教育ってなあに


何を学ぶべきなのか。


 本当に、真面目に、真剣に幸せになることを考えよう。どうしたら幸せになれるかを考えよう。それが勉強の第一歩。
 何を学ぶべきかは、自分がどうしたら幸せになれるかを知る事から始まる。
 自分が幸せになる為には、どういう生き方をしたら幸せになれるかを明らかにすることだよ。

 幸せになろうと思ったら、自分を知る事が勉強の第一歩だね。
 自分は、どんな人間になりたいか。自分はどんな人生を送りたいか。自分はどんな生き方をしたいかだよね。自分はどんな人間かを知ることさ。そして、自分を好きになること。自分を愛することから学び始めないと学ぶ事にどんな意味があるのかわからなくなる。
 勉強すればするほど、自分が厭になり、自信がなくなって、どんどん嫌いになるような勉強なんて意味がない。間違っている。劣等感なんて糞喰らえだ。
 やればやるほど生きる勇気がでて、自分が好きになっていく。自信に繋がっていける事、それが本当の勉強さ。なぜならば、それは生きること、生きる喜びに発展していくからな。
 生きる喜びが、凝り固まって望みになり、夢を育み、志を生むのさ。

 人間は、成績がよくなるために、生きているわけではないからね。
 人間は、良い学校や、良い会社にはいるために、生きているわけでもない。
 人間は、自分らしく生きる事が目的なんだ。自分らしく生きる事が幸せになる近道なんだ。
 ところが、残念なことに、その自分というのがなかなか解らない。
 だから、悩むんだよね。自分には、どんなことができて、自分が一番得意なのはなにか。本当に自分が希望しているのは何なのか。自分には何がむいているのか。それが最初から解っていたら苦労はしない。それが解らないから悩むんだよね。
 その上、何が正しくて何が間違っているのかもなかなか解らない。
 有名なスポーツ選手を父親に持つからと言って必ずしもスポーツが得意というわけでもないし、俳優や経営者の子供だからと言って俳優や経営者にむいているとも限らない。
 例えば、四十や五十になってからでも、ひょっとして俺には別の道があったのではないかと気が付いて、愕然としたりする。でも、それでも希望がないわけではない。伊能忠敬みたいに年をとってから始めた学年で大成する人すらいるからね。
 だけど、年をとってから始めた事で大成する人はいる事はいるけれど、極めて稀だよ。人生は、一回しかない。それを肝に銘じておくんだな。
 よく大学を出てから考えたって遅くないなんて言う人いるけれど、それは嘘だな。
 確かに、年をとってから勉強を始めて遅くはないさ。でも、それは、若い頃から一生懸命探し求めた結果なんだ。とりあえず、大学には入れというのは、無責任だよね。
 何度も言うよ、人生は一回しかない。自分は一人しか居ない。今の自分は取り返すことができない。特に、青春というのは、二度と戻れない。
 気力や体力を必要とする仕事は、年とってから始めても自ずと限界がある。
 だから、悔いのない人生を送りたいのならば、自分が何を望んで、何にむいているかを知る事から始めるしかないね。

 若い時、自分が解らなくて悩むのは当たり前なことだね。何もおかしくも、不思議もない。本当の自分を捜し求めていろいろなことに挑戦するのも当然だ。
 その為に、多少、道草を食ったり、横道にそれるのも良い勉強だよ。
 青春時代は、引き籠もっていては駄目だよ。失敗や挫折を怖れず、色々な処へ出かけて、色々な経験を積むんだ。それが最高の勉強さ。

 第二に学ばなければならないのは、人間は一人では生きられないと言う事さ。人間は、一人では生きられない。人は、他の人に迷惑をかけないと生きられない。生まれたばかりの赤ん坊は、人の助けがなければ生きていけない。人は助け合って生きていくもの。それを学ばなければ人間は生きていけないんだ。
 一人では生きていけないのならば、自立すると言う事は、人と助け合って生きていくことを学ぶ事さ。

 だから、助け合って生きていくことを知るためには、自立することを学べ。一人で生きる事を学べば、自分を支えている多くの人の存在を知る事になる。自分を生かしてくれる人々の存在を学ぶ事は、感謝を学ぶ事でもある。感謝を学べば、人々ともに生きる術(すべ)を身につけられる。それが自立すること。
 自分一人で生きているなんて思い上がるのは、自立できていない証拠だよ。そう言う人間がひきこもりになるんだ。人々の中で幸せに生きたいのなら、自立することを学べ。その為には、本当に自信を持つと言う事がどんなことかを学ぶんだ。

 自分一人では、生きられないという事は、他の人達と結びあって生きていかなければならないと言うことだ。
 つまり、良い人間関係を築かなければ幸せにはなれないという事。
 だから、人と人と関係、良い人間関係を作るために、何が必要なのか、どうすればいいのかを学ぶ事だね。人と人との付き合い方、礼節を学ぶ事だよ。

 それは、人と人とが助け合って生きていく為の、決まり事や掟を学ぶ事でもある。

 最近の学校では礼儀を軽んじる傾向がある。でも、いいかい、やくざや暴走族にも礼儀、作法はある。集団には、各々の集団の掟や仁義、作法がある。猿や狼にだって掟はあるんだ。封建的かどうかは、礼儀作用にあるんではなくて、根本の考え方にあるんだ。礼儀や作法を否定する事は、社会を否定する事なんだ。日本の礼儀作法を否定する事は、日本を否定する事なんだ。民主主義国だって社会主義国だって礼儀作法はある。礼儀作法がないのも、礼儀作法の一種だ。どんな社会にも、社会が成り立つためには、その社会なりの礼儀があることを忘れてはならない。その社会で生きていく為には、最低限の礼儀作法を身につけておく必要がある。

 第三に、生きていく上に何が一番大切にしなければならないのかをハッキリさせることだ。
 お金は大切な物かも知れない。でも、お金のために、自分の大切な人を犠牲にしたりしたら幸せになれるかどうか、よく考えるんだな。
 何を優先し、何を最後まで護らなければならないのかを知らないと、幸せになるつもりで一生懸命努力したことが裏目になることになる。そうなると、頑張れば頑張るほど不幸になるなんて事にもなりかねない。
 生きていく為に一番大切な物は、何かを知ると言う事は、何を護らなければならないのかを知る事だよ。
 金のために、家族や友達を犠牲にするなんて馬鹿げているよ。何のために働いているのか、働く意味がないじゃないか。家族や友達が不幸になったら、自分が幸福になれると思う。欲望や快楽しか知らない人も不幸だよね。自分の人生において何に執着し、何に執着してはならないのかを学ぶ。それが勉強だよ。
 第四に、自分は、何によって生きているかを知る事だ。今自分がここに生きていられるのは、誰のお陰かを知る事だね。自分を生んでくれた両親、自分を育んでくれた人々を知る事だ。それは、縁を知る事だよね。
 むろん、ただ、隷属すると言う事を意味するのではない。ただ、縁を大事にしようという事だ。悪縁を絶ちきって、良縁を結んでいく。自らが悪縁を招いていたらしょうがないよね。 幸せになるために、不可欠なのは、良き友だよね。いざという時に助け合える仲間。お互いに切磋琢磨しあえる親友は掛け替えのない存在だよね。
 それとよき理解者、仕事仲間だね。良い上司は、自分を生かしてくれる。良い同僚にで逢えたら最高だね。志を同じくする同志は、生死を伴にできる絆がある。
 それから良き師に出逢えることは、無上の喜びだね。良き師と言っても学校の先生ではないよ。人生の師さ。心から尊敬できる人に出会えたら、それだけでも生きる目的が見出せる。良き師は、自分を幸せに導いてくれる。
 そして、よき伴侶に出逢えたら、忽ち、幸せになれる。良い恋は生き甲斐だよね。
 出逢いがいかに大切かと言う事だな。
 第五に、幸せになるためには、何が必要かを知る事だな。
 何によって自分は生きていくか。自分が一生をかけて成し遂げるに値する仕事を見つけることだよね。それは、自分が命懸けで護るべき対象を教えてくれる。
 学校の成績が悪くても、何等かの技術を身につけておいておけば、一生生活にはとりあえず困らない。いい成績を上げても就職先がなければ、生活ができないからね。
 だから、昔の親は、何か手に職を付けさせることを優先したんだ。頭の悪い奴が大学へ行ったってしようがないと言ってね。当時の親は、子供達が一生生活に困らないように育てたんだね。人には、それぞれ向き不向きがあるんだ。猫も杓子も大学へ行けというのは、一種の差別だよね。
 僕は、思うんだ。幸せになるには、惚れることが大事だとね。惚れるというのは、何も、異性に惚れることだけを言うんじゃない。惚れるというのは、命懸けになれるという事だよね。だから、なるべくなら、長持ちするものが良い。できれば一生かかってもなくならない相手だよね。そう言う意味では、惚れる相手って僕は三つあると思う。
 一つは、事業だと思う。もう一つは、人だね。最後に異性さ。最高なのは、やっぱり、一生をかけて成就したという事業を見出すことかな。自分で事業や仕事が見出せなければ、指導者に惚れることさ。異性に惚れるのは、それはそれで素敵なことだと僕は思う。
 人生というのは、事を為すことだよ。世の為、人の為になる大事をなすことだと思う。それが志だね。
 第六に、どうしたら大切な物、必要な事を手に入られるかだな。
 幸せというのは、人と人との関係の中から育まれる。だとしたら、必要な物を手に入れる手段は、人と人との関係にある。人との付き合い方にある。人との付き合い関係を形にしたのが、礼儀であり、作法である。だからこそ学ぶべき事は、学ぶべき事は、礼節だね。
 又、大きな事業を成就するために良い学校へ行ったり、大きな会社にはいるのも一つの手段だ。でも、それは手段だ。目的ではない。目的を失えば、我執しかなくなるからね。我執は人を不幸にする。妄執は人を不幸にする。だから自分に克つ必要があるんだ。
 故に、最後に自分の限界を知る事。自分の限界を知って自分に克つことを学ぶんだな。

 だからこそ、克己復礼が教育の本義なのさ。自分の限界を知り、自分と戦って、自分に克って、物の道理、礼節に従う。
 負けた時は、卑屈にならず。勝った時にこそ相手に対する礼節を失わない。それこそが克己復礼であり、勉学の本質は修業なのだ。

 自分が自分に克つためには、自分で自分を律するため規範が必要になる。つまり、道徳だな。道徳は、自分の心の問題さ。道徳は、自分を写し出す鏡だ。だから、人は、自分の道徳によって裁かれる。人の物を盗む者は、自分の者を奪われる。人を傷つける者は、自分も傷つけられる。人を欺く者は、自分も騙される。人を殺める者は、自分も殺められる。自分の欲望を恣にする者は、人の欲望に弄ばれる。虚栄を求める者は、自分の人生も虚しくなる。真実を求める者は心豊かになる。人に愛を施す者は、愛を得ることができる。自分の道徳こそ、自分に厳しい戒律である。故に、幸せは自分の道徳によって決まる。

 だから、学問の目的は、道徳にこそある。

 沢山の人は、幸せになりたくない、幸せになりたくないって生きているように見えてならない。
 自分を卑下したり、周りの人を馬鹿にしても幸せにはなれない。自分を卑下するのは、ただ、自分に負けているだけだ。自分は駄目な人間だと決め付けられたら、楽だもの。
 だからといって、自分勝手に、自分さえよければ他人なんてどうなってもいいというのでは、幸せにはなれない。 周囲に不幸な人がいたら、幸せにはなれない。周りの人を幸せにするのは、自分が幸せになるために必要だからさ。

 大切なのは、人としての誇りだよ。日本人として、又、自分に対する誇りだよ。

 ただ引き籠もってばかりいても幸せにはなれないよね。
 ウジウジと内に籠もっていたら、何も生まれないもの。だんだん、性格までひねくれてきてしまう。

 何を学ぶべきか。そうなるとハッキリしてくる。

 志を立て、自分を生かす道を知る事。幸せになるためには不可欠だな。
 良い恋をすることも、幸せへの近道だね。
 愛する事を知る事は、自分の人生の根源、ひいては、自分の存在意義を確認することだからね。

 愛する前に、欲望を知ることは幸せになる事かな。
 人を欲望の対象としてしか見れないなんて不幸なことだよね。
 金、金、金の人生も貧しいね。
 結局、豊かさとは何だろうという事になる。
 いくらお金を儲けても、最後に、皆に見捨てられて、一人、寂しく死んでいくの様な人生を幸せと言えるのかな。
 金目当ての人間しか信じられない人生なんてね。

 何を学ぶべきか。
 それは、人々と助け合って生きていく術(すべ)だ。

 綺麗事を言うなというテレビコマーシャルがあるけど、綺麗に生きようとしてはなぜ悪いの。
 大体、綺麗事は言うなというコマーシャル自体、汚い生き方をして、他人を不幸に陥れた人間達が制作をしているコマーシャルだからね。

 何を学ぶべきなのか。それは、人生いかに生きるべきかだ。
 生きる為の手段として金儲けや、人付き合いがある。
 でも、人間は、食べるために生きているわけでも、金儲けのために生きているわけでもない。働くために生きているわけでもない。
 生きる為に、食べるのであり、生きる為に働いて金を儲けるのである。
 それを忘れたなら、何のために生きているのか解らなくなる。

 この世の中には、自由人と奴隷しかいない。
 自由人とは、自分の意志で生きているものを言う。奴隷とは、自分以外に意志によって生かされているものを言う。
 子供を育て、家族を護ることは自立していないと錯覚し、子供を捨てて外に働きに出ることが生きることだと思い込んでいる人がいる。
 しかし、最愛の人達を犠牲にしたら、幸せになれるはずがない。
 勉強ができないと嘆いている人がいる。しかし、勉強ができないからと言って自殺したら、それは本末の転倒である。

 結婚というのを最近の人は思い違いをしている。
 結婚というのは、楽をするためにするのではない。
 結婚というのは、寂しいからするのでもない。
 結婚というのは、苦労をするためにするのである。
 その苦労の果てにこそ幸せがあるから結婚するのである。
 苦楽を共にし、助け合って困難に立ち向かい、克服した時、本当の人生に出逢えるからこそ結婚するのである。
 子を愛し、他人を愛することを知るために結婚するのである。
 子を産み育て、人の為に尽くす事に喜びが見出せなければ、結婚は、苦しみでしかない。人生は空疎である。なぜならば、愛の真実を知る事ができないからである。
 愛は快楽ではない。愛は、快楽の対極にある。そして、幸せは愛と伴にある。
 だから、人は、苦労することを承知で結婚し、子を産み、育てるのである。
 それを学べないから、結婚をせず、又、結婚をしても別れるのである。

 苦労を厭えば幸せは、逃げていく。
 それを学んだ者だけが幸せを手に入れることができる。
 それが学問の成就である。

 家族を養うために働くのであり、生きる為に、勉強をするのである。
 それを実感した時、仕事は喜びとなり、勉強も生き甲斐となる。
 幸せとは、家族の内にある。だから、苦も苦にならず、換えって喜びとなるのである。
 外に求めても得られはしない。
 それこそが幸せなのである。
 だから、幸せは、青い鳥なのである。学問は青い鳥を求める旅なのである。
 それが学ぶべき事なのである。

 愛する者が喜ぶ姿を見ることこそが真の幸せなのである。
 それが何かを求めることが学ぶ事なのである。




                        

 学ぶべき事
 何を学ぶべきなのか
 自分ってなあに
 何を教えるべきなのか
 
 公について
 志すところ
 
 武士道
 
 植民地教育
 修業
 礼節
 忠と孝
 規律と秩序
 何を学ぶべきか。
 愛へ
 神へ


 日本人にとって吉田松陰は、イエス・キリストのような存在である。
 



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