教育について



現代教育の弊害


 現行教育最大の弊害は、主体性を喪失させることによって多くの人格破綻者と精神異常者を生み出していることである。
 個人主義をベースにした民主主義社会において、主体性を喪失することは、致命的なことである。個人主義社会では、自分の意志で、物事を判断していかなければ、生きていくことはできない。ところが、主体性を喪失する事は、自分ではなにも判断できなくなることを意味する。自分で決めなければならないのに、自分ではなにも決められない。このような状況は、大変なストレスを生み出す。解消のしようがないストレスは、やがて人格を破綻させ、精神に異常をきたす。

 子供達から、自信をなくさせ、自分の未来や可能性を信じられなくしてしまう。これは、子供達から、夢を奪い取ることを意味する。

 何よりも恐ろしい弊害は、教育によって、子供達が、何も信じられなくなることだ。信じることすら、できなくなることだ。自分の未来や自分可能性、そして、自分自身を、親を、教師を、上司や先輩を信じることができなくなることだ。

 子供は、興味のないことに対する勉強を強要された時、なぜ、勉強しなければならないのと、親や教師に質問してくるだろう。
 それに対し、親や教師はどう答えるだろう。仮に、自分の為よと答えたとする。そうすると、子供は、小首を傾げて、また聞くだろう。何が、自分のためになるのと。それに対しどう答えるのか。良い学校に行くためによと答えたとする。良い学校にはいると、何か自分のためになるの。このような親や教師の答えに、子供は、納得するだろうか。こうしているうちに子供は、親の嘘や教師の嘘に気がつく。

 役にも立たない、しかも、おもしろくもないことを、強要されることは苦痛である。その苦痛に耐えるために、子供は自分に言い聞かせるようになる。しかし、それでも納得がいかなくなると、勉強や学校を生理的に受け付けなくなる。頭が良くて、感受性の強い子ほど、この傾向は強くなる。

 信じてきた人達、信じようとしている人達が、このような耐え難い苦痛を強要する。そして、何も信じなくなる。

 自己が確立する以前にこのような仕打ちを受ければ、自己を喪失してしまう。つまりは、学問への情熱どころか、生きることに対するひたむきさをも、失ってしまう。そのことによって、自分の未来や自分自身を信じられなくしてしまう。

 有用性のない勉強は、害毒である。

 何を信じ、どう生きたらいいのかを教えず、しかも、民主主義社会で生きていくために最低限必要な知識や礼儀、技術も与えないまま、子供達を社会へ放り出しているのである。これは、泳げない者を、浮き輪も与えないで、大海原に放り出すのに匹敵する。それが現行の教育である。

 さらに、教育の現場も主体も分裂していて、その間には何の脈絡もない。子供達は、家庭と学校、一般社会、そして、仲間の社会、それぞれに、価値観、行動規範を使い分けなければならない。これでは、アイデンティティ(自己の同一性)は保てない。その結果が、自己の喪失である。自己を喪失すれば自律的意志を維持することはできない。行き着くところ、人格の破綻、人格の分裂である。

 問題は、現実の中にあっる。我々は生きていく上で、まず一番に、その問題を見つけだすことが、求められる。そして、答えは、本来、結果が出す。だとしたら、学問で大切なのは、問題を設定することであって、必ずしも答えを出すことではない。

 学校や子供達の生活の場は、非日常的な空間である。ところが、子供達にとって学校やテレビ、ゲームに取り囲まれた生活の場が現実なのである。この様に、子供達の生活している空間と現実との乖離は、子供達から、非日常的空間と現実と区別する正常な感覚を奪い取ってしまう。そして、非日常的な空間を現実と子供達に錯覚させ、現実を受け入れられなくしてしまう。その結果、子供は、現実から分離され、非現実的、非日常的世界へ隔離されてしまうのである。
 この様にして、学校やメディアは、無自覚に現実離れした人格を、作り出してしまっている。

 最も最低なのは、偏差値によって、すべても学童の序列を決めてしまっていることである。偏差値によって、全人格を、決めつけとしまうような事は、即刻やめることだ。評価すべき事も曖昧な上、評価する基準や、方法も確立していない。それでありながら、序列だけが、明確に決められてしまう。それによって、人生の進路まで決められてしまう。これは、非道だ。人倫の道にもとる。人間として許されざる事だ。何を、根拠にして、人に序列をつけるのか。偏差値主義こそ、最も忌むべき差別思想である。偏差値は、我が国の教育制度の非人間性を象徴している。

 試験の成績と偏差値だけで、評価される隔離された世界に閉じこめられ、子供達は、逃げ場を失っていく。当然そのはけ口は、仲間や弱者に向かっていく。しかも、その閉ざされた逃げ場のない社会、隔離された社会において、その社会にしか通用しない掟が、生じるのは、自然な成り行きである。非公式に生じた不文律、掟は、それなりに、権力装置を生み出す。イジメ、それも、表へ出ない、目立たないところでの、イジメが、蔓延するのは、当然の帰結である。

 子供達は、救いを求めている。子供達の一部は、家の閉じこもり、ただ、ひたすら救いを求める。しかし、救いはどこからも訪れない。なぜなら、救いは、その人内部、その人自身でしかないからである。しかも、外部との接触を拒みながら、誰かが助けにきてくれることを望んでいる。矛盾している。これでは、救いようがない。この様な救いようのない状況を、現行の教育は、生みだしているのだ。

 現実の経済の中から問題を見つけだし、自分たちが望む結果が出るように政策を打ち出す。その答えは、結果が出す。その答えを現実が、検証する。そして、またそれによって、問題化される。極端な話、答えは、結果が出すから、自分たちで出す必要がないというより、出せない場合すらある。答えは、あらかじめ用意されているわけではない。それが現実である。どこかの大学教授のように、自分の出した答えと結果が違ったから、結果が間違っているというのは、神をも恐れぬ所行である。学校教育にどっぷりと浸かった優等生が言いそうなことである。

 受験勉強期間というのは、人間の成長にとって大切な年代である。その大切な時間を無意味な勉強によって浪費される。それは、子供達には、耐えられない苦痛である。彼らは、耐えられない苦痛から回避するために、現実から逃避していく。そのとき、人格の崩壊は起こる。典型的なのは、人格の分裂や自己の喪失、逃避である。

 日本人の中に、国語辞典を、一冊、丸暗記している人間がどれほどいるだろうか。ところが、受験戦争の中では、英語が話せないのに、英語辞典をまるまる暗記している人間が何人もいるのだ。これは、狂気である。しかし、試験制度の中では、その異常さに疑念を持つことすら許されない。

  つまり、それを強要する側も、受け入れる側も、それを容認する側も全てが狂っているのである。冷静に考えれば、普通ではない。変態的な性が世の中に蔓延するのもわかる気がする。全てが異常なのだ。

 その証拠に、一般社会において、こんな事を強要したら、立派な犯罪である。また、それに耐えられる人間がいたら、その人自体、異常だしと思われる。お前は、変態か。しかし、それがまかり通る、それが、受験戦争である。

 戦争は、確かに異常だ。しかし、受験戦争は、その目的が、判然としない分、さらに異常である。

 現在教育のもう一つの弊害は、愛国心に対する教育がなされていない事によって日本人としての誇り、自尊心が育たない事である。また、愛国心を正面きっていえないために、教育の目的が明らかにできない事である。それは、国家目標をも見失わせ、国家としてのアイデンティティをも失わせてしまう。国家としてのアイデンティティを失えば、統一した国家、国家の独立を保つことができなくなる。その事は、国家体制の崩壊を意味するのである。

 我が国では、かつて、それぞれの地域が独自の教育をしてきた。その根本は、郷土愛である。郷土愛が生む出した地域独特の教育システムや学校は、個性的な多くの人材を生み出し、開国後の近代日本の発展を担ってきた。郷土愛の根底には、家族愛、そして、自己愛があり、郷土愛が発展したものが、愛国心だ。しかし、愛国心は、軍国主義、全体主義の中で変質し、ゆがめられた。真の愛国心は、生活の場である地域社会に根ざしながら、それを健全に発展させたものだ。本来の愛国心は、郷土愛に、そして、家族愛、自己愛に根ざしていなければならない。そして、それが民主主義的、個人主義的、愛国心なのである。

 健全な愛国心を教育の場で育てられないのは、地域社会、そして、そこに根付く伝統や文化を育めなくなる事を意味する。また、同時に、健全な民主主義の発展も期待できなくなる。それは、我が国の歴史と伝統、文化の破綻を招き、国家の統一と独立を保てなくする。それが意味することは、日本人が日本人としての誇りを失い、国家としての自決ができなくなる、すなわち、我が国が、他国の支配を許し、植民地になることを意味するのである。物理的な面ではともかく、精神的な、文化的な植民地にはすでになりかけている。

 愛国心を教育の場で育めないのは、現代教育最大の弊害である。


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