教育の手段(方法)

 調教や洗脳を教育と錯覚している教育者がいる。調教や洗脳は、教育とは違う。しかし、その効果は、よく似ているために、見分けることが困難である。特に、調教や洗脳、教育を受けている者にとって何が洗脳であり、何が調教であるかを見抜くことは難しい。結局、知らず知らずのうちに調教され、洗脳されているケースが多い。

 なぜこの様なことが、起こるのか、それは、現行の教育において、手段が目的化してしまっているからである。

 受験教育と本来の教育は違う。大体、目的からして違う。
 本来の教育は、社会人として必要な教養や道徳を身につけさせること、ないし、経済的にも、政治的にも自立した人格を作ることにある。それに対し、受験教育というのは、試験に合格する技術を身につけさせることであり、良くて、志望の学校に合格させることである。
 要するに、受験教育というのは、ある種の技術教育だという事である。もっといえば、技術教育というより、技能訓練なのである。だから、そう割り切った学校の方が、進学率、合格率は高い。これは当然である。目的が違うのである。技能訓練であるから、調教的手法や洗脳的手法の方が効率性、生産性も高い。必然的に偏差値も上がる。当然学校経営にも良い。良質の生徒も集められる。こうなると、学校教育が、受験教育に偏るのは当然の帰結である。学歴を偏重しすぎるからだと言ってもはじまらない。世の中の仕組みとは、そういうものだ。学歴が高ければ、就職に有利に働けば、そちらに流れる。何も難しい話ではない。ならば、その根本的な仕組みを直さないかぎり、今の教育問題は解決できないと考えるのが妥当である。

 その為には、教育の目的は、何かを明らかにした上で、その為にはどのような手段が必要かつ有効なのかを見極めることである。何が目的で、何が手段なのかをハッキリさせることだ。それがハッキリしていないのに、手段を目的と取り違えていると言ってもはじまらない。

 その上で、どの様な手段、手法が調教的であり、洗脳的なのかを明らかにするのである。目的が明らかにならない限り、それが調教であるか、洗脳であるかは、ハッキリしない。なぜならば、教育的手法も調教的手法も洗脳的手法も手法だけ見れば、同じ部分をかなり含むからである。調教的手法や洗脳的手法が使えないとなると、教育的効果は、かなり望めなくなり、調教や、洗脳に太刀打ちできなくなってしまうからである。

 先ず、学校教育が試験に合格するためにあるという状況がまともかどうかである。誰が考えてもまともではない。本来の目的に戻すべきである。

 本来の目的は、社会人として必要な教養と道徳を身につけさせる事と経済的にも政治的にも自立した人格を作ることにある。
 この様な目的を達成するために必要なのは、学習主体の主体性の発揮である。主体性は、内面の動機に根ざしており、学習主体そのものから発揮されなければ有効にならない。そして、学習主体は、外部環境と鏡像関係にあり、自己の主体的な行動と環境との相互作用によって学習する。

 もともと、自己には、外部への働きかけが存在している。この働きかけが内面への働き、認識の原動力であり、学習する力は、この働きかけに根ざしている。その学習主体の主体的な働きかけを捉えて、それを、正しい方向に導くのが教育である。故に、教育は内面の動機に根ざしていなければならない。

 この点から考えると指導の基本は、観察にあると言える。そして、教育に注がれる勢力の多くは、環境の整備に割かれるべきなのである。教育の手法は、この二つの観点から導き出されるべきである。

 教科書なんて頭のいい子ならすぐにマスターしてしまう。しかし、それでは学校は都合が悪い。だから、学校では、細切れにして、一年かけて教える。そうしないと時間が持たないのである。
 一週間後までに歴史の教科書を読んでこいと言ったら、大多数の生徒は読んでくるだろう。又は、一日、読書の時間にして教科書を読ませたら、多くの生徒は、短時間で読み切ってしまうだろう。しかし、そうされたら困るのは、先生である。教える事がなくなってしまうからである。実際は、教えるなければならない事は沢山あるのだが、そうすると、先生の個性、能力差が歴然とする。

 教科書の内容を細切れに切り漸進的に事業を進めるのは、あまり、主体性を重んじているやり方とは言えない。ただ、手法的にはわかりやすく、標準化しやすいのである。つまり、授業の効率や生産性から見ると最も簡便な手法といえる。しかも、教育主体の作業の標準化やマニュアル化もしやすい。試験問題も作成しやすく、均一化できる。
 しかし、この様な手法は、教育本来の目的から考えると明らかに逸脱している。例えば、歴史から何を学ぶかの視点が欠けているのである。

 一つの歴史的事象を取り上げて、討議・検討する方が、目的から考えると妥当であろう。しかし、これでは、試験はできない。一つの解答に決めるわけにもいかないし、問題を作ることも困難である。
 試験制度に囚われているかぎり、この問題は解決できない。制度そのものが、目的を逸脱しているのである。それでは、いくら手法の妥当性、正当性を論じてもはじまらないのである。結局、調教的手法や洗脳的手法が横行するのである。そして、これらの手法は、結果的に教育本来の目的とは、逆行しており、逆効果しかもたらさないのである。




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