真の教育とは


エピローグ



  一人前の社会人にする事。世の為、人の為に役に立つ人間を育てる事。先人達は、教育の本質や目的を明確に持っていた。
 戦後、我々は、さしたる根拠もないままにこれらを否定し、捨て去ってきた。
 その結果が、教育の荒廃である。しかし、事ここに至っても、まだ、当事者達は、反省をしないまま、過ちを繰り返している。

 一流大学を卒業して、一流企業に勤めれば、幸せになれるというのは、幻想にすぎない。問題は、人間教育です。人生いかに生きるべきかです。

 職人は、腕を磨くことで自由になった。手に職をつけておけば、生活には困らない。中国には、三刃という言葉があると聞いたことがあります。刃物に関係した三つの職業、つまり、仕立屋、床屋、料理人の三つの技術の一つを身につけていれば、一文無しで、どこに行っても、生活には、困らないと言う意味だそうです。

 生きる事を教えるのが教育です。
 良い生き方、上手な生き方を教えるのが教育なんです。

 教育の本質は、感動と喜びです。感動も喜びも与えられない教育は、教育ではない。なぜなら、生きる希望・気力を与えられないからである。

 人格的に問題がある教育者が一番困る。ところが、こういう教育者の人権ばかりが、一番守られている。

 現在、教育のマニュアル化が進んでいる。その事によって、教える側が、教わったこと以外、教えられないという事態が、発生している。これは、教育が末期的症状を示していると言える。教育の荒廃がきわまったという感じである。感動や喜びはマニュアル化できない。教える事をマニュアル化したら、教える事に喜びや感動が持てなくなる。
 先生がそうだから、生徒も、教えられた事しかできなくなってしまうのです。答えが正しくても、教科書に載っていないから、また、指導要領に載っていないから、間違いだなんて、狂っています。重要なのは、教科書に載っているか、いないかではなく。真実かどうかのはずです。だから、いざという時、何も、できない。非常時の対応なんて教科書になんて載っていませんよ。なにせ、異常事態なんですから。

 滑稽なことに、犯罪までもマニュアル化している。子供達は、悪い事も学習する。良い事ばかりを学んでいるわけではない。教育に人間性がないから、教わる者に善悪の判断ができなくなっている。悪い事をしても、当事者は、ただ言われたことを言われたようにやっただけで罪悪感などかけらもない。魂のない教育は、それ自体が間違いなのである。

 時は、取り戻せない。自己は、今しか居ない。
 取り返しのできない過ちもある。
 人生は、一回かぎり。それなのに、何度でもやり直しができるような錯覚を与えている。
 やり直しのきかない事もある。それを教えるのが教育であり、そのために教育がある。

 あたかも、やり直すことができるように錯覚をさせ、取り返しのつかない過ちを教育が増長させているとしたら、それは、教育本来の姿から逸脱しています。

 野球の監督、コーチは、経験者が圧倒的に多い。
 ところが、学校の教育者は、学校しか知らない人間が、いきなりなる。社会経験も人生経験も、何もない。仕事をした経験もなければ、自分が学んだ事を実践したこともない。
だから、経験が役に立たない。勢い、マニュアルだけの指導になる。
 教育の対象は、人間なのです。工業製品を作るための、論理によってなされるべきものではありません。

 教育を受ける側の権利が無視され続けている。教育というのは、人がすることです。そして、人に対してする事です。
 人生を、社会を語ることのできない者にはできませんよ。

 教育は、確かに、仕事です。しかし、他の仕事と同一には語れません。
 なぜなら、それは、人を対象にした仕事、しかも、まだ、自己をも、確立していない子供を対象にした仕事だと言うことです。
 聖人君子たれとはいいません。ただ、教育者は、修行者、修道者、求道者たれといいたい。すくなくとも、志を持って欲しい。




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