先 生 へ
先生へ

理想とを持って


教職者を志す者は、本来、理想主義者である。
先生は聖職である。
なぜなら、教育は生徒一人ひとりの人生を定め、国の行く末を決める大事だからである。

その理想や志が持ちにくい、もてない環境状況に今の先生方は置かれている。
それを先生は自覚する必要がある。

先生を志す人の多くは、教育に情熱を抱き、何らかの理想を持つものである。
又、それがなければ、なかなか自分を保てないほど、教育の現場は過酷である。

理想を持って先生になった人にとって今の教育現場は絶望的である。
先生一人ひとりは孤立し、相談相手もいない。孤独な職場である。
それでいて職務は重く、不祥事が起こったら、一人で背負い込むほかに誰も助けてはくれない。
情熱を持って職務を遂行しようとすればするほど、障害は高く、多い。

重い責任を一人抱え込む事になる。
しかも、父兄も生徒も同僚も協力的でない。
問題は、自分一人で解決する以外にない。

こうなると最初に持っていた理想も、志も色褪せてしまう。
何に希望を見いだせというのか。
何を信じたら良いのか。

生徒が先生を仰ぎ見て、憧れの対象なんて夢幻なのである。
しかし、師とは本来そういう存在なのである。
先生は、理想と現実のギャップに苦しめられ続けるのである。

これでは心身ともに衰弱してしまう。

先生の評価さえ、有名高校への合格率で測られてしまうのである。
熱血先生は、受験戦争ではお荷物でしかないのかもしれない。
しかし、本当に子供達に必要なのは熱血先生である。

教育とは格闘なのである。
無理解との格闘。
生徒との格闘。
世の中の不条理との格闘。

そんな先生の中に宮沢賢治がいる。

生徒と向き合い、受験戦争の不条理と戦い。
生徒を囲む無理解と戦い。
生徒の絶望感や失望と戦い。
教え子一人ひとりの生き様に責任を負っていく。
それが先生本来の姿である。

先生が社会からも子供達からも孤立していたら、先生は先生たり得ない。
子供達の輪の真ん中にいるから、先生は、先生なのである。

物わかりが良いだけでは先生は勤まらない。
頑固では、先生は務まらない。

本当に誠心誠意生徒と向き合うからこそ先生は先生たり得るのである。

だから、我々の父母は、どうか、真人間にしてやってください。厳しく躾けてくださいと先生に子供の人生を委ねられたのである。

先生達に必要なのは、どんな逆境にあっても負けない不撓不屈の精神である。
自らの信念を貫き通す意志である。

自分に克って礼に復る強さである。



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