家    庭

 家庭の場とは、生活の場である。自己は、生まれた直後の育児によって最初の価値観を刷り込まれる。ただ価値観の種は、子供の肉体に内包されている主体性である。外部に対する子供主体的働きかけと、母親かそれに変わる保護者の関わり方によって最初の価値観は、形成されていくまである。母親や保護者がどれだけ愛情深く接するかによって最初の価値観は決まる。つまり、全ての始まりは母の愛にあるのである。母の愛に育まれて最初の価値観は、萌芽するのである。

 母親役の者が、基盤となる価値観を刷り込むのは、出産直後、育児を担うのが母親だからである。育児期間に、基盤となる規範が刷り込まれるからである。この期間、密着して子供の相対の反応をしてやれるのは、母親以外にいないからである。

 子供養育を考える時、家庭環境、仕組み上、誰を家庭の中心に置くかが大切である。基盤となる価値観を刷り込む教育主体が、先ず家庭教育の中心に置かれるなければならない。それは、育児・養育を担う者である。基本的には、母親か母親役をする者である。母親は、家族の太陽であるというのは、このことを示す。
 次に、育児者、養育者に刷り込まれた基準を対比する為の価値観を提供する者が必要となる。それによって自己の価値観を批判、対照して絶え間なく更新していくのである。その比較対照する価値観を提供するのが父親である。

 家庭内の教育の仕組みは、家族である。教育方針や躾の中心を父親と母親どちらが担うべきかは、議論の分かれるところである。ただ、いずれにせよ、教育の担い手は、誰かに一元化すべきである。教育方針や考え方は、一貫性が必要だからである。そして、それを後方から支える者が必要になる。また、祖父や祖母、叔父・叔母、兄弟姉妹がそれを側面から支援すべきである。
 戦前の日本では、父親が、主に教育を担っていた。それを母親の愛で包み込む形が多かった。それが日本人の母親像の原型である。今は、どちらかというと母親が担っている。これは、戦前と戦後の職業の形態、家庭の形態の違いから派生しているように思われる。このことが問題なのではなく。母親が教育を担うことによって父親の役割が稀薄となり、ともすると無責任になりがちだという事である。そして、結果的に母親が一人で教育全てを担い孤立してしまう傾向にある。
 また、祖父母、兄弟、姉妹の役割も見逃せない。家族構成は、家庭内の教育の仕組みなのである。

 自己善の基盤は、母子関係によって形成される。母子関係は、自己の在り方の根本を作り出すのである。そして、その母子関係の根源は、母親の愛情である。故に、自己にとって母親の愛は、全ての始源なのである。

 そして、その母子関係の後ろ盾になるのが、父親である。父親は、母子関係を外敵から護る楯(シールド)、防御壁の役割を果たす。また、母親の価値観を強化すると同時に、相対化する。このことによって価値観の基盤を固めると同時に、自己の価値観に対する変革を可能にする。母親と父親は、利害・目的を共有し、相互に必要とし、更に、お互いの役割を分担しているのである。そこに家族の絆が成立する基本がある。そして、更にその外側を祖父祖母、兄弟、叔父叔母といった人間関係が取り囲むのである。

 女性にとって出産育児は、宿命であり、逆に、出産育児は男性にできないのが、男性の宿命なのである。それを喜びと感じるて受け容れるか、悲劇と感じるかは、主観の問題に過ぎない。これを男女差別というのならば、それは、人間の生物としての根本的在り方を否定する事になる。

 内部の基準と外部の手本を比較しながら自分独自の価値観の再構築をするのである。
 母親に与えられた基準を土台にして父親を手本として自分の価値初期の価値観を構築していく。その場が家庭である。故に、家族の仕組みは、それらの要素を基礎として構築されなければならない。

 よく思想や考え方の違う人とは一緒に入れないと言うが、夫婦間の思想の統一が必要である。
 価値観の違う人とは、生活を伴にできない。少なくとも、育児思想を統一する事は、育児で言えば、子供の価値観を分離しないためにも必要な重要な事である。

 子供の自己善は、家庭内の人間関係、仕組みによっても影響を受ける。夫婦間の力関係、祖父母と親との人間関係、兄弟間の力関係、人間構成、家庭内分業の在り方などが重大な影響を与える。
 この影響を考える上で、子供の自己善の形成に明らかに悪影響を及ぼすケースとそうでないケースとを先ず見極める必要がある。共稼ぎか良いか悪いかは、微妙である。三世代同居も然りである。父親が母親の役割をするケースもある。この場合は、いろいろなケースを比較検討し、それぞれの長所欠点を明らかにし、その長所欠点を補うように対処すべきである。しかし、育児放棄や幼児虐待は、決定的なダメージを与える。育児放棄や幼児虐待がいかなる環境状況で起こるのかを明らかにし、再発を防止すべきである。

 組織が正常に機能するための三つの要素は、第一に、共通の利害・目的を持つと言う事である。第二に、お互いにお互いを必要とするという関係を作ることである。第三に、お互いの役割、働きが重複しないという事である。

 子供の教育についてこの要素を当てはめてみると、第一に、子供を幸せにすると言う共通の目的と生活という共通の利害を持つ。第二に、子供の教育にお互いを必要としているという関係を作る。第三に、夫婦が違う役割をするという事である。どちらが働きに出るかを特定しないが、一人が家庭を護り、今一人が、経済的収入を図るという具合に分業することである。

 夫婦というのは、子供がいなくともこの関係が作れる。この関係を維持するためには、お互いがお互いを尊重し、尊敬する必要がある。この関係が維持できなくなった時、夫婦関係は破綻するのである。

 この様な夫婦を最小単位として家族の仕組みは組み立てられる。この夫婦と親子の関係に、兄弟姉妹、祖父母、叔父叔母といった人間関係が重なり合って家庭の仕組みはできあがる。

 これらの人間関係が子供の自己善の形成に重大な影響を及ぼす。家庭は、自己善の核とを形成するための場所なのである。その家庭が不健全であれば、自己善も歪んだ体系になる。また、親と子、夫婦間の関係が、自己善に直接的な影響を与えることになる。幼児期に虐待を受けた者は、虐待を受けた経験が、自己善の中に組み込まれてしまうのである。

 学校と家庭とを組織化できるかも同様に三つの要素から考えてみると解る。不思議なことに、現行の教育制度では、受験勉強に関してのみこの関係が成り立つ。つまり、親と学校と受験生は、名門の学校に合格するという共通の目的がある。第二に、学校も親も受験生もお互いを必要としている。第三に、学校と親と受験生の役割がハッキリしていて、しかも、重複していない。故に、受験勉強のみが、学校と家庭と生徒の間で連係がとれることになる。これに、学習塾を加えることも可能であるが、その場合、学校の働きが曖昧となり、弱まることもある。

 しかし、これでは、受験体制に教育体制が乗っ取られてしまう。
 本来、学校と家庭との関係はどうあるべきなのか。第一に共通の目的として社会に有用な人材を育成するとか、国家に貢献できる人間を育てるとか、自立した社会人を育てるといったところに共通の目的、目標を置き。第二に、その目的に対し、お互いがお互いを必要とする関係、開かれた関係を作り。その上で、最後に、家庭は躾を受け持ち、学校は、集団生活に必要な技術や能力、知識を教育すると言ったお互いの役割を分担する事である。それでこそ、家庭も学校も目的を達成することが出きる。また、それが、国家や社会に向けた指針であれば、全体のベクトルも統一できる。

 現代の知識人と称する者達の多くが、個人主義の名の下に家庭を否定している。しかし、個人主義は、個人と家庭とを対立的に捉えているわけではない。それは、個人主義の意味を正しく定義できない者の戯言である。個人と家庭を対立的に捉えているものに個人を定義させればすぐに解る。曖昧な定義しかできないはずである。

 家庭は、個人の延長線上にある。家庭の崩壊は、自己、即ち、個人の根源を崩壊させてしまう。つまり、個人と家庭は、対立物ではなく、本来は一体な存在なのである。また、一体な存在として仕組みを構築しなければならない。

 家庭教育問題の多くは、母親の問題である。母親が置かれている状況・環境の問題である。母親は、社会の中で孤立している場合が多い。それも、多くの母子が閉鎖された空間の中に閉じこめられている。この様な母親の問題を、現代の行政や社会は、育児を誰が担うのかを度外視して、家庭内に、母親が閉じこもっていることに原因があるように捉える。しかし、それでは、問題の抜本的な解決にはならない。育児の問題が片づいていないからである。根本的な問題を無視して、制度をいじくったり、建物や施設を増やしても解決にはならない。むしろ、悪化させることすらある。

 子供は、母親の鏡である。結局子供の全人生に対する責任を母親は担わなければならなくなる場合が多い。それだけに、母親のストレスは、大きくなる。それでいて、母親は、誰にも相談できず、一人で悶々としているケースが多い。父親ですら、外で仕事をしているために、母親の置かれている状況を理解できないでいる。しかも、母子は、逃げ場のない閉鎖的空間に閉じこめられているのである。車社会以前ならば、子供を道路や外で自由に遊ばせることができた。その間、母親も自分の仕事ができたのである。しかし、車社会では、外で子供を遊ばせることができない。その為に、密室の中で、母子は、四六時中一緒にいなければならない。この離れられない空間・環境は、母子に異常な緊張・ストレスをもたらす。息が抜けないのである。子供よりも母親の方が負荷が大きい。その母親の状況が子供に投影されて種々の問題を引き起こす。そして、引き起こされた子供の問題が母親に反映する。こうして、母親の問題は、増幅され、悲劇的な結果を招きやすいのである。

 問題は、母親が自信をなくしつつあることである。母性、母親は、否定されつつある。それも女性の側から否定されつつある。女性の社会進出を奨励する事が、母親や母性の否定につながっている。女性の社会進出を否定しているのではない。むしろ、女性の社会進出を促すのならば、ハード面だけででなく、ソフト面からもその環境を見直すべきなのである。

 母子の置かれた逼塞した状況環境が問題なのである。いくら設備や制度を整えてもその逼塞した状況を打破しないかぎり問題の解決には至らない。問題を解決するためには、母親の置かれている状況を先ず理解することなのである。
 確かに、医学的見地や心理学的見地、生理学的見地、社会学的見地、脳科学的見地も重要である。しかし、その根本は、母親の問題である。それを忘れてしまうと、結局偏った結論しか出せない。

 かつて、母親は、お袋と呼ばれ。日本人の多くが死に臨んでお母さんと呼んだ。日本の母親とはそう言う存在である。その母親に対する理解なくして、育児や家庭は語れない。




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