乳 児 期


 自己は、主体的存在である。同時に間接的認識対象である。これは、自己存在の形態であり、自己認識の構造的基礎を構成する。
 自己存在の形態であるから、後天的にどうこうできる事象ではない。つまり、生まれながらの本質的事象なのである。
 主体的存在でありながら、間接的な認識対象だと言う事は、自己は、主体的に外界に働きながら、外界からの働きかけによって自己を認識するという構造になる。つまり、認識の作用と反作用は存在の形態から派生する現象である。故に、人生最初の学習は、母と子の相互作用によって始まる。
 子供は、母親を求め、母親の応答で自己を知る。赤ん坊は、母親の愛と援助を求める。その時の母親や保護者の態度で赤ん坊は、自分が、この世に受け容れられているか、否かを知る。愛する事によって愛される事を知り、愛される事によって愛する事を知る。だからこそ、乳児期に乳児に接する者の態度、愛情が重要なのである。乳児の時に愛情が薄ければ、その子は、愛を飢え、求め続けることになる。

 一番最初に覚えることは、生存と依存である。そして、それに基づいて価値観の基を形成する。つまり、生きる事と依存する事が価値観の根本になる。それから成長するにつれて、自律が始まるのである。

 この時期の教育というのは、子供向けというよりもどちらかというと親に向けた者である。人は、親になるためには、多くのことを学んでおく必要がある。ただ、快楽の果てに子供ができるわけではない。妊娠は、結果ではなく、始まりなのである。育児という長い道程の始まりなのである。その自覚がない親があまりにも多すぎる。多すぎるが故に、多くの過ちが生じるのである。

 育児に関しては、母親や周囲の者が事前にどれだけの知識経験があるか重要な要素になる。そう言う意味では、第一子と第二子では、育児の姿勢に違いが出てくる。それが子供の人格形成に微妙な影響を与える。

 一遍に複数のことはできない。一つのことに集中するのである。だから、試行錯誤して手順・段取りを覚える。子育てにも、手順・段取りがある。しかし、初産の親には、この手順・段取りが飲み込めていない。頭で解っていっても、いざ、その場に臨むと解らないことだらけである。この様な手順。段取りを適宜、必要や状況に合わせて母親に教え、また、情報を提供し、支援していく必要がある。

 発達段階の初期においては、教育主体の影響が大きい。つまり、母親や養育者の役割が重要なのである。それは、子供よりも、つまり、教育を受ける側の問題以上に重要である場合が多い。ところが、育児の問題は、子供の問題ばかりに集中している。子供は、まだ、言葉すら理解できないと言うのにである。重要なのは、子供を育てる側が、正しい知識と経験を持っているか、どうかである。そして、もしそれらが欠けていたり、足りなかったならば、それをどのようにして補っていくかである。そこには、観念論など入り込む余地はない。育児は、現実なのである。

 この時期は、子供に対する教育と同時に、親に対する教育が必要なのである。

 妊娠中から教育がはじまる。といっても胎教という意味ではない。心身、特に脳の発育に重大な影響があるという事である。その第一が、化学物質、薬物である。第二に、ストレス。第三に、アルコールやたばこの害である。第四に栄養不足である。第五に、環境ホルモンである。
 つまり、妊娠中の教育の対象は、両親と周囲の人間である。子供を産むことの意味を知らずに妊娠することは、それ自体不幸である。妊娠そのものが母親にとってストレスとなり、出産後の育児は、両親に多大な負担を追わせるからである。どもを産み育てると言う事は、相当の覚悟が必要である。その人の人生観を根底から覆す程の一大事なのである。妊娠したら、生活態度や生き方まで変えなければならない。この事を無自覚に妊娠すれば、それ自体が過ちである。妊娠は、性欲、快楽の結果ではない。子供を産み育てるという意志と愛情の結果なのである。
 現象からのみ、世の中の出来事を正当化しようとする、快楽主義的唯物論が、この世の中の本質を見失わせている。人間は、主体的存在、即ち、意志を持った存在である。意志を抜きに結果や現象は語れない。妊娠は、結果ではない。本質は、愛なのである。

 胎児期、出産時における薬物や損傷の影響は、その後の人格形成に決定的な影響を及ぼす。故に、胎児期、出産時でも薬物の使用は、慎重に為されなければならない。それでなくとも、我々は、食物から多くの化学物質を摂取している。無意識に混入してくるこれら薬物に準ずる物の管理こそ、愁眉のことである。
 また、バースコントロールも慎重に為されなければならない。出産手続くや、医師の勤務の都合で出産時期や時間を調整するようなことが往々に行われているが、この様な行為は、慎重に為される必要がある。
 妊娠中、酒、タバコは極力控える必要がある。それは、生き方、生活態度を根本から問い直すことでもある。子供を産み育てると言う事は、生きることそのものに対する根源的な問いかけなのである。
 いずれにせよ、子供を産み育てるためには、親学が必要なのである。

 次に育児期について考えてみよう。
 育児期における子供の特徴を上げてみよう。。第一に、一人では、生きていけない。第二に、一人では、歩くことも、食べることもできない。第三に、排泄の処理もできない。第四に、母親の役割が重要である。第五に、授乳・育児のように、母親にしかできないことがある。第六に、言葉は、片言しか話せない。
 乳児期では、乳児は、何らかの外部からの援助がなければ生きることすらできないという事が大前提となる。更に、人間は、自分の働きかけに対する外部からの反応によって自分を知る。しかも、言葉によってではなく。態度によってである。ここに育児の難しさがある。多くの育児論が往々に観念論、言葉によってなされれるが、実際の子育ては、現実である。その場で経験してみなければ解らない。一つの理論がある場面においては正しくても、違う場面では役に立たないどころか弊害にすらなる。田瀬から、育児を語るためには、状況や前提条件をよく確認し、個別に対策を立てなければならない。
 だからこそ、育児は、観念的な育児論ではなく、体制や環境、制度といった問題を加味しながら構造的に、実証的に為されなければならないのである。
 母親が求めているのは、抽象的で観念的な育児論ではなく。現実的なサポートである。これは、助産婦、産院、病院、保育園、母子支援施設に対しても求められることである。最初の子供の時は、母親は、密室の中で何の知識、経験もないままに、全ての責任を担わされることになる。しかも、精神的にも、肉体的にも、極限状態におかれることになる。その時一番応えるのは、周囲の人間の無理解さや心ない仕打ちである。子供が高熱を出した時、むずかってなかなか寝てくれない時、駄々をこねた時、泣きやまない時、どうしていいか解らないと、母親は、パニック状態になる。この様な状況に放置することが問題なのである。育児は、観念ではなく、現実である。
 この様な状況、環境の中で母親を孤立させない事、それが、乳幼児の教育の最大の課題なのである。

 母子を中軸・中核とした育児環境が全てだと言っても過言ではない。家族構成、住環境、家庭環境、周囲のサポート体制の在り方が重大な要因となる。

 母子の関係を大切にした環境作りが最優先である。母と子のスキンシップが、その後の人格形成に重大な影響を与える。子供と同時に、母親の精神状態や置かれている環境を考える必要がある。つまり、子供の状況は、母親の心理状態や置かれている環境を濃厚に反映するからである。
 自己認識は、されていないか、未熟である。他者と自己との区分が曖昧である。故に、社会性はない。

 乳児期における基本的な乳児の行為は、拒絶、受容、警告(警報)、確認である。なかでも、根本的には、拒絶と受容である。しかもこれらが微妙な違いで伝えられてくる。需要と拒否、この相反する意思表示か、同時に、又は、交互に、微妙な違いによって表現され伝えられてくる。これは、母親にとって相当のストレスになる。

 母親の表情や仕草から、価値判断の基準を刷り込む。これが、最初の価値観である。言うなれば、倫理道徳、あらゆる価値観の種である。価値観の種は、言語による体系的な観念として刷り込まれるのではなく、非言語的、経験的な断片として刷り込まれる。このことは、人間の価値観の特性を決定付ける。人間の価値観は、言語によって論理的体系付けられた物ではなく、多分に形態的、経験的な体系である。

 愛は、愛によって育まれる。乳児は、愛を言葉や表象によって理解する以前に、体験的に理解するのである。だからこそ、愛を言葉で説明するのが難しいのである。

受容と拒否、順と逆を繰り返しながら、子供は成長していく。その葛藤が、密室の中で母子間で繰り返されるのです。母子間に相当のストレスがかかる。

 現代社会では、育児の問題は、子供の問題と言うより、母親の問題といえる。閉鎖された密室の空間に母子が孤立している。それが現代社会である。そして、母親が自信を喪失している。
 現代日本の育児環境は、荒廃しきっている。もっと深刻に育児環境を見直す必要がある。それは、ただ単純な男女同権といった視点からではなく。育児そのものの重要性を充分に鑑みて為される必要がある。その上で、育児を終えた後の女性が、仕事や社会へ復帰する際の障害を充分考慮して対策が立てられなければならない。

 学級崩壊以前に育児崩壊がある。学級崩壊を問題にするが、学級を崩壊させる要因、原因のほとんどが育児問題に既に内包されている。学級崩壊の萌芽は、育児環境に既に出ているのである。学級崩壊は、結果であって、原因は、育児にある場合が多い。育児期の問題までさかのぼって解決しなければ、今日の教育の荒廃は、解消されない。ところが、多くの教育論者が、教育の問題を学校問題に限って解決しようとしている。それでは、はじめから限界が見えている。
 育児教育は、人生全ての始まりである。そして、育児は観念ではない。現実である。ところが、その肝心の育児が見捨てられている。
 女性の社会進出が進められるに従って育児が切り捨てられつつある。それは、女性の社会進出が悪いというのではなく。女性がこれまでになってきた仕事、中でも出産と育児、介護問題を軽視しているからである。
 大体において、男女同権論者の多くが母親の経験がないか、母親になることを拒否した物である。そして、彼等が、性教育や教育、学校問題に介入してくる。子供を産み育てた経験のない者が育児論を言うのはおかしい。

 育児、教育は、都市計画の一部として考えられるべき事なのである。育児は、環境である。環境に支配されている。
 社会が成立する前提として出産と育児を位置付けるならば、出産と育児を都市計画の中に最初に取り込んでおくべきなのである。それは、丁度、ライフライン、社会のインフラストラクチャアを都市計画の根本とするようにである。都市化が進んでからでは手遅れなのである。つまり、政治の問題である。
 都市の何処に、産院を作り、保育園を作り、幼稚園を作り、学校を作るのか。また、子供達の遊び場をどうするのか。都市の風紀や環境をどう保全するのか。また、テレビやゲームをどうするのか。それらは、経済の問題ではなく、政治の問題である。しかし、資本主義社会では、それらの問題を市場の原理に委ねようとする。だからこそ、政治経済の構造化が必要なのである。
 学校や幼稚園の建物をただ建てるのではなく。親達や地域住民が子供達にかける思い、愛情をどう受け止めるのか。その上で、学校や幼稚園の建設にどう反映するのか。それは、学校建設や幼稚園建設の初期に当事者に建設へ参加させることなのである。そして、それが民主主義の本質なのである。学校や幼稚園の建設に最初から最後まで、当事者をコミットさせない行政のやり方は、民主主義を頭から否定する官僚独裁に他ならない。



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