真の教育とは


教育の在り方



  人間を独創的、個性的存在と積極的に認め、その独創性や個性を伸ばす教育を、理想としながら、実際にやっている事は、教育の平準化、標準化だ。その結果、生徒の質が画一化され、平均化されていく。その上で、規格に収まらない者は、切り捨てられてしまう。人間を規制の枠の中にはめ込もうとしているのが、現代の教育の姿だ。つまり、服を人に合わせるのではなく、人を服に合わせようとしているのが、現在の教育です。

 教育者最大の仕事は、人を見ることです。一人一人の個性、適正を見抜き、それに適合した教育を施し、進路を示す事、それが、教育者の使命です。

 教育の質の向上は、教育の品質管理、マニュアル化ではありません。
 一方的に一つの規格、鋳型に嵌め込み、教育を平均化するのは、工業の近代化、大量生産方式と同じです。その上で、まるで品質管理のように偏差値によって生徒を序列化する。それは、人間の規格化で、ただ単に、学校や教師が生徒を管理しやすいと言うだけである。
 野球で言えば、全ての選手を投手で四番打者にするような事です。

 その結果、優秀な生徒はその能力の成長を抑制され、現行の教育の規格に不適合な者は、自分に適した道に、進む事を閉ざされてしまう。当事者の意志や考えは、無視されてしまう。
 生徒から自分の進路に対する判断材料を与えずに発言権を奪う事は、生徒の自立性や主体性を損なう事になる。何でもかんでも、偏差値に還元するのは、安易なだけで危険な選択である。

 教育というのは、人間的に技術であり、機械的な技術ではない。教育の目的は、人の育成であって工業製品を製造するのとは、わけが違う。つまり、教育の質は、教育者の質によって決まるのである。

 試験を統一し、均一し、画一化すれば、必然的に教員の質も均質化される。それは、教員の仕事を標準化、平準化する目的以外にない。しかし、教員の均質化は、教員の質、ひいては、教育の質の向上には、結びつかない。

 教員の仕事を一般の作業と同一視し、マニュアル化することによって、特別な能力や技術を、習得しなくても短期間に、育成できるようにする事を、目的としているようにみえる。

 いわゆる典型的、部分適合、全体的不適合の例である。

 自己の中核は、意志と感情である。意志や感情のある人間を、機械のように扱えば、意志や感情を失い、自己を喪失し、教えられた事、許可されたこと以外できない人間を大量生産することになる。
 最近、凶悪犯罪の低年齢化や成人式での新成人の傍若無人な振る舞いに眉をひそめる向きがあるが、そのように育てた者の責任はどうなるのか。
 社会の風潮は、教育の成果です。

 教育は、画一化され、標準化されたものであってはなりません。なぜなら、人間は、存在自体が、独創的で、個性的なのです。そして、何よりも、人間は、主体的存在だと言う事です。

 差別社会でもなく、封建的社会でもないからこそ、教育を多様化する必要があるのです。ただし、制度は、単純であるべきです。単純な制度の下にいろいろな学校を作らせ、生徒の側の選択肢の幅を広げるべきなのです。
 要は、受ける側の選択肢の幅を広げることです。そのためには、国民、特に、生徒や保護者を信じるべきなのです。

 そして、教育制度上の組織の単位を適正な規模に抑える必要があるのです。その上で、生徒、保護者、地域社会、学校、国家の役割を明確にする必要があるのです。




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