H−1 自己防御機能の解除

 教育を実施しようとする場合、学習主体の自己防御機能が働く。なぜならば、学習しようとする部分は、通常、その人間の弱点、欠点に相当する箇所だからである。日常生活を送る上で、その弱点を無防備なままにしたおく事は、かなりの危険を伴う。それ故に、自動的に自己防御機能が働くようにセットされている。
 この様な自己防御機能は、感情によって直接管理されている場合が多い。即ち、それに関連することや言葉に触れると自動的に感情が作動するように予め仕組まれているのである。それは、受け手に対して強い拒否反応、拒絶反応、威嚇反応、回避反応として現れる。
 特に、致命的な弱点は、逆鱗によって守られており、生理的反応や攻撃的反応を引き起こす危険性もある。
 感情は、恐怖、怒り、嫌悪、羞恥、憎悪といった負の感情に働きかける。その感情を触発するのが劣等感、自尊心、気位、名誉、屈辱感といったものである。この様な感情は、限界点を越えると爆発的な反応を引き起こす。そのために、自己防御機能が旗にした場合、どのような行動をするか、予測することが困難である場合が多い。
 これらの反応の標的として、その感情をその起こす対象に向けられることが往々にある。とくに、自己防御を働かしいている当人が無自覚な場合、その原因をその感情を引き起こした対象に投射することによって問題を解決しようとする傾向が強いからである。しかも通常、自分の弱点は、自覚していない場合が多い。一度、自己防御機能が働くとその対象となった者を受け容れなくなる危険性が高い。受け容れられなければ教育は事実上不可能になる。故に、十分、相手の防御壁には、注意をしなければならない。
 教育の目的は、弱点や欠点を補うことにあるのだから、当然、この自己防御的働きを解除することから始めなければならない。
 教育の本質は、教え込む、刷り込むことにあるのではなく。足りない所、欠けているところ、できないこと、知らない、解らないことを補うことにある。その為には、相手が受容しなければ、受け入れなければ不可能なのである。

 防御的働きは、通常、最初に回避的な反応として現れる。回避しきれなくなると、突然、拒絶的反応や攻撃的反応へ切り替わるのである。拒絶反応、回避反応には、嘘、ごまかし、逃避、無視、威嚇という形として現れる。表には、驚く、泣く、わめく、叫ぶ、脅かす、騒ぐ、駄々をこねる、寝転ぶ、吐く、眠る、痛がる(腹痛、頭痛)、恥ずかしがる、震える、気絶する、失禁する、喋る、喧嘩をする、遊ぶ、彷徨く、欠伸をする、どもる、暴れる、挑発する、顔色をうかがう、言い訳をする、口答えをする、身構える、睨む、黙る、目をつぶる、耳をふさぐ、嫌がらせをする、いじめる、わざと悪い事をする、話を遮る、視線や話を逸らす、忘れる、擬態する(仮病、寝たふり、聞いたふり)、媚びる、騙す、裏切ると言った行為として現れる。
 威嚇として使用されるのに、権威や権力、その象徴、暴力などがある。権威や権力の機能は、この自己防衛機能が構造化、制度化したものと見なすこともできる。

 拒否、拒絶的反応は、その働きを触発する感情の裏側にある。相手を馬鹿にしたり、相手を弱点をついたり、誹謗中傷、悪口、噂、陰口、つまり、劣等感の反作用として、相手の劣等感や弱点を刺激する行動として現れる傾向がある。

 言葉の使い方は、学校では教えない。特に、敬語は、学校では教えられない。上下関係のある社会でしか教えられない。大学に行っていない者は、社会に出ることによって口のきき方を教えられる。大学に行った者は、部活のような活動を経験しない限り、敬語の使い方を教わらない。
 大学へ行かない者は、敬語を使えるが、権威がない。大学へ行った者は、敬語が使えないが、権威がある。この場合、相互に教育的働きが効かない。そうなると、できない者は、権威で抑え込もうとする。その上で、敬語は、封建的なんだといった、できない理由に権威付けを行うのである。
 それが正統的であるかないかは、別の次元で検討する必要があるが、それ以前に、自分が、何に対して劣等感を抱いているかを確認する必要がある。

 余談ではあるが、某テレビの人気番組で、先生の事を呼びつけにしたり、友達のような口のきき方を奨励した番組があった。人間は、自己防御機能を解除するのに、自分の弱点を自覚する事によるものと弱点そのものを否定するやり方がある。自分が敬語を使えないことを自覚し、それを学ぼうとするのか、敬語そのものを否定してしまうかである。
 この場合、自分の弱点を否定してしまった方が、自覚することより遙かに楽である。しかし、同時に、それは、学習意欲もなくしてしまう。
 要するに、その番組は、敬語を使わないことを権威付けした上で、全国的に流布し、言葉使いそのものの学習意欲を奪ってしまったのである。それでいて、その番組を放送したテレビ局が、言葉遣いが悪いと青少年の行動を非難している。典型的なマッチポンプである。
 
 洗脳というのは、相手が気が付かない内に、相手の警戒心、自己防御機能を解除し、ある種の思想や、行動規範を刷り込んでしまうことである。
 相手の警戒心を解くやり方は、あなただけではない、皆もというふうにして、弱点を一般化してしまうやり方、相手が嫌がっている忌み事を逆用するやり方、相手と共通の秘密や弱点を共有することによって信頼関係を作ると行ったやり方、相手を威嚇したり、脅迫したりして暴力的に警戒心を解かざるを得ない様な状況を作るやり方などがある。
 また、何らかの権威や権力の力を使って相手が自分に従わざるを得ない環境を作る事もある。テレビによる洗脳は、典型である。

 教育は、自己防御機能の解除から始めなければならない。自己防御は、その人の弱点や欠点を保護する目的である。しかも、劣等感や自尊心、、羞恥心、屈辱感、逆鱗などで守られている。一つ間違うと、プライドや倫理観を傷つ、相手からの激しい反発や攻撃を誘発する危険性が高い。また、解除後も、極めて脆弱な状況、無防備な状況に相手を置くことになる。必要な教育が終わったら、必要な処置、手続きをこうじて自己防御機能を有効にしておく必要がある。
 自己防御は、段階的に、徐々に、慎重に解除していく。病的な子や心に傷のある子がいる場合は、専門家の意見は聞きいながら、必要によっては個別に解いていく。また、専門化を定期的に巡回させるようにする必要もある。

 自己防御は、その子自身に解かせる以外にない。その子が、心を閉ざしている限り防御機能は解除できない。無理にこじ開けようとすると相手の心に傷を残すことになる。

 自分で進んで自己防御機能を解除させるためには、そのこの主体性を重んじてる事である。主体性を重んじるというのは、その子の持つ内面の思考を引き出すことである。その子の志向性は、興味や好奇心、関心という形で現れる。興味や好奇心、関心として現れたその子の志向性をキャッチして、それに適切に反応してやることで、自主性を引き出すことができる。適切な反応とは、聞く、見る、誉める、同調すると言ったことである。
 よく自主性を重んじると言うと相手に自主性を出せと要求する先生がいるが、それは、錯覚である。自主性を重んじるのは、先生の方であり、教わる側に自主性を求めた瞬間に自主性は損なわれるのである。

 自己防御を解除するために必要な事は、第一に、信頼である。第二に、安心感である。第三に、共鳴共感である。つまり、愛情が必要なのである。その上で、健全な人間関係を築いきあげて教育は、始めなければならない。
 健全な人間関係、信頼関係が成立していないのに、教育しようとすると、相手の自己防御機能が作動して、反発や攻撃を招く。その為に、教育が暴力的な手段に訴えなければならなくなる。そこに、体罰の是非の問題が派生するのである。体罰が必要となるのは、体罰を必要とする状況を招いているからである。暴力的な教育は、極力避けなければならない。その為にも、充分に信頼関係ができあがってから、教育に取りかからなければならない。その信頼関係を築くのは、遊びである。つまり、遊びの最中によく相手を観察し、相手の性格や欠点を認識しておく必要がある。
 ここからも、教育が、観察から始まることが解る。焦らずに、先ず相手をよく見て教育を始める必要がある。もし必要ならば、相手の状況に合わせて教育の開始時期をずらすことも考えなければならない。

 また、相手の自己防御機能を触発する行為も避けなければならない。相手の自己防御機能を触発する行為は、自己防御機能を作動する感情に抵触している。つまり、作用反作用の関係になる。怒るのは、怒らせているからである。驚くのは、驚かしているからである。例えば、よく原因を聞かずに叱れば、相手は、自己の価値観を守るために、自衛手段を講じざるをえなくなるし、親の言う事と、先生の言うことが違うと、自己の同一性を保つために、必要な自己防衛をとることになる。子供と言えども、相手に恥をかかせれば、自尊心が働き、防衛的になるのは当然である。これらは、逆効果である。

 最近の問題点は、先生が生徒の方をよく見ていないことに起因することがある。教えようとするのではなく。よく観察し、指導するように心懸けなければならない。

 どのような感情に働きかけるかによって価値観の現れ方、構成が変わってくる。名誉心や羞恥心に働きかければ、恥を中心とした文化が形成されるであろうし、罪悪感に働きかければ、罪の文化が形成される。恐怖心に働きかければ、怖れの文化が形成される。そして、何に働きかけるかは、それは、教育の問題なのである。
 つまり、教育は、文化の源なのである。教育は、社会的モラル、道徳の根底を成すものである。教育によって文化の土台、道徳の枠組みが作られるのである。裏を返せば、社会問題の原因の多くは、、教育に求められるべきなのである。




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