教育ってなあに


数    学


 算数は面白い。
 でも、算数が面白いというと、
 算数のどこが面白いのと聞き返される。
 それが最大の問題なのだ。

 算数は、面白くない。
 算数を面白いと思っている子供より
 算数は面白くない、そう思っている子供達の方がずっと多い。
 子供だけでなく。
 算数を教える側も算数は面白くないと思い込んでいるから始末が悪い。
 自分が面白くないと思っているものを面白く教えるなんてできるはずがない。
 教えれば教えるほど算数嫌いを増やすことになる。
 年齢がいくに従って算数は面白くないと思い込んでいる子供が増殖する。

 でも、考えてみよう。
 スポーツは数字があるから成り立っている。
 ゲームの多くも数字がなければ成り立たない。
 スポーツだってゲームだって算数の上にできている。

 皆、知らず知らずのうちに、算数をしている。
 数は、文字ができる前から存在している。
 数学が面白くない学問なら、なぜ、こんなに数学が発達したというのか。
 人間は、本来数学が好きなのである。
 それに、数学、何かと役に立つ。

 人間の社会や経済は、数字がなければ成り立たない。
 だから、誰でも数字を操っている。
 なのに、皆、算数が嫌いだという。
 算数が根っから嫌いなのではなく。
 算数を嫌いにさせられているだけだ。

 算数は、世の中に役に立たない。
 無用の用などと馬鹿げた事を言う者がいる。
 数学は元々必要性から生まれたのである。

 数学には、大雑把な所と繊細で厳密な側面がある。
 また、実用的な部分と非実用的な部分がある。
 それは、数学は、手段であって、本来、数学は、合目的的な事なのである。
 数は抽象であり、数が指し示す対象によって数の性格も違ってくるのである。

 算数は、計算だと思っている。
 計算ばかりが数学ではない。
 図形だって数学の一部である。
 考えること自体が数学なのである。

 なぜ、分数や小数、無理数なんて数字があるのか。
 それは、数学の根底に幾何があるからである。
 近代数学の原点は幾何である。
 だから、分数や小数、無理数が生まれた。
 でなければ割りきれない数の存在なんて意味がない。
 幾何、図形があるから無理数のような割り切れない数が成立するのである。

 それでも今の日本は、最初に計算を教える。
 数は、ただ体系としてのみ教える。
 だから数学は計算だと思い。代数だと思う。
 計算は、数学の本筋ではない。
 ただ、試験をするのに便利なだけである。

 算数を学ぶ時は、数の歴史を学ぶべきなのである。
 なぜならば、算数は、まだまだ発展途上にあり、
 完成されたものではないからである。
 決まり切ったように教えてしまうと数学の本質が見えなくなるからである。

 算数は面白い。
 算数は謎解きに不可欠である。
 謎は、生命の神秘や宇宙の神秘に結びついている。
 数学は、真理を解明するための鍵なのである。
 数学を極めれば、神秘の扉を開くことができる。

 有理数、無理数、整数の中で一番最後に成立したのは、整数なんだ。先ず、その前に0という数字を認めなければならなかったけどね。
 なぜ、整数が成り立たなかったかというと、マイナスという考え方が理解できなかったからさ。マイナスの世界なんてあり得ないとかのデカルトだって言っていた。
 それから、0ね。どうしても0という意味がわからなくて、0を認められるようになったのは、近代になってから。
 ちなみに、0という考え方や、今のアラビア数字を確立したのは、インドなんだよ。だから、インド人は、とっても数字に強い。
 無理数は、ピタゴラスが発見したと言われているんだが、肝腎のピタゴラスがあり得ないと言って秘密にしてしまった。そして、秘密をばらした弟子を殺してしまったとさえ言われている。
 だから、皆が、マイナスとか、0とかがよく理解できないと言うのは、当然だね。それをあたかも当たり前のように教えてしまう。だから、意味がわからなくなるんだな。
 数学というのは、歴史なんだよ。

 昔、庶民の勉強と言えば、読み書き算盤と言った。読み書き算盤が出来なければ、一人前の人間とは認められなかった。
 だから、寺子屋の勉強は、読み書き算盤が主体だった。
 逆に言えば、読み書き算盤が出来れば、とりあえず生活は出来た。

 問題なのは、算数や数学が現実離れをしてしまったこと。
 それによって算数や数学嫌いにしてしまっている。
 数学は、日用の役に立たないなんて誰が教えたのであろう。
 更に事態を深刻にしているのは、教える側の人間が、自分達が、子供達を算数嫌い、数学嫌いにしてしまっているという事実を認めないことである。

 算数は、人々の生活の中にこそ息づいている。
 算数は現実なのである。

 数学や算数がなぜ、ここまで発達をしたのか。
 それは、元来、算数や数学マニアみたいに、算数や数学を楽しむ人間が多くいたからである。
 算数や数学は、パズルやトランプ、賭け事といった遊びの一種でもあったのである。
 又、算数や数学は実用でもあった。
 数学や算数は、魔法でもあり、信仰の対象でもあった。
 だからこそ、数学は、発達した。
 それなのに、方程式の解き方や公式の暗記ばかりをさせたら、数学も算数も味気ないものになってしまう。
 数学や算数の持つ面白味や楽しさが失われてしまうからである。
 数学や算数から遊びがなくなってしまう。
 数学や算数は面白くて楽しいものなのである。

 数学は、生活である。

 数学は、学問の入口にある。

 数学は、歴史である。
 数学は、論理である。
 数学は、科学である。
 数学は、哲学である。

 数学は、成り立ちが重要なのである。
 故に、数学の基礎を習得するためには、数学の歴史は不可欠である。
 なぜ、数の概念が成り立ったのか、それが理解が理解できなければ数学の本質は理解できない。

 数学は、計算技術だけで成り立っているわけではない。
 数学は、方程式を操作したり、計算をして一定の解答を得ることが目的なのではない。
 それは、どちらかと言えば副次的な問題である。
 大切なのは、物事を論理的に組み立てられるようになることである。

 そして、数学で大切なのは閃きであり、センスである。
 単に公式を暗記したり、複雑な方程式を解くことばかりに目を向ければ、数学的なセンスは養われない。
 なぜならは、数学者は、数学の持つ美しさに引かれるのであり、数学の美しさは、単純明快さにあるからである。

数学の学び方


 私なりの数学の勉強法を述べたいと思います。
 自分は、中学、高校と数学が見えなくなった時期があります。
 そのお陰で、やってはならない勉強方法をよく知っています。
 逆に、どうすればいいのか。それは学校を卒業し、自分の学生時代を振り返った時、悟りました。

 まず第一に言えるのは、数学を難しいものだと考え違いしていたことです。
 つまり、複雑に考えすぎていたという事です。
 数学ほど、ある意味で単純なものはありません。
 なぜならば、基本は一対一だからです。
 又、数学は論理です。
 数学は、一つ一つの式を一つ一つ積み重ねていけば、必ず、一つの結論にいたると言う事が前提となっています。だからこそ、試験問題が作りやすいし、試験をしやすい。
 その点を誤解すると数学はやたらと複雑怪奇で、難しい学問になります。
 むろん、数学も高度になれば、必ずしも、一定の正解があるとは限りません。
 ただ、中学、高校のレベルでは、そこまでには至りません。学校で習う、数学は、いかに自分の頭をシンプルにするかが鍵を握っています。
 中学、高校レベルでは、1+1は2でいいのです。
 ですから、先ず教科書を読むことを進めます。出来れば、二度、三度読む返すことです。
 数学の教科書ほど退屈な本はありません。これは、私見でありますが・・・。
 自分、大学は物理課に在籍していたので、中には、高等数学の本を読んでいると気が落ち着くのだという仲間が何人かいましたが、これまで付き合ってきた人達の中では、こういう連中は極めて稀です。
 物理を学ぶ人間でも、教科書を読み通すのは、至難な技です。しかし、あの退屈な本を五度、六度と読み通せれば、少なくとも、専門家になれます。なぜならば、物理も数学も論理だからです。一定の前提に立って、後は、一定の規則に基づいて論理を展開していけば、一つのゴールに到達する。それが科学です。又、文学と違うところです。
 ですから、基本的に教科書を読み通すことが前提となります。
 解らなければ、解るまで読む。
 ユークリッドが学問に王道なしと言ったそうですが、数学の先生らしい言い方だと思います。物理や数学というのは、ある意味で不器用な学問です。
 文学的な飛躍が許されない。ある意味で、一途に一つ一つの命題を積み重ねて論証をしていく必要があるのです。
 ですから、数学は、自分との戦いです。
 一度、読んだくらいでは解らない。解らないと言う意味には、いろいろあります。
 難しくて解らないと言う意味もありますが、数学には、簡単すぎて解らない、単純すぎて解らないと言うこともあるので厄介なのです。
 そして、1行1行、丹念に筋を負っていかなければならないと言う意味で解らないと言うこともあります。それは、集中力や根気が続かなくなるからです。
 だから数学は、自分との戦いなのです。

 それから、数学の勉強で大切なのは、ノートを綺麗に書くという事です。
 特に、計算です。
 数学では、ノートの付け方が大切になります。
 大体、計算の苦手な人は、ノートが整理されていない。
 行や列が整頓されていない。数式が行や列をはみ出してあっちこっちに書かれている。変なところに書き込むが合ったり、消し忘れた記号が書いてあったりします。これでは頭の中が整理できません。
 数学、特に、計算は、位置が重要になります。位置を揃えることで計算の多くは、片付きます。
 整理整頓が下手な人は、計算が苦手だとも言えます。数学屋というのは、結構几帳面な人が多いのです。この辺が物理屋と違うところです。
 物理をやる人は、細かいことにかまっていられないと言うところがあります。なにせ、論理を現実に嵌め込まなければならないのですから、それを数学屋が後で整える。そんな分業がなんとなく出来上がっているものです。
 いずれにしても、数学を学ぶときは、整理整頓、辻褄が合うようにノートを綺麗に書くことです。

 それから、問題を最後まで書き通す。
 意外と数学というのは、最後まで解かない人が多い。嗚呼解ったと思うと先へ進んでしまう。あるいは途中の過程を省略してしまう。ところが数学というのは、論理です。つまり、途中の筋道、過程が重要になる。根気よく、筋道を追っていくのが数学の近道なのです。
 近道や寄り道をしようとすると数学は途端に解らなくなる。複雑になってしまう。と言うよりも、複雑にしてしまうのですね。
 だから、数学は、最後まで解く癖を付ける。ちょっとやって嗚呼解らないと思うと次の問題にかかる。そして、次の問題も少しやると解らなくなって前の問題に戻る。そうしている内にすっかり道に迷ってパニックになり、いつの間にか時間がなくなっている。それが最悪のパターンです。
 解らなくなったら答を見て良い。ただし、解らなかった問題は、少なくとも答を三回写す。そして、答を伏せてもう一度、問題を解いてみる。それでも間違っていたら、もう一度、答を書き写す。
 極端な話し、教科書や答を書き写すことから始めてもいい。つまり、ノートを作るのである。ノートというのは、自分で自分の教科書を作ることである。先ず、問題を書き。その下に答を書き写す。そして、答を隠せる様にして最後まで答が掛けるようになるまで何度でも問題を解く。問題を解いた数を競うのではなく。少なくてもいいから、最後までキチンと問題が解けるようにする。なぜならば、数学は論理なのです。

 解らなくなったら、解らなくなったところまで戻ってやり直しする。
 間違ったら、間違った箇所に戻ってやり直す。
 解らなくなったら、解らなくなったところに戻れるようにする。
 間違ったら、間違った箇所に戻れるようにする。
 その為にも、綺麗に書く。
 又、一対一の原則を守る。

 それから、図形を大切にする。
 数学というとどうしても方程式を思い浮かべがちだが、数学の原点は幾何にあることを忘れてはならない。
 数学の基本を学ぶときは、歴史と幾何を大切にすることである。
 数学の歴史を大事にするというのは、数学は筋道だからである。

 ここまで言うとやってはならない勉強方法が解ると思う。
 教科書も読まずに、いきなり、難しい問題を解こうとする。
 教科書の問題を最後まで解かずに解ったつもりになる。
 何でも生半可の理解で、解ったつもりになって先に進もうとする。
解らなくなったら、解らなくなったところまで戻って勉強しようとせず、小手先の思いつきで先へ進もうとする。
 ひたすらに問題の数をこなそうとする。
 練習テストばかりして、解けない問題を放置し、時間に囚われる。
 簡単な問題を馬鹿にして、難しい問題ばかりを解こうとする。
 これらの勉強方法は百害あって一利なしである。
 テストでも問題をよく読まない。
 読んでも、途中まで読んで、解ったつもりになって解答を書き始める。


 数学は、論理でありクイズや謎々ではない。
 数学は、一歩一歩、一行一行、根気よく命題や、式を積み重ねていくことなのである。
 数学というのは、少なくてもいいから、基本的な問題を最後まで解けるようになることなのである。丹念な繰り返しが大切なのである。

 数学というのは、旅みたいなものなのである。ちゃんとした地図があって筋道を通せば必ず目的地に行ける。その核心が数学を学ぶ者に勇気を与えるのである。だからユークリッドは、学問に王道なしと言ったのである。
 逆に言うと道筋も地図も解らずに闇雲にやっても目的地にはいつまでたっても到達できない。
 数学で大切なのは素直な気持ちである。数学では、素直さ単純さが重要なのである。

 数学の専門家は、一種独特の美学を持っています。それは、単純明快、簡潔で無駄かない。それでいて普遍性があるもの、そして、形です。それは数学の本質から根ざしているのです。数学というのは、単純化を目指した学問なのです。



                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2010 4.28Keiichirou Koyano

教   育