学ぶと言う事

 不思議なことに、学校では、学ぶと言うことを教えない。だから、現代の日本人は、学ぶことが下手だ。学ぶと言うことと教わると言うことは違う。
 だから、今の学校は、学舎(まなびや)ではなく。教室なのである。

 学校では教わることが当たり前である。しかし、現実の社会は学ぶのが当たり前、つまり、自分が求めない限り、誰も、教えてくれないのである。

 学校とは、人を呼びだしておいて、何しに来たと言っているような所だ。義務教育であり、強制的に受けさせているのだから、勉強する目的を、ハッキリさせる必要がある。

 教育と言うからおかしいって、最近、思うようになってきた。本来、問うべきは、教育権というのではなくて、学習権なのではないか。
 教育というのは、あくまでも、受け身である。日本において、義務教育という思想が成立するのは、国が、いつからか、ハッキリ言えば、明治維新後に、国民を教育しなければならないと言う意志を持った時からだと思う。だから、教育って、元々、思想的なものです。戦後の日本というのは、これを曖昧にしてしまった。
 それまでは、どちらかというと学習権で、学ぶ権利だったと思います。だから、明治維新以前は、自分の先生というのを一生懸命自分で捜した。それに対し、教育というのは、選択権がほとんど与えられていない。学ぶというのは、主体的なものなのに対し、教育というのは、あくまでも受け身なのである。
 かつては、師を求めて、志ある者は、諸国を遍歴した。今は、教育は、全て、お仕着せ。学ぶ者の意志なんてまるで関係ない。教育というのは、明らかに国家の意思です。だったら、国家は、その意志をハッキリ国民に伝えるべきなのである。

 今の学校では、生徒は、王様である。勉強以外は、何もしなくて言い。ランドセル背負って、時間までに学校へ行けば後は何もしなくてもいい。だから、勉強もしない。授業中、居眠りをして帰っても、落第するわけではない。今の学校には、過程がない。決められた事をとりあえずこなしていれば、余程の事がない限り、進級できる。
 しかし、学ぶと言う事は、全てをやらなければならない。自分で教室を準備し、カリキュラムを決め、時間割をし、先生を捜し、教科書を用意し、後片付けもしなければならない。つまり、学ぶというのは、ただ、授業を受けるだけの事を指すのではない。授業そのものよりも、授業を受け、卒業するまでの過程にこそ、学ぶべき物が多くある。故に、かつて、何かを学ぶと言う事を、道と呼び、学ぶ事を、修行と呼んだのである。
 今の学校は、道でもなく。修行でもない。だから、大学へ入って自分で勉強しなければならなくなった時、何もできない。

 自分から学ぶと言う事がないから、出席さえしていけば、評価される。授業中、寝ていても、先生に叱られることはあったとしても、退学になることはない。皆勤賞などというわけの解らないしようが大手をふるう。とになく出席というか、出席率と試験の結果だけが、問題なのだ。マスターしたかどうかは問題ではない。
 学ぶと言う事は、あくまでも自己採点である。自分が納得がいかなければ、何回でも挑戦する。要するに、習い事ではなく。修行なのである。
 
教わるのではなく。学ぶ。幸せの形を教わるのではなく。学ぶ。幸せは、学ばなければなれない。学校は、教わることは教えても学ぶことは教えない。
 極端な話、今の学校は、学ぶことを否定すらする。いくら興味や好奇心を持っていても、学校が決めてこと以外は、学ぶことすらできない。

 たとえば、算数で教えられた以外の解法で問題を解くと、正しくても間違いとされると聞いた。これなど典型である。
 鶴亀算なら正解だが代数を使って解いたら間違いだというのが、学校で代数を教えていないと言う理由だとしたら、子供は、混乱する。
 教えられたこと以外は正解としないように躾ると、教えたこと以外できないようになってしまう。それは、自分で物を考えられない様にしてしまうことである。つまり、馬を鹿といわれても、正す事のできない、馬鹿にしてしまう。

 今の学校では、生徒は、下ばかり見て、先生の方を見ない。もっともその前に、先生が生徒を見ていない。
 問題は、先生が、生徒を見ていないことである。生徒から学ぼうとしていないことである。伴に、学ぶ姿勢がないことである。一方的に自分が高見にたち、子供達を見下している事なのである。

 学ぶと言うことは、一方通行なものではなく、双方向なものである。
 教えるということは、学ぶことである。学ぶと言う事は、教える事である。今の教育者は、教える事ばかりに気を取られ、学ぶことを忘れている。それでは、人を教える事はできない。ゆとり教育と言うが、ゆとりをなくしているのは、教える方であり、教わる側ではない。

 自分が変わることで、人を変えるそれが指導者である。だから、指導者は常に、自分を切磋琢磨し、自分を変え続けなければならない。自分を変えるためには、人の話を聞かなければならない。自分を変えることができなくなった時、人の話が聞けなくなった時、指導者は、身を引くことを考えなければならない。

 自分の孫のような人間の意見を聞いて、自分が変えられたら、それは、自分に対しても自分に意見した人間に対しても最大の教育である。

 教わることによって学び。教えることによって学ぶ。学ぶとはそう言うことだ。

 教わると言う姿勢ではなく、学ぼうとする姿勢が大切なのである。
 教わるから、学ぶに成長し、学ぶから、教えるに成長し、それから、また、学びながら教わり、教えながら学ぶ、教わりながら教えるに成長する。

 生きる目的と学習の目的つまり、方向性、ベクトルが一致していないのだ。だから、学習の目的を無理にこじつけなければならない。このような状況で過酷な学習をすれば性格がひねくれるのは当然の帰結であり、ひねくれないとしたら、最初から性格に問題がある場合が多い。
 要するに、学ぼうとする方向性と教えようとする方向性が違うのである。だから、学びようも、教えようもないのである。学びようも、教えもないところで、先生も生徒もアップアップしているのである。

 学校の先生は、何でも疑問を持てと教えるが、学校では、疑問を持つ事は許されない。疑問なんて一々持っていたら受験戦争を勝ち抜けない。一方で疑問を持てといいながら、一方で疑問を持てない環境におく。頭で教える事と行動すべき事が違う。それを、本音と建て前などといって正当化する。現実は、違うのよとか言って、ごまかす。これでは、観念的な価値基準と行動規範とが分離してしまう。
 また、学校では、多量の情報を与えながら、処理の仕方を教えない。情報や知識は、たくさん持っていても、本物は知らないと言う人間を作っている。それでは、何が真実で、何が偽物かの見分けがつかない。何を学んだらいいのか解らなくなる。何らかの情報を得たとしても、行動に結びつかなくなる。情報を得ても反応しないことは異常なことである。しかし、異常だとも、思わなくなる。その上で、自分達の言いなりにしようとする。これらは、一種の洗脳教育である。奴隷にするための教育である。

 こんな事をしていると、子供達の神経は、不安定になる。最後には、錯乱状態に陥り、心を閉ざしてしまう。自己防衛本能の為せる業である。二律背反、排中律を現実の社会に持ち出すべきではない。

 子供の精神は、危機に瀕しているのである。この危機を脱するためには、学ぶ力を発揮させる以外にない。




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