権威主義

 どれ程、現行の教育制度に批判的な人でも、教育関係者には、成績至上主義が見え隠れする。アカデミックでない事は、認めようとはしない。結局、授業の在り方や試験問題の内容を問題にするのが関の山である。劣等生のいうことは聞かないで、勉強ができる人間の言う事を、無意識のうちに、高く評価している。学問そのものの価値を公正に見ているわけではない。やっぱり、学問は、権威なのである。
 結局、学力に教育改革の成果を求める。しかし、その学力の基準は曖昧である。

 企業内教育を教育とは、認めない。その理由は、アカデミックではないからである。しかし、企業内教育も教育の在り方の一つである。というよりも、教育の在り方から見るとより現実的であり、進化している。しかし、企業内教育には、権威がない。だから、教育関係者は、教育とは認めないのである。認めれば、自分達の権威が失われるからである。しかし、実質は、企業内教育の方がある。なぜならば、企業は、不必要な教育はしないからである。

 学校と言う処は、権威主義的な処である。というより、権威がないと保てない処だ。特に、その権威を学術的な処、近年では、科学的なところに求める傾向が強い。以前は、人格や宗教に求めていたが・・・。

 そして、教科書に書かれている事を唯一無二の絶対的真理として権威付ける。それを権威付けるのが、学会である。

 教えている事の根拠、教科書に書かれている事の根拠をアカデミズムに求める。しかし、アカデミックな事と真実とは、必ずしも相関関係にあるとは限らない事は、過去の歴史が物語っている。そして、その大本に存在するのが、各種学会である。
 しかも、元凶の学会は、学閥だなんだというより、家元制度みたいな処がある。

 学会と言うところは、自分の弟子に自説を説いて、公の場では、通説に従うところらしい。(田中弘著「会計学の座標軸」税務経理協会)これでは、学問は、成り立たない。だったら、学会などと、もっともらしいことを言わずに、家元と言った方が、もっともらしい。だから、学会から哲学など生まれようもないし、哲学者が育つはずがない。

 学校は、階級的社会である。学校には、民主主義は、存在しない。存在するとしたら、観念の上だけである。
 教室内では、先生が絶対的な権力を握っている。そして、教室を出ると先輩、年次が絶対的権威となる。さらに、同級生内では、成績によって明確な序列が決められる。その上で、言葉遣いや礼儀作法によって徹底的な差別が行われる。

 学年が絶対で、一学年違うと扱いに絶対的な差が生じる。実際は、一日しか違わない子も、学年が違ったり、一年の隔たりのある子も同等の扱いになったりする。この様な階層的な社会でありながら、自分達は、絶対に階級社会であることを認めない。公平公正だと言い張る。確かに、同じ学年の人間は、平等に扱っているかに見える。しかし、学校の社会の構造を見ると厳然とした差別がある。先生を頂点としたヒエラルキーが厳然として存在する。

 先生という商売。先生商売というのがある。先生商売というのは、何らかの権威を背負った商売である。
 先生商売というのは、人に頭を下げる必要ない商売である。先生というのは、学校だけに限ったことではない。ある種の権威を背負った商売は、大概が先生と呼ばれる商売である。例えば、医者、弁護士、宗教家、政治家、政治家は、選挙の時は、頭を下げるが、それ以外の時は、人に頭を下げる必要がない。だから、必然的に尊大になる。
 この世の中で、自らを権威付けることによって存在意義を作り出しているのが先生という商売である。権威を作るためには、いろいろな仕組みが必要である。それが資格制度であったり、認証制度であったり、式典だったりする。
 学校という社会では、権威付ける為に、資格制度が必要なのである。教科の根拠に権威付けをするために、学会が必要なのである。いわば、学会は、自分の地位や論文に箔をつけるために存在するである。
 この種の商売は、当然、権威を大切にする。権威といっても権威の源は、個人の実力ではない。権威を生み出し、維持する制度である。制度自体には、意味がないのである。意味がないから、もっともらしくその制度を飾り立てる。権威付けるのである。
 卒業年次だの、序列だの、成績だの、学歴だのと言ったものが、実体とは、かけ離れたところで、権威付けされ、権威主義者は、それを拠り所にして、自分の権力を構築する。だから、権威を必要以上に大切にする。それが権威主義である。
 権威に重きを置かない人間からすると滑稽である。だから、先生、先生といわれる程の馬鹿はなしとはやし立てるのである。
 権威付けは、組織的になされる。故に、権威的社会は、階層、階級を生み出すのである。この階級制度が、学校の中で生活する者達の行動規範を支配するようになる。そして、学校を卒業した後も長く影響を及ぼし続ける。

 学校教育の中で身につけるのは、勉強した事よりも、この様にして体に教え込まれたこと、刷り込まれた行動規範の方である。学校生活で、刷り込まれた、習慣や癖は、社会人になってもなかなか抜けないのである。その中で、最も、危険な習慣は、権威に従順になることである。意味もなくブランドを尊ぶような習性も、権威主義の現れである。

 権威が定着すると、実力のない者ほど、権威を頼りにする。逆に、実力のない者が、権威を持った時、権威主義社会は、堕落する。そして、堕落した権威主義社会は、権威によってしか、保てなくなっていく。権威を得るために、あらゆる不正がはびこるようになる。

 権威だから、進学率や学力、出席率が重要になる。進学率や学力、出席率には、さしたる根拠はない。ただ、権威を維持するために必要なのである。進学率や学力を測る基準に確たる根拠はない。あるのは、権威である。この様に、権威は、権威を呼び、階層が階層を作って、権威主義社会は、深化していく。それは、底なし沼みたいである。しかし、堕落した権威主義社会は、外から見ると虚構に過ぎない。
 虚構ではない、実際、実体のある生活や幸せを得たいのならば、実力で生きていきたいのならば、権威主義的社会を抜け出す以外にないのである。

 学校の成績は、悪くても、手先の器用な人間はいる。そう言う人間は、手先の器用さを生かす仕事に就けば、一流の人間になれる可能性がある。その証拠にスポーツ選手や芸能人からは、学歴に関係なく一流の人間が出ている。その芽を、一生懸命摘んでいるのが、学校である。学校というのは、成績以外の価値観を全否定するところに成り立っているからである。
 しかし、スポーツ選手や芸能人というのは、ごくかぎられた人間にしかチャンスがない。それに対して、職人や自営業は別である。幅広いチャンスがある。
 勉強が不得手な人間は、自分に適した道を選ばせるべきである。そして、社会も学校が生み出す権威に疑問を持つべきなのである。
 学校を出なければ、それも大学を出なければ、まともな人間になれないと、どこか思いこんではいないか。学問をしたくないのに、大学へ行く必要はない。学ぶことは、他にも沢山あるし、学ぼうと思えば、どこでも学べる。学会が与える権威が欲しくなければ、むしろ自由な学問ができる。
 自分が、学問にむいていないと思ったら、義務教育が終わったら、さっさと、学校生活に見切りをつけるべきだ。そして、自分が本当にやりたいことを探し出し、自分の意志で、その世界に飛び込んでいくことだ。

 勉強ができなくとも仲間思いで、面倒見よく。その上、仕事の良くできる奴はいくらでもいる。反面、学校の成績は、良いが、性格が悪くて、友達は、誰もいないし、世間知らずで、何もできないくせに気位ばかり高い。そんな奴も沢山いる。なのに、なぜ、学校の権威ばかりに頼るのか。なぜ、その人自身を見ようとしないのか。
 勉強はできないけど、人柄もよく、実力もある人間を無理矢理、受験勉強させて潰してしまったら、何のための教育か。もういい加減、辞めよう。学校を絶対視するのわ。有名大学なんて行く必要はない。学問を志すものだけが、大学を目指せばいい。

 以前、芸術大学の受験生で実技は、ずば抜けて良いのに、他の教科の成績が悪くて、合格できない者が居た。実技の先生は、惜しんだがどうにもならない。結局、芸術大学には、入学できなかったと聞く。ここまでいくと、悲劇を通り越して喜劇である。それが問題となること、それ自体が、現行の教育制度の本質を現している。生真面目に考えれば考えるほどアホらしくなる。教育が、教育本来の目的を見失っている証拠である。
 そんな学校に何の未練があるだろう。自分の力で、いい仕事をして、認めさせればいいのである。






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