教育ってなあに


美   術


ぬり絵というのは、現代教育を象徴している。
芸術は、表現だ。
決められた枠組みの中を、色づけしても、
創造性が、育まれるわけではない。
むしろ、造形感覚を阻害する。
だいたい、美術と言うが、芸術というのは、
必ずしも、美を表現しているとはかぎらない。
戦争の悲惨さを表現しているものに、美を感じるとしたら、
それは、あぶないだろ。

芸術から、何を、学ぶのか。

情操教育って言葉自体が死語だものね。
受験勉強に人間的情操なんて必要ないか。

人間の価値基準は、真善美である。その中の善と美が教育上は、切り捨てられた。
教育では、真のみを教えればよろしいという事になる。

なぜか、善と美は、主観的な基準だからである。
しかし、善と美を切り捨てる事は、教育の魂を捨てるのと同じ。
その事に気がついていない。
主観的だからこそ教育する必要がありのに。

昔は、たしなみってよく言われたんだ。
嗜み(たしなみ)ってこういう字だけど。
たとえば、武士の嗜みって具合に。
つまり、ただ、生きていくために必要なことばかりでなく、役には立たないけれど、自分の素養や教養を、高めるのに、必要な事を、一つぐらい、なんか、持てって。
だから、昔の武将は、剣道や学問以外に、詩や舞を身につけていた。
少なくとも、辞世の句くらいは書けた。

情緒とか、感性って大切だよね。
決断って、感情がするものさ。
第一感て大切だぜ。
一目惚れというか、第一印象で、だいたい決まると言うだろ。
そういう、感性が大事なの。
その感性を磨いて、審美眼とか、洞察力とかを身につけなけば。

抽象画を鑑賞する時、いろいろと解説する人いるけど、
本当に解っているのかな、。
自然の風景に意味なんてないよ。
抽象画が、解らないと言う人いるけど、
結構、服装のセンスなんかうるさい。
でも、服装の柄って抽象画みたいなものだよね。
抽象画見て、いい柄ねって言えないのだろ。

それと、創造力。想像力。
夢を描くのは、論理ではないよ。
想像力。
また、いろいろな計画を立てたり、組み立てたり。
創造力。
人生って芸術的だぜ。
芸術的な人生を送ろうよ。
少なくとも、きれいに生きようぜ。

見る目を養うことが、美術の授業の目的のはずだけど?
美術の時間て、今の教育の典型。
象徴している。
とりあえず教えているだけで、何を目的としているのか解らない。
だから、押し付けになる。

こうなると教えれば教えるほど
目的からも、現実からも離れていく。
学校て何。

水の色は、水色?
ホント!
水は透明じゃない。
水って周囲の色がとけ込んで見える。
水を描くというのは、プロ絵描き生涯の仕事、永遠のテーマさ。
それをいとも簡単に、水は水色と教える。
決めつける。そして、子供達から、感性を奪い取る。
感受性を台無しにする。

なぜ、空は青い。木の幹は、茶色。太陽は赤い(欧米は黄色)。
それを考えることに意義がある。
それなのに、大地は、茶色。草は緑。海は青いと決めつけるの。
赤一色のリンゴって本当にあるの。
海って、本当に青一色だろうか。
日によって海の色は変わらない。
空気には色はない。
暖かい時と、冷たい時って
見る風景の色が違わない。
おいしい色ってどんな色。
最初から、これはこの色って決めてかかったら、
本当の色を子供達は見なくなる。
それが教育。
何のために、誰のためにそんな教育をするの。
する必要があるの。
塗り絵がうまくなったら、良い絵が描けるようになる。
子供達は、実際に自分が見ている色、感じたことを信じなくなる。
頭の中だけで対象を捉えるようになる。
虚しいと思わないのかな。
目的を達成するどころか、
明らかに、悪い効果があると、
みすみす解っていることを、
あたかも正しいこととして教えるなんて。
現実とは、違うことを教え込んでおいて、
それを事実だと信じ込ませる。
現代教育の本質を暗示しているよな。

何でもかんでも成績。
美術も成績の対象となる。
美術は、本質的に感性の問題。
感性をどうやって採点するのだろう。
美術を採点するというのは、自由で、独創的で、創造力豊かな
と言う教育目的からは、およそかけ離れている。
採点をするためには、課題を与えなければならない。
課題を与えることで、
子供達の感性に制約を掛けることになる。
そうすると課題を与えないと絵が描けなくなる。
これは、逆効果である。
その上、絵が嫌いになる。
なにをかいわんやだ。
感性に点数をつけることなどできはしない。
美術の先生の良心はどうなるのだろう。
それとも、美術の先生は、芸術を解さないのだろうか。

それに、絵は、心理分析の道具でもない。
絵は絵さ。それを忘れたら意味がない、
始まらない。

現代社会は、新たなアヘン戦争の中にいるようなもの。
テレビやビデオ、テレビゲームから流される強烈な刺激は、
直接幼児の脳に送られる。
そして、刺激は、麻痺して、更に強う刺激を求め
最後には、中毒症状を引き起こす。
テレビなしでは生きていけない子供を産みだしている。

音楽も、強烈なビートにのって子供達をおそう。
一体子供達にどんな影響があるのか、
誰も恐ろしくて調べようとはしない
糖尿病の患者が欲しがるからと言って。
砂糖が一杯入っているお菓子を毎日食べさせる。
殺す気か。
ここまでいくと人間性、良心の問題だよな。

親子で歌い継がれる歌や
子供達の感性を優しく育むような歌は
捨てられていく。
蛍の光も仰げば尊しも消えていくのだろう。

子供達の感性がずたずたになったとしても不思議はない。

デジタルビデオにデジタルカメラ。
記録をする道具には事欠かない。
だのに、外を飛び回る子供達がいない。
親父は、カメラを回すのに忙しくて、
子供と遊び隙がない。
道具はあっても被写体がない。
手段があっても、目的がない。
今の教育を象徴している。

礼節の基準は美意識。
よく、礼節は、封建的という人がいる。間違ってはいけない。
礼節が封建的なのではなく。
封建的な社会だから礼節が封建的になるのである。
封建的なのは、社会であって礼節ではない。
そして、もう一つ、そういっている人間の頭が封建的なのである。
民主主義は、人による支配ではなく、法による支配です。
だから、礼節が重んじられる。なぜなら、礼は、不文法だからです。
礼節の基準は、美意識です。だから、善悪で論じても意味がない。
むろん、真偽で論じても。きれいか汚いか。
だから、礼節は、感性が大切なのです。
その感性を磨くのが美術の時間です。

絵を描くという行為は、内面の神を描くことのような気がする。
もし、自然を神だとすれば、絵を描く意味が失われる。
絵を描くというのは、絵を描くという行為自体に意志があると思う。
そして、そこに内面の神が宿るのだと思う。
だから、絵と自然とは違う。
そこに描き手の魂とか、精神が見えてくるのである。
つまり、美術の時間とは、自分の内面の神と出逢いの場を作ることに相違ない。



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