学ぶべき事


 当たり前だろ。解らないのが、当たり前だろ。だって、誰からも、教わっていないのだから。

 義務教育で、最初に学ぶべき事は、学問ではない。この国で人として生きていく為に必要な事を学ぶべきなのである。日本人としていかに生きるべきかを学ぶべきなのである。ところが、今の学校は、最初から学問を教えようとする。そこに、学ぼうとする者と教える側に意識のズレが生じる。そのズレは、年々拡がっていき、最終的には、どうにもならないほど拡がってしまう。

 学ぶべき事が、違うのである。学ぶべき事は、生きる為の術である。生き方を学ぶのである。学ぶべき事は、自分の周囲の世界との関わり合い方、関心の持ち方である。

 生きていく為に、学ぶべき事は沢山ある。しかし、それは、学校では学べない。なぜなら、それは、学術的な事柄ではないからである。教育関係者が嫌うところの、現実的な効用がある事柄であり、実用であり、実務的、実利的なものだからである。つまり、生活である。今の学校にかけているのは、生活感である。その証拠に、今の教育者は、生活者ではない。生活者というのは、一般社会に出て、普通の生活を送っているものである。世間の荒波にもまれてきた者である。今の教育者は、学校という枠組みに守られている。守られている癖に、その自覚すらない。
 学校というのは、あくまでも、特殊な社会であり、閉ざされた、孤立した社会である。学校にあるのは、特殊な人間関係である。それをそのまま、一般社会に、当てはめようとする事自体、無理がある。学校は、普通ではない。少なくともそれを自覚することが肝心なのである。

 人は、何につまずくのか。それは、大きな岩に躓くわけではない。それこそ、目に付かないような小さな石に躓くのである。
 人は、些細な事に行き詰まると予想もつかないような大胆な行動にでる事がある。人は、自分がつまらない事で失敗したことを知られたくない為に、さも重大なことにであるかの如き理由づをして、周囲も、自分も欺こうとする。
 人は、一度口に出すと自分が納まらなくなることがある。心にもないことを言ってしまい。その事で、周囲の人間が傷ついたり、影響を受けると言った言葉に従って行動するようになる。
 人は、目の前にある煩わしいことを回避しようとして最悪の決断をすることがある。それは、どう処理すればいいかが解らない事よりも、悪いと解っていっても結果がハッキリしている方を選択しようとする傾向があるからである。

 難しいことができないから、深刻なのではない。当たり前な事、教わってしまえば簡単な事ができないから、深刻なのである。挨拶なんて子供でもできる。子供でもできる事を、大人になってもできないから深刻なのである。しかも、それを、誰も、教えてくれない。学校なんてとんでもない。専門家が答えられないような、難しいことしか、教えない。だから、当然できなければならない事、知らなければならない事を、できない、知らない大人が増えるのである。そう言う大人も、ひょっとしたら、学校へ行かなければ、できるようになっていたのかも知れない。つまり、教えなければならないことの大部分は、常識的な事、誰でもできることでなければならない。かぎられた人間しか、理解できないようなことを、無理して教えても何もならない。それは、義務教育で教えるべき事ではない。それを試験するのは、相手を馬鹿にしたことだ。知らなければならない事を教えずに、知る必要がないこと、難解なことを教えて、それが理解できないと馬鹿にするのは、悪意でしかない。学校に悪意を持ち込んではならない。馬鹿にされた人間が怒るのは、反発するのは、逃げ出すのは、当たり前なのである。

 人は、一見些細で、つまらなく思える事。それでいて、それができなければ、社会と上手く関われない事。折り合いのつかない事。それが、上手く、こなせないから、解らないから困るのだ。深刻なのである。当たり前なことが、当たり前にできないから、当然、知っておくべき事を知らないから、教わりに来るのだ。
 車の運転を習いに来た人間に教えるのは、エンジンキーの所在とエンジンのかけ方。物理学ではない。異性とつきあいたい人間に教えるべき事は、口のきき方やマナーである。性知識ではない。

 性に関する情報は、氾濫している。しかし、何が正しくて、何が間違っているかの判断を、どう下せばいいか、誰も教えてくれない。酷い学校は、自分達が肝心な事を教えないでいて、今の子は、早熟だからといって、避妊の仕方だけ教えている。又は、男と女の関係抜きに性行為ばかりを教えている。理由は、男と女の関係や在り方を教える事は、性差別につながるという事である。しかし、男と女の性的関係は、否定できない。だから、避妊の仕方と、性行為だけを教える。これは、異常である。ただ、当事者だけが、異常であることに気がついていない。しかし、学校というのは、そう言うところである。現実感も生活感もない。
 異性と、口もきけない人間に、快楽や欲望ばかり植え付けてどうするのか。その結果、犯罪が起こっても、自己責任だと言って、教えた人間は、責任をとろうとしていない。秩序乱したと言えば、秩序そのものを否定しているのだから、話にならない。

 教えるべきは、男と女の在り方。その前に、どう、話しかければいいかである。ハッキリ言ってたわいない話。学ぶべき事は、愛し方であり、相手を、思いやる心。だから、大切であり、それがいつまでもできないと深刻になるのである。

 車の運転に物理学は必要ない。よく、科学が発達した世の中だから、最低限の科学の知識や技術をしておくべきだという。しかし、それも程度問題である。効用もないのに、やたらに高度な知識を詰め込むのは、闇雲に、ビタミン剤を飲ませるのに似ている。本来、必要な栄養というのは、通常の食事で摂取する方がいいに決まっている。その、食事に偏りがあったり、科学物質だらけだったら、まず、食生活を改善することが先決である。
 確かに、簡単な数学は、学ぶ必要がある。しかし、高等数学、微分積分を全ての子供が学ぶ必要があるだろうか。車の運転に熱力学や流体力学が必要であろうか。物理学者で、車の運転が下手な人間は、いくらでもいる。逆に、レーサーの全ての人間が流体力学に精通しているとは思えない。
 車を運転することを必要としている人間に教えるべき事は、車の操作の仕方である。交通法規である。物理学の法則ではない。いわんや、学としても意味のない、ただ意味もなく込み入った因数分解の解き方、試験問題を解く技術ではない。

 今の学校は、魚の種類や釣り竿のことは教えてくれても、魚のつり方は教えてくれない。釣り糸を垂らさなければ魚は釣れないし、プールに、釣り糸を垂らしても魚は釣れない。大切なのは、いかに行動するかである。いかに関わるかである。それが、学ぶべき事なのである。
 性教育をしたところで、異性との関わり合い方を教えなければ、犯罪を誘発するだけである。犯罪を誘発しておいて罰する事ばかりを議論するのは、無茶苦茶である。
 重要なのは、どうすれば、幸せになれるかである。結婚しても、愛し合っても、子供を育てても、所詮、男と女は、理解し合えないものだなどと教育したら、いったい、どうすれば、幸せになれるというのか。そんな無責任な教育はない。性別を越えてお互いを尊敬できる人間関係を教えてこそ、教育の意義がある。

 美食家は、必ずしも、料理が上手いとはかぎらない。では、学校は、料理の仕方を学ぶところなのか。それとも、美食家を育てるところなのか。考えれば、答えはも明らかである。

 コックは料理を作って客に食べてもらうのが仕事、自分が作った料理を食べてしまったら仕事にはならない。しかし、現代では、自分で食べてしまってその感想を言うことが仕事だと思っている料理人がたくさんいるようだ。
 学校教育の影響が見て取れる。つまり、答えをはじめから用意していたら、教育にはならないという事。緊張感なんて期待しようがない。また、偏差値だけで結論を出すのは、料理をしていないのと同じ。

 世間知らずの経済学者は、いくらでもいる。道徳のない、法学者や哲学者はいくらでもいる。そう言う人間は、法学や哲学を学べないだろうか。学としての法律や哲学は学べる。
 しかし、修行者としては失格である。現代の学問は、修行とは異質のものなのである。それが、以前の学問と現在の学問との違いである。ただ、人間形成を目的とする学校は、学問を教える事を主目的とした場所ではない。
 学校は、本来、修行の場なのである。学ぶべき事は、人間、いかに、生きるべきかである。

 網羅的に教えたところで、勉強の効用が試験にしか認められなければ、結局、試験の教科しか勉強しなくなる。ならば、総花的に何でもかんでも教えてしまえというのは、乱暴な話である。だから、といって試験の都合で、教育の在り方が決まってしまうのも考えがなさ過ぎる。

 学校で学ぶべき事は、学問ではない。生きる術である。社会との関わり方である。子供達が自然に関心を持つ事柄、興味を示す事柄こそが学ぶべき対象なのである。子供達の関心や好奇心、興味と無縁なところで、教育を組み立てること自体、教育本来の目的から逸脱してしまっている。それによって、社会や対象への関心を失ってしまったら、逆効果である。そうしたら、子供達は、学ぶべき事を見失ってしまう。
 教育は、人間だけがするものではない。野生動物の多くは、子供達を教育している。それは、生きていく為に必要な事の最小限のことを教えているのだ。そして、子供達は、自分の力で学び取っていくのだ。それが、本来の教育の姿である。

 結果的に、現代人は、成人に達しても、社会との関わり方が理解できない。理解できないどころか、関心すら持たない。だとしたら、社会との関わりを断ち、引き籠もるしかないではないか。彼等をそう言う風に追い込んでしまった、大人達、教師達が彼等を責めることができるであろうか。まともではない。まともではないのである。

 陸上競技手もないかぎり、運動するのは、走るのが、目的ではない。例えば野球するのは、野球を楽しみ事や肉体の鍛錬、また、プロの野球選手といったことが目的なのである。ところが、現行の教育は、走ることを目的にしているようなものである。

 学ぶべき事が、教えるべき事なのである。それは、必ずしも学問とは限らない。


学ぶということ
学ぶ喜び
働く喜び
教育は単純反復、繰り返し



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