幼  児  期


 育児は、母親一人でするものではない。家族全員、社会全体でするものである。その人間関係そのものが育児、幼児教育なのである。
 大体、母親だけが育児を担うべきではない。父親も育児に参加すべきなのである。かつて、我が国では、子供の教育は、父親の仕事だった。今でも、女の先生より、男の先生の方がいいという親もいる。何も、女性蔑視で言うのではない。いろんな意見があって良い。それを、やれ同権に反する、蔑視だ、差別だと一方を封じ込めるのではなく。堂々と議論し、保護者や子供に選ばせればいいのだ。
 結局、教育のことは、専門家に任せればいいといって肝心の当事者の意見を聞かない。封じ込める、それこそ非民主的である。大体、教育論ほど、妥協を許さないものはない。だから、教育は、哲学的なのだ。人それぞれ考えが違うと言う事を前提にして民主主義は成り立っている。話せば解る、何事も、それが民主主義だと思っている人間は、大きな勘違いをしている。話しても解らない、だから話し合いのルールを先に決めておくというのが民主主義なのだ。さもなければ、話し合いばかりで何も決まらなくなる。
 育児論、教育論というのは、独善でも、観念でもない。環境であり、現実である。そして、教育は、結果ではなく、過程である。教育とは、教育論ではなく、教育すること、つまり、観念ではなく、行為そのものなのである。この点こそ、幼児期の教育で最も重要なのである。過程であるから、環境や状況が大切なのである。

 この頃の教育の対象は、幼児自体と言うより、親や周囲の大人である。つまり、幼児に対するのではなく、親や周囲の大人達を介して子供を教育していくのである。その為には、幼児教育を担う者は、親や周囲の大人との対話、コミュニケーションを密にし、繰り返し話し合うことが肝要である。この点を甘く見ると幼児教育は成り立たない。
 同時、現代社会では、幼児教育に携わる人間の社会的地位、評価が低すぎる。全ての教育は、幼児教育に端を発する。その意味で、もっと幼児教育に社会や国家は、目を向けるべきなのである。

 テレビやテレビゲームの問題は、現代のアヘン戦争のような様相を呈してきた。幼児を取り囲む環境は、劇的に変化している。その変化に親も子供も対応しきれずに、多くの問題が露呈しているのが今日の状況である。特に、幼児を対象とした商業の悪質さと教育を通じて社会を混乱させ革命に結びつけようとする勢力の存在が、この問題を更に拗(こじ)らせ、複雑にしている。それは、あたかも現代のアヘン戦争のような様相を呈してきているのである。

 早期教育の是非が論じられているが、その多くが的はずれ、見当違い、勘違いである場合が多い。教育というと、我々が真っ先に思い浮かべるのは、学校教育が他の集合教育、一斉授業である。しかし、教育の目的や形態は、学校教育型だけではない。幼児期における教育の場は、まだまだ家庭であり、遊び場である。また、親と子、友達同士の個別的関係に依存している。早期教育を論じるならば、教育の在り方を幅広く捉え。そう言った子供の置かれている環境をより重視して議論すべきである。

 幼児期において重要な記憶は、原体験によって作られる。原体験というのは、その人の思想や価値観を形成するための根源、核となる体験である。
 人格形成において原点となるのは、原風景である。原風景というのは、言語や意味によって形成されるのではなく、風景、即ち、経験や情景がそのまま記憶されることによって形成される。人間の原初的価値観は、論理によって構築されるのではなく。経験と景色・世界によって形成される。故に、幼児期の体験は、その人間の一生を左右するほど、重要なのである。
 
 内面の動機は、行為となって外部に表現される。幼児期は、この内面の動機が言葉によって自覚されているのではない。故に、外部に現れた行為から内面の動機を推察するしかないのである。つまり、幼児教育では、行動の観察が重要な意味を持っている。

 幼児期に成立するのが自意識である。幼児期に、自己の環境への働きかけとその働きかけに対する環境の反応の双方向の働きによって健全な自意識が形成されるかどうかが重要なのである。
 自意識は、決して論理的にもたらされる概念ではない。恐れ、悲しみ、喜び、怒りと言った感情によって形成される意識である。自意識は、内的世界、空間の形成によって成立する。つまり、自意識は、原体験が生み出す原風景がその素地となる。自己の内面に拡がる原風景と外界との対比によって自己意識は形成される。

 すなわち、恐れ、喜び、悲しみ、怒り、驚きによって生み出された原風景が人格形成の骨格となる。この様な、原風景は、論理によって構築されるのではなく。感受性と経験によって生み出される内的世界・空間である。

 原体験が生み出す原風景が始源である。
 原体験、即ち、感受性や感情によっと生み出される原風景によって形成される幼児期の価値観は、シンボリックな世界である。
 原初的な価値基準のベースは、正否、善悪、真偽ではない。好き嫌いである。しかもその根本は、生きる為の欲求である。

 この様に、環境によって原体験、原風景がもたらされる事から、幼児期で大切なのは、環境と環境に対する働きかけである。
 つまり、幼児期においては、幼児が置かれている環境が重要なのである。

 環境が与えるストレスが、成長の阻害要因になると言う事例も報告されている。(「ヒトの成長と発達」 山口規容子・早川浩訳 メディカル・サイエンス・インターナショナル)

 人の能力を引き出すのは環境である。だからこそ、能力が発揮できない時は、環境を変えることを学ばなければならない。人は、環境を変えることのできる動物である。ところが、現在の学校教育は、環境を変えることを禁じている。環境を変えることどころか、環境への働きかけそのものを禁じている。だから、与えられた環境に適合したものは、評価されるが、環境に適合できなかった者は除外される。その結果、環境に対する働きかけへの意欲を失い。迎合的な人間だけが、認められる社会になる。この様な社会は、変動する世界に適合できない。民主主義は、国民一人一人が自分達の能力、主体性を発揮できるように、環境を変えられることを前提としている。だから、民主主義国においては、環境を変える能力を身につけさせることが大切であり、それが、民主主義的な能力の根源なのである。

 勉強は、主体的、私的、特殊なことである。それに対して教育は、客観的、公的、一般的なことである。

 ベクトル・方向性を合わせる必要がある。そして、この様なベクトルを合わせる力は、場の力である。故に、教育は、場の力によって行う必要がある。

 場の力を活用する際に注意しなければならないのは、幼児期は、子供達が集団や他者への依存度が高いため、集団や他者の意識や感情を増幅する傾向がある点である。場の力が幼児期には、子供に強く作用するからである。しかも、不合理にである。

 また、子供達の認識のベクトルを合わせるために重要なのは、子供達の環境に対する働きかけの方向である。
 故に、幼児期の教育では、関心や興味の方向を見極める事が肝心である。そして、その関心や興味の方向を決定付けるように働いている場の力を明らかにする必要がある。その上で、その場の力がどのように子供達に働きかけているのか。つまり、子供達の持つようその中のどの要素に対してどのような作用を及ぼしているのかを見出す必要がある。その上で、子供達に対して良い影響を与えているのか、悪い影響を与えているのかを判断し、対策を立てていくのである。

 子供の成長過程や個性を無視して、一方的な決めつけをするのは、危険なことである。

 現代社会は、何でも対立的に捉える。男と女。家庭と仕事。学校と生徒。個人と社会。会社と社員。国家と国民。神と人間。まるでこの世は、対立と闘争の世界のようだ。この様に対立的な捉え方は、必然的に子供達に影響を与える。
 反抗期という考え方もその延長線上にある。しかし、本当に子供達は、反抗をしているのであろうか。反抗と言うより、確認行動と見なした方がわかりやすい。対立的に捉えるのではなく、構造的に捉えるべきなのである。

 人間は、成長する過程で幾度か反抗期を通過する。
 それは、認識作用の斥力と引力が交互に現れる結果である。従順な働きと反発的な働きは、いつでも働いている。どちらが強く表に現れているかによって反抗期にも非反抗期にも見えるだけである。
 この反発力と求心力は、性格や行動面においても光と陰の両面を持たせる。つまり、親に対する愛着と意地悪く、反抗的な態度である。
 わざと親に対し、マイナスの感情を刺激する言動をとる。それが反抗的に映るのである。しかし、それは、親の許容範囲を試しているのである。結局、それは、親と子の価値観をかけたギリギリの戦いへと発展する。この葛藤が決定的な対立に至らないように制御し、親と子を抑制させるのは、親と子の絆、愛情である。故に、幼児期に愛情を信じられずに、ギリギリの葛藤ができない者は、確固たる価値観が形成されない。
 親と子は、見えない糸で結ばれている。その糸を絆という。この絆に前提とすることによって子供は、親に対して反発する働きと愛着する働きの相反する二つの働きの交互作用を均衡することが可能となるのである。
 この反発力と求心力の交互作用によって幼児は、段階的に自分の生活空間行動半径を拡大していく。自己が形成されるのに従って、自己が形成される。
 境界線を確認する。その時は、禁止されている事、悪いとされていることのギリギリの所を確認し、善悪、価値観の境界線を確定する。禁忌事項や禁止事項、悪事は、生きていく上で最も重要なことである。必然的に、そこに注目が集まる。同時に自分の行為と価値観を結びつけて考えるようになる。
 突然にいなくなったり、家出をしたりもする。

 現代教育の最大の欠陥は、価値観の軽視である。思想信条を重んじるばかりに、かえって思想信条の軽視につながっている。しかし、それは、一方的な価値観を押し付けたり、刷り込むことではない。教育する側が、確固たる信念を持つべきだという意味である。その信念に基づいて行動を見せることが大切なのである。それを受け容れるにせよ、反発するにせよ、教育する者の姿勢が定まらないと子供は迷い、価値観が、不安定になるのである。

 乳児期の特徴を箇条書きすると、
 第一に一人では生きていけない。第二に、一人で、歩くことや食べることはできる。第三に、食事の仕方を学習中である。第四に、排泄の処理の仕方を学習中である。第五に、言葉は理解できるが、文字や高度な概念に関しては、理解できない。第六に、価値観は、形成途中である。第七に、社会性は、徐々に身につけている。

 幼児期に屋内で一人で遊ばせているいることに問題がある。第一に、室内という密室に母と子だけで過ごすと言う事である。第二に、一人で遊ぶと言う事である。
 どんなに好きな人でも三百六十五日、片時も離れることができないと言うのは、かなりのストレスである。このストレスを育児に携わった経験のないものには理解できない。

 幼児の行動パターンは、基本的に弱者の戦略である。
 幼児期の特徴の一つは、ずるさを覚える事である。このことは、マイナスな面ばかりではない。なぜ、幼児は狡(ずる)くなるのか、その原因を明らかにして、適切に対処する必要がある。

 なぜ、子供は嘘をつくのか。本当に子供達は嘘をついているのか。それは、認識者側の問題ではないのか。子供は、嘘をついているという自覚があるのか。嘘というのは、嘘をついていると思われる者が、自分が言っている事を嘘と自覚していることによって成立する概念ではないのか。

 反抗とか嘘というのは、大人の側から見た基準であり、価値観や認識力の未成熟な幼児に当てはめても成立しない場合があることを忘れてはならない。

 時々、子供は、大人びたことを言って周囲の大人達をハッとさせる。何処まで解っていっているのか解らない場合が多い。子供の論理と大人の論理は明らかに違う。

 大人の見方と子供の見方のギャップ。子供は、対象と言葉、意味が結びついていない。大人の勝手な思いこみの方が問題なのである。子供は、大人の反応を見て、楽しんですらいる。童話や民話、神話の世界は、元々大人から見て残酷な世界である。

 独り言によって概念を確認し、自己の内面の世界を作り出す。そのような独り言が、内語である。この様な内語は、自己を確立する過程で、自己の考えを確認する為に、自分の観念を一旦外に出すことによって自己の内面を対象化することから生じる。自己の世界が確立されるに従って表には現れなくなるのが普通である。しかし、自己が確立されないと、これが、当人には、自覚されないままに成長しても現れることがある。それは、自己を取り囲む環境が自己を反映していないことに原因がある。これは、幼児期に自己の行動を自己の還元できるような環境が存在しなかったことに起因する。この様な環境は、自己の健全な発展を阻害する。

 学級崩壊は、乳幼児教育にその萌芽がある。つまり、幼児期に、体験や学習によって健全な自己の内的世界を構築することができるかどうかによって決まるのである。
 中学校で、私語を注意したところ喋ってないよと反発されて以後注意するのが怖くなったという話がある。これは、独り言、呟きを私語ないし、喋ることとして認識しているかどうかの問題である。呟きは、内語、つまり、内面への話しかけであって、独り言として認知していない場合がある。更に、おしゃべり、私語は相手がいることであり、呟きには相手がいないから喋っているという認識すらない可能性がある。これらは、認知の問題である。教育学的問題ではなく、病理学的、認知心理学的問題である可能性が高い。
 育児環境の崩壊が、学級崩壊の遠因になっており、育児環境を改善しないと抜本的な解決に結びつかないケースが増えている。

 幼児期においては、相違点よりも共通点を重視した教育をすべきである。なぜならば、人格形成の基礎、土台なる部分を教育するからである。だから、基本的な動作や価値観を身につけさせることが重要である。
 人間関係を重視した教育が肝心である。自分の力で人間関係を築き上げることができるかどうかが重要なのである。

 ただ、注意しなければならないのは、共通と同等とは違うと言う事である。平等と、同等とは違う。これは、別の所で明らかにした。同様に、共通部分を教育するというの、同等に教育するというのは違う。 

 現代の教育では、同じ事を同じように、同年齢の子供の集団に、同じ場所で、同じ人が教える。つまり、現代教育は、同等を追求している。しかも、無自覚にである。しかし、同等を追求すればするほど、相違点が際立ってくることを理解していない。理解していないから、差ばかりを問題にしてしまう。

 躾(しつけ)は、仕付け、仮縫いの意である。(「幼児期」岡本夏木著 岩波新書)躾というと一つの型に嵌め込むようなことだと錯覚している者が多い。そして、厳しく躾をしなければと思い込んでいる。本来、躾というのは、自分の価値観が確立するまでの間の仮縫い的な価値観に過ぎない。そして、自分の価値観が固まるにつれて、しつけ糸を一本一本はずすようにして、自己を確立させていくのである。全てを鋳型に押し込むように、価値観を押し付けることを意味するのではない。

 日本人は、苦情や反対意見を言われるとすぐに迎合するか、頭から否定して議論を避けようとする傾向がある。現在の過激なジェンダー理念に対する反応も然りである。
 男と女の識別も着かない者に、教育を語ることはできない。男と女は、明らかに違う。その優劣を競うのが悪いのであり、お互いがお互いを尊重しつつ、共通の地盤を形成させていくのが教育である。それは、ある意味でらしさの追求である。男らしさ、女らしさをその人らしさを否定し、全てを同一にしてしまおうという考え方は、近代の大量生産型の思考であり、野蛮な発想である。

参考文献
 「乳幼児発達心理学」 繁多 進著 福村出版



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