教育ってなあに


なぜ、大学へ行かなければならないのか



なぜ、大学へ行かなければならないのだろう。

僕は、大学へ行きたければ行けばいいと思う。
でも、行きたくないのなら、行く必要はないと思う。
大切なのは、どんな一生を送りたいかだ。
一度社会へ出て、それから大学を目指しても遅くはない。

とりあえず大学へ行けというのは、親にとって一番簡単なことだ。
だって、とりあえずプロのサッカー選手になれとか。
とりあえず、プロの野球選手になれとか。
プロのゴルファーになれとか。
プロの将棋さしになれと言ったら、
言われた方はびっくりするからね。
かといって、大工や職人、料理人の修業をしろと言っても、
なかなか、カッコがつかない。
世間体もあるし、とりあえず世間並みの学校を出てという事になりやすい。
まあ、大工や、職人のどこが悪いと思うけれど。

そうなると、親の世間体のために学校に行くのかと悩んでしまう。
だけど、肝心の親からは、その答えは得られないよね。
だって、親だって解っていないんだから。

とりあえず、親にとって大学さえ出てくれれば、
一応、親の責任を果たした気になれる。
だから、その先のことはあまり考えていない。
大学さえ出ていれば何とかなると思い込んでいるんだよな。
解っていないよな。
それでも最近、大学を出ても働かない連中が出てきたから、
親も少し慌てだしている。
でも基本的には困っていないんだよな。
自分の子供だけは違うと根拠なく信じている。

親がなんと言おうと、
結局、自分の人生だからね。
自分で決めるしかない。

親が悪いと恨んでみても
不幸になるのは自分だからね。
自分で自立しなければ・・・。

大学出たところで、引き籠もりやニートになったのでは、世話はない。
昔の親は、とりあえず手に職を付けておけって。
丁稚や小僧に出したんだ。
大学なんて、親の反対を押し切っていたものさ。
だから、学費も生活費も自分で稼ぐしかなかった。
それが苦学生さ。
まあ、苦学生と言ったところで今の連中には解らないだろうけどね。
養老孟先生も言っていたけど、
当時は、大学へ行くと馬鹿になるって本当に思われていた。
つまりは、世間知らずの役立たずという意味さ。
それでも大学へ行く、そう言う連中が大学へ行くのさ。
伊達や酔狂で大学へいってんではない。

確かに考えてみれば、今の親は、不真面目だよ。
真剣に子供行く末なんて考えていない。
とにかく大学さえ出せば、親の責任は果たせると思っているんだから。
その点、昔の親の方が、頑固だったけど、責任感あったと思う。
どうやったら、一人前の人間とし生きていけるかって
真剣に考えていたもの。
世間体なんて気にせず。

昔の親は、先ず生きていくことを最優先にした。
そして、一人前の社会人になる事。
経済的に自立する事。
それから、所帯を持たせる事。
とにかく、他人、世間に迷惑をかけずに、
一人前に生きていけるようにすることを目的としていた。

親が、第一に考えるべき事は、子供の幸せであるべきはず。
その為には、子供が何を目指しているのかと
適性を知る事が先決なはず。
大学へ行くべきか、否かは、二の次だよ。
つまり、自分が何をやりたいか、
何になりたいかと言う事と、
何に向いているかという事さ。
その為に、大学へ行くことが必要だというなら、
何が何でも大学へ行けばいい。
先ず、親子で話し合う事だ。
意味も、目的もなく大学に行ったて、
何も期待する事はできない。
得るものは何もないよ。
虚しいだけ。

昔の親や教師は、子供達が、世の中や社会に出たときに困らないようにと
生きていく上で、必要な事、基本的な事を、絶え間なく躾てきた。
例えば、挨拶の仕方とか、口のきき方、礼儀作法を事ある毎に躾、教えてきた。
本来、それを教育と言っていたのである。
ところが、それを俗に言う闘争世代、
つまり、我々から我々の一世代上までの世代の人間が、
反体制、反権威の名分の本に総てを否定し、打ち壊してきたんだ。
だから、我々の世代以降の世代は、
世の中や社会の中で生きていく上に必要な素養を
習得できない内に世間に放り出される事になってしまった。
これからの社会は、
社会人として必須の素養を身につけていない人間を
前提として社会生活していかなければならないという事である。
俗に言う、ニートもそうである。
又、ストーカーも然り。
人との付き合い方が解らないんだ。
また、インターネット中毒、引き籠もり、苛め、
鬱、自殺、登校拒否、家庭内暴力、薬物中毒こういった事は、
人と人との関係が築けない事が原因なんだ。
大切なのは、人間の世の中で生きていくことさ。
生きる術を身につけること。
それは、単なる知識や技術ではない。
生活するため知恵でなくては役に立たない。

最近、確かに、職人の世界も生活が
厳しくなってきたけど、
手に職を付けておけば、いざという時、
潰しがきく。
手に職を付けたいなら早い方がいい。
手に職を付けておきさえすれば、
生活には困らない。

その点、大学というのは、今でも中途半端なんだよな。
大学出たから直ぐにプロになれるわけではないし、
かといって社会人としての素養を身につけさせてくれるところでもない。
大学の勉強って、プロになる為には、肝心なものが足りないし、
社会人になるためには、大切なもの、社会人としての常識が欠けている。
つまり、そういうものは、大学を出てから、
また、正規の授業以外で身につけるしかない。

だから、目的も目標も持たずに大学へ行くなんて馬鹿げている。
最低だよ。
自分が何になるか、一生の仕事として何をするのかを決めるのは、
大学へ行く前に決めないと、大学を出てからでは遅すぎる。
とりあえず、大学に行ってからなんて甘い、甘い。
大学に行くのを遅らせてもハッキリさせないと。

世間に出てから、改めて大学と言うところを見直すと
学生時代とは違う見方ができる。
学生時代ってゆとりないんだよな。
とにかく、試験ができないとこの世の終わりのように思える。

何を焦っているのだろう。
何も焦ることはない。
先ず自分がどういう生き方をするかを決めてから大学へ行っても遅くない。

自分が何になりたいかもハッキリしないまま大学へ行ってどうするの。
だから、引き籠もりになるか、ニートになるしかないじゃない。
だってどうしていいか解らないまま、大学へ行って、
遊び暮らしてそのまま卒業まで来るんだから。
仕事なんて決められるわけはない。
とりあえず一番肝心な事を決めずに先送りするしかない。
そして、今度は、定年退職の時、俺人生何だったと嘆くの。
馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。

大学院へ行ったとしても
今の大学院は、出来損ないの家元制度みたいなもの。
徹底的なヒエラルヒーが出来上がっていて、
教授の学説どころか、
気に入られなければ、出世はできない。
当然、自分の教官に批判的だったり、
意に反する論文は、発表のしようがない。
結局、助手のような仕事をして認められるまで我慢するしかない。
自由な学問なんて、夢のまた夢。

十五から二十歳って人生で一番大切というか、成長する時期なんだよね。
その時を無為に暮らすなんて。
学校に縛られることはないよ。
学校に縛られていたら、学校の序列で人生が決められてしまう。
学生時代の偏差値によって人間の価値まで決められたら、
自分の一生を決められたら
たまったらないよ。

経営の神様、松下幸之助だって、
シャープの早川徳次だって、
三洋電機の井植歳男だって、
牧野富太郎だって、
ブリヂストンの石橋正二郎、
ホンダの本多宗一郎だって、
トヨタの豊田佐吉だって、
山善の山本猛夫だって、
岩谷産業の岩谷直治だって
みんな大学なんて出ていない。

近代物理学の祖の一人、
ファラデーは、小学校しか出ていない。
発明王エジソンは、
小学校に入学したけれど、
先生とすぐに衝突して
家で勉強したのは有名な話。
近代数学の基礎を作ったガロアだって、
数学に興味を持ったのは、成績が悪かったからだし、
大学を二回落第した。
しかも、その試験官は、
ガロアの解いた答えが理解できなかったからと言われている。

今は、大学へ行かないなんて言うと、
親が反対するけれど。
昔は、大学なんて出ても一文の得にもならない。
世間知らずの馬鹿になるだけだと反対する親を
押し切って、大学へ行ったものだ。
本来それが大学というものだ。
なぜならば、大学は、学問をしに行くところだからである。
学問なんて、飯の種にはならない。

以前は、中卒高卒だって胸を張っていた。
誰もそれだけで馬鹿にしたりはしない。
それよりも、経営の神様と言って褒め称えた。
大学へ行けさえすればと言うのは、
逃げ口上さ。
中卒だから、高卒だからというのは、
自分に対する言い訳に過ぎない。
大切なのは、自分が望んだ生き方だよ。

自分の幸、不幸は、誰の性でもない。
親の性でも、
世の中の性でもない。
だって責任をとらされるのは自分だぜ。
自分の人生だよ。
自分で決めなければ、
人生の最初から自分がなければ、
いつまでたっても自分なんてできやしない。

大学を出てどうするの。どうしたいの。
先ずそれを考えてみよう。
結局大切なのは、自分が自分らしく生きることさ。
そう考えればいろんな生き方が、
いろんな可能性が見えてくるはずだよ。
陶芸だって、大工だっで、工芸だって 後継者難で苦しんでいるんだから。

何になりたいかがハッキリしなければ、
結局、大学へ出ても就職のあてが立てられない。

もう一つ忘れてはならない事に、サラリーマンには、定年退職があるという事。
その点、腕に技術のある人や自分で事業をしている人には、基本的には定年はない。
母親にも定年はない。
いくら一流大学出て、一流の会社や官庁に勤めても、定年が来たら、それまで。
定年してしまうは、ただの人になる。
再就職だってままならない。
それまでのキャリアや実績なんて何の役にも立たない。
定年というのは、大体、今は、六十。
昔の六十と違って今の六十歳はまだまだ現役と言っていい。
それが、世の中から必要とされないと言って放り出されてしまう。
それまで培った経験や知識が無駄になり、無為にすごすことになる。
それで鬱になったり、ひきこもりになる。
若年のひきこもりが社会問題になるが、高齢者のひきこもりは問題にもされない。
でも、高齢者の引きこもりの方が深刻なのである。
それを考えたら生涯現役でいられる職人や商売人も捨てたものではない。

だから、大学へ行くだけが能ではない。

結局、自分の生き様の問題である。
人生いかに生きるか。
自分がどんな生き方をしたいか、それに基づいて、まず、大学へ行きたいか。
行くとしたら、何を学びに行くのか。
それを自分で明らかにすることである。




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