教育について


現代教育の問題点


 現代教育、最大の問題点は、必要性を、頭から否定してしまっていることだ。生きていくうえに、困らないように、必要なことを学ぶ。さらに、世のため、人のために、必要なことを、教えるなどと言うと、教育の現場から高笑いが、聞こえてきそうだ。
 そういうことは、戦前の封建的思想の名残であり、教育とは、抽象的で、高邁な理想を教えるところ。それで、ありながら、思想的には、中立で、無色でありたいという。
 なんと言う事はない。無目的で、無定見に子供達を教育しているにすぎない。

 教育において、思想的に無色であるという事はあり得ない。少なくとも、その国家が国家を成立させている国家理念を下敷きにしない限り、教育は、成立し得ない。なぜならば、教育は、その国家を構成する重要な要素、つまり、部分にすぎないからである。国家理念を教育に取り込むのは、独裁的、全体主義的、国家主義的などと言うのは、世迷い言にすぎない。独裁的、全体主義的、国家主義的教育をするのは、その国が、独裁的、全体主義的、国家主義的だからであって、教育思想の問題ではない。
 自由主義的な国家は、自由主義に基づいた教育をするのが当たり前なのだ。その当たり前なことがわかっていない。

 自由主義国家において、何が、必要なのか。我が国の教育は、まず、そこから始めなければならない。

 つまり、民主主義を国是としている我が国において生きていく上で、最低限、何を、知っていなければならないか、何が必要なのか、何を身につけておかなければならないか、それが教育を考えていくうえで最も重要なのである。また、民主主義国に生まれ、生きているという現実が、絶対的前提なのである。

 民主主義の理念を確立し、それを教育の中心に据えることが重要なのである。

 学問とは、生きていく上で、必要な事を学ぶからこそ意義がある。ところが、現在の我が国の教育では、その必要なことを教えることはいけないことだという。我が国では、このような転倒した考え方が横行している、これが現実であり、問題なのである。

 必要なものを教えずに、不必要なものを教える。それ故に、弊害ばかりが生じてくる。不必要なものなら教えない方がいい。つまり、不必要なことを教えるのは、教育ではない。そこまで言わなくても、学校で教える必要はないという事である。

 人と、どう付き合うべきか。人を好きになるとは、どう言うことか。子供を生み育てるためには、どんな準備をしておかなければならないのか。経済的に自立するには、何が、必要なのか。目上の者に対する口の利き方、挨拶の仕方、食事の仕方、こういったマナーは教える必要がない、そう考えている。パスポートの取り方、保険の入り方、クレジットカードの使い方、契約書の見方、お金の貯め方、投資の仕方、ローンの事、切符の買い方、車の運転の仕方、交通法規、こういうことは、学校では教えない。教える必要がないというより、教えてはならない、そう思いこんでいるようである。
 では、こういうことを、学校で教えなければ、どこで教えるのだろう。結果、子供達は、民主主義社会で、生きていくために、必要な知識や技術を習得しないで、不必要な知識や技術を、詰め込まれて社会に旅立つことになる。常識や良識がない、当然の帰結ではないか。
 これは、国家的な犯罪か、何らかの陰謀としか思えない。
 我々は、学校に何を期待しているのだろうか。

 その証拠に、社会に出て、即、役に立つことを勉強したいなら、専門学校へ行ってくれ、普通学校ではそういうことは教えないのだと言っているではないか。商業学校や、工業高校、農業高校を一段低く見ているではないか。

 成人式でのマナー、態度が悪い。当たり前なことだ。なぜなら、そんなことは誰も教えていないからだ。教わっていないことは、できなくて当たり前、なぜ、そう考えられないのか。礼儀知らずだと、責める前に、そういうふうに、育てたことを、反省しろ。形式やマナーを頭から否定した教育をしたどうなるか。当然の報いに過ぎない。子供を責めるのは、お門違いだ。むしろ、戦後教育の成果だと教育者は胸を張って言えばいい。意図的に子供達をそう育てたとしか、思えないからだ。
 教育現場の荒廃。そうしたのは、誰でもない教育の現場に携わったものだ。そのことを直視しない限り、教育現場の荒廃は改まらない。反省すべき者が被害者面をしているからだ。

 現代社会は、複雑であり、生きていくためには、いろいろな技術や知識を必要としている。そして、何よりも、どのような人生を送れば、幸せになれるのかを、学ぶ、必要がある。刹那的な快楽や、衝動的な欲望によって行動することが、どのような結果をもたらすのかを、知る必要がある。そこに、教育の必要性がある。

 人間として生きていく上に、何が、必要なのかが、重要なのである。そこに哲学があり、思想がある。だから、教育は、哲学であり、思想なのである。
 もし、教育に哲学や思想は必要ないという者がいたら、特に、教育者に、それは、欺瞞である。
 ところが、教育を論ずる多くの人は、教育の必要性というものに関心がないらしい。そもそも、必要性という概念そのものを、否定してしまっているのだから、教育の必要性など考える余地も、ないのかもしれない。

 現代教育の過ちの最たるものは、必要も、欲求もないものを教えつづけているということだ。つまりは、食べたくない時に、食べたくない物を食べさせていると言うことと同じである。そうなったら、食事は苦痛であり、拷問に近くなる。まともな人間には、耐えられない。しかし、その耐えられないことを、何年間も子供達に強要しているのだ。

 必要性から生じたものではないから、必要性を考えない。そのために、かえって教わらない方が、いいという結果になる。
 その典型が、語学教育である。
 学校で英語を教えるから、日本人は、発音がおかしくなる。これは、もう悲劇を通り越して喜劇である。滑稽ですらある。
 学校では、語学を、特に、義務教育では、教えないで欲しい。その方が日本人の語学力の向上には、どれほど有効か。ならば、今、行われている英語教育は、何なのだろう。その無意味さを一番知っているのは、生徒達なのだ。一体、子供達は、役に立たない英語を何年教え続けられるのだろう。これで、子供達の性格が、ひねくれないと思う方がおかしい。素直な子ほどおかしくなるであろう。
 耐えられることの方が、おかしいのだ。まともな人間なら耐えられない。

 耐えられなくなった子供は、勉強が嫌いになって、脱落し、落ちこぼれとなる。劣等生、不登校、不良、ろくでなし。そして、その多くが、一生浮かび上がれないようなハンディを背負い込むことになるのである。
 その多くが、まともな子なのだ。


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