学校

 学校教育というのは、建物のような構造物である。基礎がしっかりしていてこそ、壮麗な建物が建てられる。同じように、教育も土台がしっかりしていないと構造そのものが脆弱な物になってしまう。
 教育の土台は、国家である。ところが、戦後の日本は、その国家を否定するところ、又は、否定されたところから出発している。それでは、教育の構造・仕組みが安定できるはずがないのである。それに、国家も構造物である。国家の土台を否定しておいて、国家の矛盾を批判するのは、無責任きわまりない事である。

 教育の仕組みを作るためには、先ずこの土台をしっかりさせることが重要なのである。民主主義国において、教育の基礎固めをするためには、民主主義的な手続き、規則に従って広範囲の国民的な合意が必要となる。国家や教育を否定する前に、この国民的合意作りに尽力すべきなのである。

 教育の土台を作るためには、なぜ何の為に教育をする必要があるのかについて明らかにすることである。それは、国家の在り方、自己の在り方に根ざしている。国民国家である民主主義国は、これが、一部の人間の独断や偏見に基づくものである事を許さない。学校教育制度は、国家の基盤であり、大黒柱となるべき制度だからである。

 現行の教育制度は、土台がしっかりしていないために、その上に建てられた受験制度によって構造全体が歪められてしまった。制度によって根本的な土台が突き崩されようとしているのである。この場合、いくら制度をいじくっても歪みは改善されない。放置すれば、教育どころか、国家の土台、基盤、つまり、独立やアィデンティティをも危うくしてしまう可能性まで出てきている。

 日本の教育の土台に最初から反日的要素を織り込むのは馬鹿げている。それは、家を建てる際、基礎工事の段階で土台にシロアリの巣を埋め込むようなものである。そんなことをすれば、基礎から腐ってしまう。

 教育を施す者達が、国家国民、そして、教育を施されることによって影響を受ける者達は、何を望み、何を求めているのかを先ず明らかにしなければならない。それが教育の仕組み作りの手始めである。制度や仕組みは、それを利用する者達の意志に基づかなければならない。いくら、一部の過激な思想家が、高邁の理念を振りかざし、性教育や思想を植え付けようとしても、それを施される者が望んでいないとしたら、それは、犯罪である。それが国民国家の鉄則である。
 その次に、どのような環境で教育をするかを考えなければいけない。それは、教育の土台であり、外枠である。
 その上にどのような教育を施すかである。その為には、どのような仕組みが必要なのかを話し合わなければならない。丁度、それは、自分達の住む家を建てるために、施主と設計士と施工が話し合うようにである。

 現行の学校教育は、入り口と出口のない建物のようなものである。教えている事も入り口と出口がない。彷徨い込むと出るに出れず、まるで袋小路に入ったようになる。問題の入り口は、設問である。問題をいかに設定するか、現実の社会では最も問われる能力である。しかし、子供達にとって問題は、常に所与の命題だ。質問することは許されても、設問することは、学校では大罪である。つまり、設問は、先生の特権なのである。そして、正解も所与の命題である。与えられた以外の正解を出すことは、学校の社会では大罪である。正解も先生の特権なのである。また、生徒にとって授業も学級、教室も全て予め決められている。生徒は、予め決められた教科書と教材を持って予め決められて所にいけばいい。そして、授業の終了も先生が勝手に決める。これも、先生の特権なのである。つまり、入り口も出口も生徒には、与えられていない。教えられていない。

 戦後の日本人は、多様化と言う言葉をよく使う。何かというと多様化・多様化、学問の多様化、価値観の多様化と言う具合に。しかし、大多数の人間は、多様化という言葉の本当の意味を正しく理解していない。多様化というのは、社会全体を見て多様化しているという事である。個人、自己にかぎって見ると自己の価値観に最終的集約されるのであるから個人的に見れば価値観というのは、いたって単純である。つまりは、自分一人の考えである。ただ、個人の価値観に集約しようとすると、百人いれば百人の価値観が現れることになり、社会は多様な欲求に応えなければならない。つまり、選択肢を増やす必要がある。ところが、現代の教育制度は、単一的・均一的である。戦前の教育制度から見ても単線的である。制度面から見ると戦前の方が余程個人主義的である。つまりは、一方で個人の価値観の多様化と言いながら、他方で、社会の価値観を統一してしまっている。これではあべこべである。思想は、仕組みに現れる。個人主義、民主化というならば、個人の価値観に価値観を集約させればさせるほど、選択肢を増やす必要がある。
 多様化というのは、社会の多様化であり、個人は、単一化に帰すべきなのである。社会が多様化、複雑になればなるほど、個人は、単一、シンプルにすべきなのである。スポーツで言えば、社会は、いろいろなスポーツが楽しめる施設を用意することで、個人が、一つのスポーツに専念できる環境を作ると言う事である。

 今の教育は、親子関係を断絶し、地域社会から子供達を切り離してしまっている。それは、制度自体が持つ働きがそうしているのである。その働きを是とするのか否とするのか、先ず問われるべきはそこである。
 何でも決められたとおり、決められた範囲内でしか判断し、行動できない。その上で、集団で統一した行動をとることを要求される。これは、何らかの集団組織に依存しなければ生活できないように仕向けることである。この様な習慣を身につけさせられると一人で生きていくことが困難になる。また、組織に依存するけれど、組織的な判断も下せなくなる。即ち、大量生産方式、サラリーマン育成用の教育なのである。ところが、他品種少量、組織的な判断を要求されると、組織にも適応できなくなる。そう言う人間を育成しているのが、現行の教育の仕組みである。
 その意味で、ニートや引き籠もり、フリーター、集団自殺は、現行の教育の成果が正直に現れたと言ってもおかしくはない。

 更に、質が悪いのは、組織に依存しなければ自立できないように仕向けられている。その上で、同時に、組織、体制に否定的な価値観を埋め込んでいる。これだけ矛盾した教育を施して、その結果がどういうものになるか、予断を許さない。
 壮大な実験をやっているようなものである。本来は、効果を期待して教育をするものである。何の効果も期待せずにとりあえず教育してしまえと言うのは、乱暴すぎる。

 教育は、仕組みである。教育は、構造である。

 設備を管理し環境を整備する者が必要である。直接生徒を指導する者が必要である。生徒の健康を管理する者やカリキュラムや教科書を用意する者が必要である。これらの要素をいかに機能的に効率的に組み立てるか、そして、その仕組みの働きを目的に適合させるかが、教育の本質的問題である。

 仕組みや構造の矛盾は、如実に子供達の世界に現れる。

 学級崩壊が言われてから久しい。学級崩壊というのは、学級王国の崩壊である。(「<学級>の歴史学」柳治男著 講談社・選書・メチエ)学級というのは、担任を頂点としたいわば、王国なのである。そして、成績という権力によって子供達を支配している。この学級という王国の在り方自体が、崩壊の原因を内包している。ゆえに、学級の崩壊は、必然的な帰結である。原因がないわけではない。

 学校教育の核となるのは、教室、クラスである。教室は、一人の先生と多数の生徒達で一つの単位を形成する。そして、学級は、一部の例外を除いて、同一年齢の生徒に限定され、統一されている。
 現行教育の教室の構造は、極めて単純である。一人の先生がいて三十人から五十人の生徒に授業をする。生徒側には、明確な組織や構造はない。強いて言えば、学級委員や級長ぐらいである。しかし、これは、授業の開始や終礼時における号令と連絡役程度である。学級運営やカリキュラムに関して何らかの責任があるとか、役割があるというわけではない。授業も組織的に行われるのではなく、教師の一方通行的なものである。
 他の国には、討論や実技を多く取り入れている国もあるようだが、我が国の教室は、自律的なものではない。しかも、教室は密室である。外界から遮断されている。その内部で何を教えられてもチェックすることはできない。基本的に、教育者のワンマン体制(独裁)なのである。
 そして、学級は、成績によって明確な序列があり、成績によって支配されている。

 本来、教室というものは、より機能的で、組織的、構造的にすべきである。学級の運営こそ最も実のある教育である。事実、学園祭や運動会のようなイベントにおいては、教室の自律的の機能が働いている。しかし、それは、限定的、かつ、不完全である。要するに、教育者は、根本的な生徒を信用していないのである。

 学級というのは、それ自体が自律的な組織ではない。教室を外敵から生徒達自身が守ると言う事は根本的に考えられていない。考えていないどころか許されない。あくまでも、生徒達は、学校や担任に隷属しなければならないのである。絶対服従なのである。さもなければ、一人で五十人もの人間を統治することはできない。学校や担任の指示がなければ何もできない。学生は、教室内では無力である。自分達の力で学級を統治することは許されていない。将に王国なのである。
 これでは、自治の精神は、養われない。避難するという行為も組織的な集団行動が要求される。この様な行動は、組織化された集団にしか発揮されない。また、教室内部での虐めや秩序、統制の維持も組織化されていてはじめて可能である。しかし、教育者は、生徒が組織化されることを認めない。認めないどころか、怖れている。それは、生徒が組織的な意思表示をすることを怖れているからである。

 不可解なことに組合のような団体を組織したものほど、自律的な組織が結成されることを怖れる。それは、自律的な組織の持つ危険性を彼等は熟知しているからである。かつて彼等は、自分達で団体を組織して自己主張をしたからである。しかし、組織化された団体が全て反逆するとは限らない。むしろ、自律的に組織化されていない集団の方が制御するのが難しい。
 また、七人を超える生徒を一人の人間で制御する事の方が無謀である。必然的に強圧的でないと制御する事ができなくなる。生徒間の問題は生徒間で片づけられるような仕組みを作ることが重要なのである。また、藩校や子供組、青年団のように組織化された学習集団も過去には存在した。不可能なことではない。現に、今でもスポーツクラブでは、組織的な教育がされている。man to manの教育もされている。

 基本的に一人の人間で一つの教室を見るのは、不可能である。教育は、組織的に為されるべきである。これも、スポーツクラブや民間企業は当たり前にされている。

 教える内容が何年も変わらない。これだけ、社会が激しい変化をしているのに、学校の世界では、ほとんど変化がない。先輩のノートを借りても問題がないなどという事態が、平然とまかり通る。先生自体が全然勉強をしていないのである。先生自体の学習意欲を奪っているのは、教育者の管理能力を大幅に超える生徒を担任しなければならないからである。

 実業の世界では、授業にいろいろな手法が取り入れられ、効率的、生産的な教育が求められる。しかし、この様な教育は、教育学の専門家から見ると教育ではないらしい。しかし、これだけ変化の激しい現代社会においては、授業のやり方も変化に素早く適合する必要がある。その為には、教室の内部を構造化、組織化する必要がある。

 年長者が年少者を、上級生が下級生を、世話をし、面倒を見ながら指導する。この様な形での縦断的、横断的な協力関係がない。しかし、本来、仲間や後輩の面倒を見させることこそ教育なのである。つまり、教育の本義は、社会集団の規律を学ぶことにあるからである。この点も、むしろ戦前の方が機能していた。戦前の教育方法を頭から否定する前に、継承すべき事は継承することを考えることの方が良識的である。

 また、教材もここ数年、視聴覚機材やコンピュターの導入など変化は見られるが、基本的には、その使い方は変化がない。ハード面だけの対応に終始していてソフト面での充実が図られていない。子供向けのテレビ番組ではいろいろな試みがされている。しかし、それが教育の現場に生かされているようには見えない。というよりも、教育の現場が積極的に授業の内容を変えていこうという意欲がみられない。どちらかというと、それらは課外活動の方に求められている。
 視聴覚機材を有効に活用するためには、教育の現場とソフトを受け持つ業者、保護者が連携する必要がある。

 学校には、補助的な機関や活動が多くある。その一つがクラブ活動である。クラブ活動は、組織的に、構造的に、自律的に運営されている。スポーツクラブの中には、プロを目指す者もいる。また、そのチャンスも与えられる。この様に、現行の教育制度では、補助機関たるクラブ活動の方が、教育の本来の目的を達成している場合すらある。その結果、クラブ活動の人間同士の絆のほうが場合によると教室の人間関係の絆より強いという逆転現象が往々にして見られる。

 教室の密室化は、深刻である。学校教育は、自己の教育の延長線上にある。外的な環境の変化に合わせて教室の内的構造も変化できるものでなければならない。

 教室が密室化されていることによって、学校生活の延長線上において自分の将来像を捉えることができないのが問題なのである。

 人間のワーキング・メモリーの容量が七つ程度と言う。それに関連しているかも知れないが通常一人の人間が管理できる人間の限界は、七人程度といわれている。それ以上になると組織的な管理が必要になる。この点を鑑みると一つの教室の生徒数は、一人の人間が管理できる人数の限界を大幅に越えている。つまり、組織化しない限り管理不能であることを意味している。組織は、教室内部、外部双方に必要である。それは、教室は、孤立した存在であってはならない空間だからである。教室内で行われる教育の内容の影響は、教室内にとどまらない。必然的に教室は、内外に開かれたものでなければならない。内外に開かれたと言っても、物理的な意味ではなく、情報的な意味においてである。

 現行の授業スタイルは、先生が生徒に教科書を朗読ないし、輪読させ、それに黒板を使って講義するというものであるが、これは、先生が主で、生徒が従という構図になる。それは、一人の先生の管理能力の限界を大幅に超えた生徒数を管理せざる得ないと言う事情に起因していると思われるが、これでは、生徒はいつまでも受け身になってしまい、能動的主体的な行動は望めない。
 また、授業は一斉授業の形を取られるケースが多い。このことも教える側は何の疑問も抱いていないが、特殊な授業形態だと言う事を頭に置いておくべきだ。現実の社会では極めて希にしかこの形態はとられない。
 同一年齢だけに限定された集団というのも学級固有の特性である。普通一般的ではない。その為に、競争が、異常に煽られる傾向がある。
 教室を小グループに分割したり、レポーターを指名した上で、発表させる。その発表の仕方も工夫も自分達にさせる。また、授業の概要を先生や選任されたリーダーにさせその後、討論や調査をするといった具合に生徒に主体性を持たせた事業をすることは不可能ではない。
 また、スポーツならば、クラブ活動形式にして、いくつかの競技にわかれ、複数の学年の生徒を一緒にし、例えば、三年生が、一年生の指導をしながら、二年生は、自習をさせる。あるいは、二年生に一年生の指導をさせ、三年生は、交流試合をするという具合に混合教室を作ることも出きる。また、地理や歴史、社会の授業では、高齢者や専門家の話を聞くと言った、地域社会との交流を図ることも重要である。

 高齢化社会、女性の社会進出を考える時、教育における高齢者や専業主婦・主夫の役割も充分検討の材料にすべきである。

 また、模擬的な選挙や議会を開いて自分達のルールを決めたり、実際に教室や学校の運営に携わらせ、民主主義社会を追体験したり、予備的な経験を積ませる事も重要である。現に、かつては、子供も青年も地域コミュニティや家庭において責任を持たされ、重要な役割も果たしてきた。寺子屋や藩校、子供組、若衆宿、青年団、隣組などが良い例である。

 言論と言うが、思想は、言語だけで表現されるものではない。言葉による教育だけでなく、行為による教育も必要なのである。

 現行の教育制度の方が、先生も学校も行政も子供達を信用していない。そのことを微妙に子供達は感じ取り、無責任な行動に走らせるのである。子供を信じないで教育などできるはずがない。学校は、専門家を気取らないで、子供も家庭も、もっと信じるべきなのである。

 現行の学校の仕組みは、フィードフォアードなものである。これは、組織としては、極めて特殊な形態である。官僚機構がこのフィードフォアードな体制であるが、通常の組織形態というのは、フィードバックを基本とした仕組みに、予算や予測というフィードフォアード的要素を加味した体系である。
 つまり、学校は、予め何もかも決められている上に、同一の教師、同一空間、同一の時間、同一のカリキュラム、同一年齢、同一能力という同一性によって管理されている極めて特異な空間が学校なのである。(「<学級>の歴史学」柳治男著講談社選書メチエ)しかも成立してからたかだか百年足らずしかたっていない。その学校というシステムが圧倒的な力で子供達を支配している。更に、学校という仕組みが自己目的化し、自己完結しているのである。
 フィードフォアードな体制である学校では、生徒や親達の選択肢は、極めて限られている。自分にあった教育というものを選択する余地がなく、結果的に、圧倒的な力を教える側が握ることになる。学級王国といわれる所以である。教える側は、自分達の過ちや間違いを改善する必要もなく、余地もない。また、変えることもできない。なぜならば全てが事前に決められているからである。教わる側は、全てを教える側に依存しなければならない。この様な一方的な力関係というのは、他の世界にはない。自分で周囲の変化に合わせて自分を合わせていくことのできない組織は、必然的に時代の変化や状況の変化に適合することができなくなる。全体主義国家や独裁主義国家の末路と同じ経過を辿ることになる。

 フィードフォアードな仕組みである学校は、子供達や親達、また、社会の変化を吸収することができない。また、地域差のようなものに適合することもできない。適合することができないからこそ、自己目的化するしかなくなるのである。本来、学校は合目的的なものでなければならない。合目的的なものだからこそ、そこで学ぶ者達に動機付けができる。合目的的なものでなく、自己を目的化せざるをえないから、競争と階級によって支配せざるをえなくなるのである。だからこそ、競争の激化に歯止めがからなくなり、阻害を生み出すのである。つまり、学校を成立させているものが、同時に、学校という仕組みを破綻させているのである。この矛盾は、学校が合目的的な仕組みに変貌しないかぎり改善されない。





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