である。家庭の民主化なのである。

 人生いかに生きるべきかは、どうすれば幸せになれるか。幸せになる道は、自分が今行っていることが喜びになることである。勉強をしている時は、勉強を喜びとし、働いている時は、労働を喜びとする。それが幸せの道である。ところが、現行の学校は、全てを苦しみに変えてしまう。喜びは、お預けだという。

 日本人にむかってある国の人間が、なぜ、日本人は、そんなによく働くのかと聞いたという。その時、自分達は、老後を楽しむためだと答えたという。そうしたら、おまえらは、馬鹿だ。なぜ、今を楽しまないのだと言われたという。
 それを聞いて納得をする日本人が哀しい。情けない。なぜ、労働は、喜びと堂々と答えられないのだろう。
 労働は、喜び。学習は、喜び。昔は、そう教えて育てた。今の学校は、逆を教える。だから、後楽などというのだろう。

 労働は苦役だと学校では教え込む。本来、労働は喜びである。なぜなら、自己実現に最も有効な手段だからである。人は、労働によって自由になる。故に、勤労は、義務であり、権利なのである。苦役になるのは過酷な条件や劣悪な環境によってである。そして、内面の動機である。
 自分が家族に役に立ち、自分の勉強が世のため人のためになり、ひいては、自分の人生の無上の喜びになると信じられれば、受験戦争という地獄だって耐えられる。それがなければ、受験戦争は、ただの地獄だ。

 勉強は楽しい。仕事はおもしろい。家族は一体だと思える事。それが、幸せの根源。勉強は苦しい。仕事はつらい。家族は厄介な存在だ。そう思う事は、不幸のはじまりなのである。

 子供から、自信や誇りを奪うのは、親が自分の仕事、生き様を卑下する事である。父親が、自分の仕事を誇りにし、自分に自信があれば、子供は、自分の生き方に自信を持ち、仕事を誇りに思う。

 お手伝いや身の回りの世話をさせない。だから、始末や準備ができない。家事を馬鹿にし、母親を卑下するようになる。
 家の手伝いや両親の身の回りの世話によって学ぶ。そして、自分が家族の一員である事を自覚する。自分が一人でないことに気が付く。そして、愛情を育むのである。家庭に温もりを感じなければ、家庭を作ろうとはしまい。少子高齢化対策として、家庭を否定するのは、馬鹿げたことだ。
 学校は、あくまでも、従であり、主体は、家庭と社会である。学校が必要以上に権威を持ち、家庭や社会を否定的に捉えたことが、現在の社会の混乱を引き起こしている。

 昔は、家業が主で学業は、従だった。農民の子は、農業の傍らに勉強をした。だから、親たちは、家業に役に立たないことを、自分の子供が、勉強するのをいやがったものだ。蛙の子は蛙と教えられた。
 本来、教育とは、生きていく上で必要な事柄、日常的な判断に必要な知識や、技術を、経験を通して学ばせることに意義がある。
 家業を継ぐ事を強要する必要はない。だからといって、最初から継がせないと頭から否定するのも馬鹿げている。また、子供を自分の仕事から遠ざけるのも、おかしい。自分の仕事を誇りを持って続ければいいだけである。学校は、もっと家庭と地域社会を尊重すべきである。

 家や家業のお手伝いをさせなくなった。お手伝いは、本来、自分たちの生活や社会の延長にある。つまり、社会生活は、お手伝いを通じて、身につける。つまり、教育をしてきた。
 子供たちは、見よう見まねで、親の仕事を覚え身につけていく。ところが、現代社会は、そういった、個々の持つ特殊事情を無視するか、否定する。それによって家族の絆や歴史は中断し、断絶する。結果的に家族の崩壊である。
 大きくなったらお父さんの仕事を手伝うと子供は言う。しかし、現代社会では、それを封建思想だと頭ごなしに否定する。

 家業が衰退している原因は、学校である。
 今の教育を突き詰めると、なぜならば、家や社会、職場との連続性が、学校にはないからである。サラリーマンにしかなれない。計算ができない。家業の衰退によって伝統的産業や技術が喪失している。

 跡を継がせるという発想は、悪い事だという考え方に基づく。世襲というのは、何でもかんでも悪い。それは、強要するから悪いのである。でも黙っていても、二世議員が増えていく。俳優だって、スポーツの世界でも増えていく。それは、自分の父親が生き生きとしているからだ。だのに、一般庶民の世界で、家業を否定しているのは、職業差別であり、ある種の階級差別である。
 どの子でも親は、かっこよくいて欲しい。親の無様な姿など見たくない。なのに、学校は、親の仕事を卑下する。親よりも学校の方がいいと教え込む。親を尊敬し、親を手本としたい子供達にとって、それは、残酷な仕打ちである。そして、学校は、親や家に背を向けさせる。多くの子は、学業が終えても家へ帰ってこない。

 我々は子供の頃、親の面倒を見なくていいと教わってきた。それが、成人になってからいきなり面倒を見ろといわれても困る。それなら最初から、親に孝行しろと言っておくべきだ。それが教育ですよ。

 跡を継ぐなと言う事は、家業、即ち、父親・母親の仕事を全否定したところに成り立っている。確かに、親の仕事を継ぐことを強要するのは、良くないかも知れない。しかし、家業や親の仕事を必要以上に卑しめるのは、間違いである。父親や母親は、自分の仕事、職務を日常生活の中でこなしている。その日常性を否定してしまったら。彼等の居場所がなくなる。日常性を否定しているのが、現行の学校である。

 今の学校教育は、家庭と社会とを断絶し、サラリーマン予備軍を育成するためのものである。

 行きすぎた男女同権論は、愛を否定している。不倫、フリーセックス、心中、それらは、育児放棄、幼児虐待、中絶、援助交際、売春、買春、いじめ、子殺し、親殺しと同根である。

 真の男女同権というのは、家内の民主化である。家庭・家族の否定ではない。
 日本の国を根底から覆そうとする勢力は、父親と母親の役割や尊厳を真っ向から否定しようとする。それは、彼等が、父親と母親の存在が、社会の要であることを知っているからである。

 過激な男女同権論が行き着くところは、男と女の存在の否定である。男女間の差を否定する事は、女の生理を否定する事である。

 もう一度再確認しよう。
 家計が経済の最小単位である。これを個人に分解することは意味がない。家内労働の社会的地位を向上すると共に、社会性を高めなければならない。
 家族の在り方を問題にするのと、家族そのものを否定する事は違う。肝心なのは、家庭の在り方を民主化することである。
 出産と育児は、人間の尊厳であり、人間関係の核、中心となる部分である。これを否定する事は、社会、国家の否定につながる。

 現代の成功者、特に、アメリカに渡って成功した者達の話を聞いて違和感を感じるのは、そこに、家庭の温もりを感じないからだ。金を沢山儲け、豪邸に住み、やりたいことをやる。美女侍らせ、欲しい物は、何でも手にはいる。ゴウジャスとか、豪華という言葉が、成功の証のようにもてはやされる。しかし、何かが、足りない。本当に幸せなのだろうかといぶかしく思う。日本人は、どんなに窮しても他人の世話にはなりたくないという発想がどこかにある。ところが、どんなに成功しても、最後には、他人の世話になるしかない。それが現代社会である。家族がバラバラになり、身内がいなくなってしまったからである。
 荒涼として温もりも暖かさも、何よりも愛がない。帰っても待つ者のいない、広々ととしているが、がらんとした、空っぽの家。孤独で、暗く冷え切った寒々とした部屋。それが、我々の行き着く先の世界なのである。
 一家団欒がない。温もりがない。それを成功と言えるのだろうか。本当に幸せなの。

 家族は、社会の要、父親は、自信と尊厳の源、母親は、愛情と和の源なのである。








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