教育の目的

 義務教育で、最初に学ぶのは、学問ではない。学問と言うよりも、集団生活や社会の中で生きていく為に必要な事柄である。しかし、学校は、最初から学問を教えようとする。そこに、意識のズレが生じる。そのズレは、年々拡がっていき、最終的には、どうにもならないほど拡がってしまう。結局、学校本来の目的が忘れられているのである。

 教育の根本は、生きていく為に必要な術を身につけさせる事である。この点を勘違いしている教育者が多くいる。例えば、教育とは、知識を身につけさせる事だと思っている教育者、また、人間教育と称して人間性を身につけさせる事だと勝手に思いこんでいる。しかも、この人間性という概念が曖昧模糊としたもので、個人的な思いこみ、自分勝手な思いこみである場合が多い。その多くが、自分の私見、独断、思想を押し付けているのに過ぎない。彼等の多くは、国家による教育思想の介入に反対する一方で思想信条の自由、表現・言論の自由を主張する。その上で反体制的、反社会的、反家族的思想によって生徒達を洗脳する。それらの思想は、保護者の教育方針や当人の意志と無縁である。当人の意志も親の意志も無視されて、親も当人も望まない思想によって教育されることになる。こうなると、義務教育とは、何なのか解らなくなる。義務教育によって親や保護者、社会が望むことと正反対のことが教えらる事になるからである。

 本源的な教育というのは、社会教育である。社会教育の目的は、社会の維持である。社会の維持とは、犯罪の抑止と非常時に対する身の処し方である。犯罪の抑止は、社会の秩序を護ることである。そして、非常における身の処し方とは、護身、即ち、外敵や災害から自らを護ることである。社会人の責任による保護と自己の責任による保護の両立が、社会人には求められる。公私両面からの義務である。
 人間の原初的教育は、この二点であり、本質的には、この教育の必要性は今も変わっていない。ただ、現行の教育においては、この二点は、軽視されているか、無視されている。それが、公教育に対する議論の本質失わせているのである。

 必ずしも、学校は、学問を教えるところではない。本質的には、生きていく為に必要最小限の事を教えるところである。ところが、学校を卒業しても満足に生きていくことができない、生活ができない若者が増えている。

 微分積分ができないからと言って、生きていく上で、支障があるわけではない。しかし、挨拶ができなければすぐに困る。ならば、学校で教えるべき事は、何か、明白である。しかし、それが明白でないのが、今の学校である。

 生きていく為には、何が必要なのか。それが、解れば教育の目的が明らかになる。生きていく為に何が必要なのかを考える場合、逆に、なぜ、現代の若者は、社会に適合することができないのか、つまり、生活力を、身につける事が、できないのかを考えると、より鮮明にする事ができる。
 という事は、なぜ、社会に適合できないのかの原因をつかめば、教育の目的が明らかになる。では、なぜ、現代の若者は、社会に適合する事ができないのか。

 勉強をやらない理由、勉強ができない理由は、違う。しかし、成績が悪いという結果は、同じである。その現実に目をつぶれば、教育の効果は、上がらない。成績が悪いという現象だけ見ていたら、背後の本質は見えない。本当に勉強ができないのか、それとも勉強をやらないのか、それを見抜くことが重要なのである。ミソも糞も一緒くたにしてはいけない。意欲のない人間と、適性のない人間とでは、教育の内容も仕方も違う。
 ここで注意しなければならないのは、能力の問題とは、適性の問題だという事である。能力のないことと人格とは関係がない。適性がない事と人格とを結びつけたら、改善はできなくなる。むしろ、人格と適性とを結びつける人間の人格を私は疑る。

 仕事や生活が、できない理由は、次の三つがある。 一つは、意欲がない事である。次に考えられるのが、能力がないことである。三つ目が、必要性がない事である。そして、更に、能力には、後天的なものと先天的なものがある。やる気がないのか、できないのか、やる必要がないのか。

 できる人は、できない理由を意欲と捉える傾向がある。しかし、できない理由は、圧倒的に意欲以外、特に、適性・能力の問題が、一番、多い。そして、深刻な理由も能力的な問題だからなのである。しかも、能力の中で後天的な理由が大きい。後天的というのは、教えていない、躾ていないからできないという事である。それは、基礎教育に問題がある。基礎的教育が欠如しているから、ある一定の年齢を過ぎると能力・適性の問題にすり替わってしまっていることである。礼儀・作法などがその典型である。挨拶もろくにできないから営業には向かない。そう言う人間が増えている。それは、後天的な能力の問題である。いくら意欲があっても改善はされない。本来、能力・適性ではない問題が、基礎教育が欠如していることによって適性や能力の問題にすり替わっている。それが深刻なのである。

 できないのに、やる気がないと周囲の人間が思いこんでいる。その認識のギャップが問題なのである。そうなると、周囲の人間の理解は得られず。チャンスを与えられないから、ますます能力が低下する。悪循環である。

 挨拶ができない。口のきき方が解らないのに、挨拶をしない。口のきき方が悪いと解釈される。当たり前にできなければならないことが当たり前にできない。しかも人格や人間性の問題に結びつけられて非難される。その原因を作っているのが学校教育だとしたら、罪な話である。

 言ってもやらないのは、やらないのは、馬鹿にしているか。言っている事が、解らないかである。大概の人は、馬鹿にしていると思う。そこに落とし穴がある。言ってもやらない理由に多くは、解らないのである。

 後天的な学習や訓練によって身につけなければならない能力や力には、知識力や適応力、技術力などがある。先天的な機能、働きも訓練したいによっては、高めたり、磨いたりできるものがある。
 教育は、これらの能力を身に付けたり、高めたりするのが基本的な役割である。それが基礎教育の目的である。

 多くの者が肝心のことを教わっていない。学校も両親も肝心な事は教えていない。責任も持たせていない。それでは、いざというとき、何の役にも立たない。教えるだけでなく、責任を持たせ、やらせてみせてはじめて、身に付く。
 両親が、家族の問題で重要な決断をする時、子供は、相談をされるだろうか。家や車を建て直したり、購入する時とか、転職する時、働きに出る時など、親に相談された事がない子供の方が多いだろう。酷い時は、自分が進路ですら親が決めている。これでは、自立なんてできない。
 生活の心配をするなと言いながら、突然、これからは、自分一人の力で生活をしていけと言われる。それでは、教科書で泳ぎを教えただけで、大海に抛り出すようなものである。残酷な話だ。

 微分積分は、解けても、家計簿を付けたり、ローンの計算ができない。専門書を読めても、英会話ができない。しかも、能力は、使っていないとすぐに使えなくなる。微分積分だった、英語力だって使う機会がなければ、どんどん衰えていく。しかも、英語の学術論文や高等数学を読んだり、使ったりする人間は、極めて、限られている。そうなると、何のために長時間かけて勉強する必要があるのか、理由が判然としなくなる。

 義務教育の目的の第一義は、個人の確立である。第二に、人間教育である。第三に、民主主義教育である。第四に、犯罪の抑止。第五に、非常時に対する身の処し方である。第六に、餌や獲物を捕ることである。
 第一義から第三までが民主主義教育において、第四から第六までが、人間としての基本的要素として不可欠な教育なのである。

 人間が、生きていく為に必要な術を身につけるための基本的な要素は、働きと構造である。外部からの働きかけと刺激によって自分自身の力で身につけさせる。
 その為に、働きと構造を解明する事が、教育を考える上にとって重要な要素なのである。




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