先 生 へ
先生へ

信  念



無思想と言うけれど、教育の現場ほど思想によって左右される場はない。
先生だって何の考えもなしに教育しているわけではない。

先生という存在は、幼ければ幼いほど、重大な影響を持つ。
人生の岐路に立たされた時、先生の一言がキーワードになったりもする。
だから、かつては、恩師と呼べる人を一人は結婚式に招いたものなのである。

恩師。

それは人々にとって格別の響きを持っている。

人を指導するために最も必要とされるのは、確たる信念である。
子供達は、いろいろな局面で先生方の判断を求めてくる。

例えば、喧嘩をした時である。誰の言い分が正しくて、誰の言い分が間違っているのかを先生に問いかけてくる。
思春期ともなれば誰が好きで、誰が嫌いだとか。何気ない、何でもない事柄に、大きな落とし穴が隠されていたりもする。
そういった日常的で些細な出来事で先生の考え方が問われ、試されているのである。
そして、そこに思想がある。思想がなければいざという時に何もできなくなる。

単純に暴力は悪いと片付けられるのか。また、先生に対する口の利き方をどう躾けるのか。後片付けをしていなかったらどうすべきか。授業中に勝手な行動をしたらどうするのか。先生の言いつけを守らなかったらどうするのか。何をいじめと言い、どういじめに対処すべきなのか。友達とのつきあい方をどうするのか。仲間はずれにされている子を見つけたらどうしたら良いのか。成績が悪い子をどう指導したら良いのか。登校拒否をしている事にどう配慮すべきか。障害のある子にどう接触すべきか。

こういった日常的で些細な出来事の積み重ねが、子供達に微妙な影響を与え、ひいては、学級の環境を作り上げていく。
この様な状況に対してどう一貫性のある行動や言動をとっていくのか。この点に一貫性を持たせる事ができるのは、思想である。最も強固な事は信仰である。
だから、先生にとって信念が要になるのである。
余程強い信念を持っていなければ、先生は、自分の意志を保つ事さえできない。
だからといって、極端な思想や偏った思想をもったら子供達に極端な思想や偏った思想を植え付ける事になる。

その点で大前提となるのは、我が国の国是は、個人主義、自由主義、民主主義だと言う事である。

先ず確認しておきたいのは、自由主義とか、民主主義とか、個人主義と言うが、日本には、正統的自由主義、民主主義、個人主義の思想的系譜はない。大体、団体がない。
政党名には、自由とか、民主という名称を書き連ねているが、それは自由とか.民主とかの名前を標榜しているだけで、運動体としての実体は持たない。元々、思想的支柱、背景を持たないのである。
故に、共和主義や民主主義や社会正義、自由主義、無政府主義等がごった煮のように一つの政党に混在する事になる。
これは、与党であろうと、野党であろうと同じである。
以前は、それでも社会党は紛れもなく社会主義政党あったから、対極として自由主義、民主義の主張は意味があったが、思想として何らかの基礎があったわけではない。

ある程度の区分があるとしたら、革新か、保守かであるが、これも世界の常識からすれば、革新は、改憲的であるはずで、逆に、保守は、護憲的であるはずなのが逆であるから、世界の常識に反する事になる。

教育現場の人間は、偏った思想に利用されるべきではないと言うが、現実は、そう主張している人が偏った思想を持っている事が多いのだから、何をか況んやだである。
確かに、過去は、軍国主義や全体主義によって教育の現場は利用された。しかし、何らかの思想によって教育の現場が利用されている事に変わりはない。
現に今は、反体制主義者、反権力主義者に利用されている。
しかも、彼等は、教育の現場は、公正・中立であるとべきだという口実でである。

例えば、国旗や国歌の問題も民主主義や個人主義とは無縁の処で議論されている。
それは、愛国心は悪いと頭から否定している態度と変わりない。因みに愛国心教育をしているのは、なにも民族主義国家や国粋国家、全体主義国家とは限らない。
アメリカだって、フランスだって、イギリスでもやっているし、北朝鮮や中国、ロシアでもしている。
愛国心は悪いと頭から否定しているのは、日本ぐらいなものである。
学校は、反体制、反国家、反権威主義を教育する場ではないのである。

言論の自由も自分達にとって都合が良いように歪曲している。

教育の現場で反体制、反権力、反権威、反資本主義、反自由主義が何をやったのかそれを知っておく必要がある。
それを明らかにする前に、反体制、反権力主義者は、基本的に革命論者だと言う点を理解しておく必要がある。
革命主義者が当座の目標とするのは、革命的状況である。

社会が無秩序で無法、無統制な状態に陥り、革命勢力を頼らなければならない状態にする事である。つまり、無政府的状況にする事である。そのためには、テロや暴動等を繰り返し、世の中を騒乱状態に陥れる事である。中には、国家権力による弾圧を引き出し、反権力、反体制運動の正当性を主張する口実としたのである。

ベトナム戦争を口実にして反戦、反米を煽り、それを反体制運動に結びつけていった。
むろん、日本人は、日本人としての主張をすべきである。
何も民族主義的な立場、国粋主義者的な立場で日本人としての主張をすべきだというのではない。要は、日本人としての自覚をしようが終いが、他国の人間は、日本人の主張として受け止めているという事実を認識して発言すべきだと言いたいだけである。
周辺国の反日と言うが、その反日思想を鼓舞したのは、日本の知識人や新聞社だという事実を忘れてはならない。

今、一番問題なのは、先生一人ひとりが相談相手もいないままに、孤立化している事である。誰からも支援を受けないまま教育現場での責任を全て負わされている状態である。この状態に誰も疑問を持たない。
そういった過酷な状態で、何の思想も信念も持てないと言う事がいかに過酷な事かそれが理解されていない。
与えられている権限は、ほとんどない状態で責任ばかりが肥大化している。
それが問題なのである。

大切なのは、先生一人ひとりが強い意志を持つ事なのである。
自分の考えや主張を明確にしていく。そして、自分の考えや主張に対して責任を持つ。
その上で生徒達の意志だけでなく、父兄や地域社会とどの様に折り合いをつけていくのか。学校の先生は、勝手に自分の思想を生徒達に教えて良いわけではない。
学校というのは、父兄、地域社会、国家の委託を受けて子弟を教育する場なのである。
だから、生徒の考えを真摯に受け止めながら学校全体の意志をどう地域や父兄の意志と整合性を持たせていくかが問題となるのである。
それを社会や学校の仕組みの中に組み込んでいく事なのである。
生徒の意志を尊重しつつも生徒の意志が絶対なのではないし、また、先生が絶対なのでもない。教育は、基本的に保護者にとっても、学校の先生にとっても直接的問題であるし、国家にとっては、根本的な問題である。
何を教えても良いという事ではないし。教える事は、学校や先生が自由に決められると言う事ではない。
国家や父兄の意思を無視して決められる事ではない。
軍国主義云々というのは、政治の問題であり、教育の問題ではない。
軍国主義に反対するとしても、それは先生個人の問題であり、公的に否定されれば、或いは、学校の方針が、自分の考えに合わなければ学校を去るしかない。
逆に、平和時に革命思想を吹き込むところでもない。
だからこそ、先生は、自分の思想考えを明らかにする必要があるのである。

その意味では、学校というのは、体制側の存在なのである。
少なくとも革命的場ではない。

ただ、民主主義では、先生一人ひとりの考え方を明らかにする機会を与え、何かあった時は、先生に弁明の機会を与え、公序良俗に反しない限り、先生の意思を尊重するのが原則である事を忘れないで欲しい。なぜなら、それが民主主義だからである。

ただし、公序良俗の定義が民主的手続きに乗っ取ればという前提条件がついての話ではあるが・・・。

生徒や父兄と話し合ってきちんと納得させる事が肝心なのである。
いずれにしても大切なのは、先生の信念の持ち方である。



自由ってなあに・・・

個人主義・自由主義・民主主義
学ぶべき事
権威主義
教育と思想
反体制・反権威
哲学を学ぶ
恩師と先生
教育と思想
反体制という思想
思想と哲学
自由の大切さについて
自由の大切さについて2
反体制・反権力・反権威という思想
教育と志
師弟愛
意志と欲望

        content         

ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2016.3.19 Keiichirou Koyano