おちこぼれ


 教育制度の最大の被害者である落ちこぼれの意見を、落ちこぼれだという理由で、退けるのは、矛盾している。逆に、最大受益者である高学歴の者しか教育改革に参加できないとしたら、教育改革の実があがるはずがない。

 私もおちこぼれの一人だ。
 私も、高校時代は、劣等生として虐げられ。二年も浪人して、やっと、日大の物理学科に入り。それも中退した。
 受験校だった高校で、理数系を選ぼうとしたら。担任に呼び出しを喰らって、おまえは、思い上がっている。自信過剰だとまで言われた。だから、俺は、言ったんだ。自信過剰で結構ではないか。学校は、自信をなくさせるところかって。それで担任も引き下がったが、苦労はさせられた。思えば、物理学を志したんだって、物理の試験で、クラスで最低の点を取ったからだ。お袋には、育て方を間違えたと泣かれもした。
 高三の時は、三学期は、学校へは全く行かなかった。大した意味はない。高三の三学期は、皆、学校に行かないよと、どこかで、聞いたのを馬鹿みたいに信じたからだ。でも端から、見たら、不登校のようなものかも知れない。
 引き籠もりの様な経験もした。大学に入り、いろんな事をしながら、どんどん仲間も増えていった。そうなるとどんどんと、止めどもなく、話が大きくなっていく。かといって、今一つ、確たる確信も持てない。下火になったとはいえ学園紛争の余塵もあった。そう言う中で、先が見えなくなり、どうしていいか解らなくなった時、一人で閉じこもって勉強をした。今で言う、引きこもりのはしりだ。
 やっとの事で、そういった泥沼からはい上がってきた。その時の想い、経験が、役に立っている。役に立ってはいるが、それは、結果論である。多分に運が良かったんだと思う。自慢にもならない。ただ、こういう過程で、多くの人間が挫折し、潰されていくであろう事は、容易に察しがつく。
 それは、経験した者でないと解らない。

 今の自分があるのは、物理学への情熱と友の死によってだ。死んだもにいい訳ができるかと叱咤しながら、ともすると優柔不断になりそうな自分を、めげそうになる自分を、叱咤してきた。そして、物理学というより、学問への情熱である。それがいつの間にか、志へと変化してきた。

 学問の面白さは、落ちこぼれたが、故に知った。日大の物理科は、おちこぼれながらも物理に対する情熱だけは、人一倍強い連中が集まってきた。大体、物理なんて好きでないとできない。
 本当の意味の学問とは、学を志す問いのは、学問そのものの面白みが解らないとできない。入学だけを目的とした、優等生には、無理な芸当である。
 学問は、泥縄ではできないのである。大学へ入ったら、おしまいである。それから、大学へ入る目的など捜しても無理である。志すのである。志せば、何年かかろうと、ひたすらに、求め続ければいい。それが、学問である。

 おちこぼれて何が悪い。おちこぼれたからこそ、学問の面白さが解ったのだ。落ちこぼれだからこそ、教育制度の矛盾が解るのだ。

 勉強が嫌いな癖に、青春の一番大切な時期を、何時間も勉強して、時間を無駄にする優等生に、学問の面白さなど解るはずがない。学問を志せば、必然的に疑問がわき、どうしても脇道にそれてしまう。ならば、脇道にそれたり、落第することを恐れては、学問の本質に目覚めることはできない。学問を究めるとは、それほど甘い世界ではない。
 落ちこぼれで何が悪い。あえて、おちこぼれてでも、人生いかに生きるべきかを考えざるをえない。その上で、逆境に耐えられる精神力を養おう。

 孤児やオチコボレを集めて事業を成功させたならば、志があるといえる。一流大学の人間を集めても、利益のみを追求する者が志しあると言えるだろうか。

 一番の教育改革は、オチコボレといわれた者達が、成功をし、幸せになることによって教育制度の理不尽さを身をもって証明することなのだ。そして、その時、黙っていないで、主張しよう。我々は、オチコボレではないと。




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