P 普通高校

 普通高校は、普通ではない。普通というのなら、商業高校や工業高校、農業高校だろう。今の普通高校をあえて言うならば、大学へ行くための予備校に過ぎない。なぜならば、普通高校では普通のことを教えていないからである。

 大学への進学率が、五十%近くなっている。それでも、大学への進学は、半数に過ぎない。元々、大多数の人間は、大学へ行かずに就職した。だから、仕事を覚えたり、社会に出る準備をするのが普通校の目的のはず。ところが、現在の普通高校は、それら一切合切を大学に任せて、進学のためにばかり専念する。ならば、進学高校、予備校と名前を改めればいい。

 大体、大学と言うところは、スペシャリストを育成するところである。ゼネラリストを育成するところではない。ゼネラリストを育成するのは、社会である。だから、大学を受験するにしても志望がハッキリしていなければ意味がない。それも、志望校ではなく。志望教科、学科である。大学を選ぶ基準は、どの大学に入れるかではなく。何を勉強したいか。どんな仕事、どんな生き方がしたいかである。だから、厳しい受験勉強にも耐えられる。そうでなければ、ある種のパラノイア偏執狂にでもならなければ、受験勉強などやっていられない。
 志望学科を絞り込もうとしたら、平均化、標準化は、逆行である。つまり、一般化、普通化ではなく、専門化、特殊化することを普通高校は、目的としなければならない。とすると、普通という言葉は、適切ではない。

 普通高校というなら、普通に生きていける事を教えるべきだ。大学に進学させることを目的としているのならば、そのことを明記すべきだ。どっちつかずだから、中途半端な教育しかできない。中途半端を普通というならば、中途半端な世の中を是認していることになる。
 普通でない高校を普通というのは、普通なことを普通に教えていない証拠。

 人の役に立つと言う事が、何でもない当たり前な仕事を意味しているのではなくなってしまった。普通であること、当たり前であることが、普通でも、当たり前でも、なくなってしまった。誰も、その事に、気がついていない。普通の子が当たり前に芸能界を目指す。その辺の普通のOLが、高価なブランドもので身を包む。それが、普通なのであろうか。

 何でもない仕事に喜びを見いだす事、それが普通なのである。世界記録を作らなければ、納得できないというのは、普通の人間が考える事ではない。なぜなら、それは、当たり前なことではないからである。料理人として、ひとかどの仕事ができるようになりたい。それが、普通である。なぜなら、何億人に一人なんて仕事は、ざらにはできないからである。

 普通な事を普通と思えなくなった子供達。普通の生活や普通の仕事に喜びを見いだせなくなってしまった子供達。何か、人より、変わった事、特別な事にしか価値が見いだせなくなってしまった人々。教育が、普通の事を普通に教えないで、特別な事を普通だと教えている事に原因がある。教育が、普通でなくなっているのである。

 良妻賢母が悪いという。なぜだろう。女性の権利と、良妻賢母とは、関係ない。良妻賢母であることが、女性の権利を侵害するわけではない。良妻賢母という言葉が専業主婦結びつくとしても、良妻賢母を否定する事には成らない。なぜならば、良妻賢母と専業主婦とは、イコールではないからである。専業主婦でなくても良妻賢母にはなれる。要するに、良妻賢母というのは、普通の目標に過ぎない。

 結局、何が、言いたいのか。家庭も、仕事も、国家も、人間を縛り付ける、だから、徹底的に破壊してしまえと言う事である。しかし、家庭も、仕事も、国家も、幸せの根源、その有り様一つで、幸せにも、不幸にもなる。それは、良妻賢母にも、プロにもなれなかった者のヒガミである。人を妬み、僻んでいるうちはいいが、それを教育の場に持ち込むのは、お門違いである。

 学校というのは、自分の人生の延長線上になければならない。上級学校に進級すればするほど、社会で生きていく自信がなくなるのでは、何のために、学校に行っているのか解らない。学校へ行けば、行くほど、夢がなくなってしまうのでは意味がない。今、学校を出ても、就職をしない若者達が増えている。また、学業の途中で、就学をしなくなってしまう若者も増えている。彼等をニートと呼ぶらしい。その原因は、ハッキリしないらしい。しかし、私に言わせれば、社会に出るために、必要な事を何一つ教えずに、いきなり、社会に放り出すことの方が無謀なのである。

 今の普通高校は、サラリーマン、給与所得者育成の仕組みになってしまった。その為に、職人や自営業者、農林漁業の従事者を根絶やしにする仕組みである。職人や自営業者、農林漁業従事者とは、何か、彼等は、収入を大組織に依存せず。経済的に自立している者達を指す。結局、大企業や官公庁に勤めている者達は、組織に依存しなければ生きていけないのである。そう言った、依存者を作り出す仕組みが、進学制度なのである。
 普通高校の目的は、大学への入学である。つまり、入学することが目的と化している。大学は学問をする場所である。学問には、目的がある。しかし、入学を目的としている普通高校では、入学後のことは、教えてくれない。また、生徒がなにを望んで、何になりたいかは、二の次である。とにかく、一番重要なのは、偏差値であり、その生徒の偏差値で合格できる大学が問題なのである。自分が、何をしたらいいかは、大学へ入学した後で考えればいいと教えている。そんな馬鹿な、そんな非常識な話はない。だから、大学へ入学したとたん、自分が何を勉強して良いのか解らなくなる。何を志望しているのか、解らなくなる。そうして、後は、卒業することが目的と化す。同じように、就職を決めてようとする。そこで、はたと困る。実際に、自分は、どうしたいのか。自分は、何がしたいのか。自分が、どんな仕事をしたいのかを、全然、考えてきていなかった事にその時、気がつくのだ。それでも、妥協できる者は、就職をしていく。しかし、妥協できない者は、就職をしないで、悩み続けることになるのである。そして、そのように追い込んでしまった周囲の人間は、あたかも、無能力者の様に扱うのである。
 ここで、ハッキリさせよう。中学や高校時代こそ、人生いかに生きるべきかをしっかり考えさせ。自分の人生に責任が持てるようになるように指導すべきなのだ。

 学に志す事と、学校に行くことは、同義ではない。もし、自分が、本当に学問をしたいと思うならば、先ず、経済的に自立することを考える事だ。なぜならば、学問というのは、古来、学問だけでは、身を立てて、つまりは、生活していく事ができないとされてきたからである。今日、学問は、一種の職業となり、学問自体で、生活する事ができるようになった。しかし、それでも尚、自己の理論の不偏不党性を保とうとするならば、自分が生きていく基盤を他に求めなければならない。その為には、手に職を付けることである。生活観のない教育というのは、普通ではない。なぜならば、教育というのは、生活のためにするものだからである。生活や現実から遊離した教育は、教育の実体を失っている。
 だからこそ、工業高校や商業高校、農業高校こそが、普通なのである。

 普通高校は、普通ではないのだ。特に進学高校は、普通ではない。なぜって進学のみを目的とした高校って普通では、ないだろう。どこが普通だって言うの。

 プロスポーツや芸能界は、ある意味で特殊な社会である。その特殊な社会であるプロスポーツや芸能界が、学校教育に関しては、一番正常、ノーマルな反応をしている。大学を卒業してから、ゼロからはじめて、プロスポーツの選手になろうというのは、絶対になれないとは思わないが、あまり、まともな考え方ではない。学問の世界では、それがまともに受け取られている。まあ、今の学問の世界は、その程度の世界だと自分達で告白しているのかも知れないが、一つのことを極めようとしたら、余程の覚悟がいる。それが、職人や自営業者、主婦でも、普通の人間でも、以前は、当たり前であった。ところが今は、違う。だから、総アマチア化してしまっている。普通高校というのは、プロを育成する学校ではない。十五歳で成人をしていた時代では、プロを目指さないこと自体、普通ではない。一人前の大人ではない。つまり、プロでも、大人でもない人間を育成しようと言うのが、現行の教育体制である。根本がまともとは、思えない。

 皆が、同じ方向に走ること自体、普通ではない。異常なのである。大体それでは、救いがない。皆と、同じ方向を望まなければ、社会からつまはじきされてしまうからである。
 元々、庶民の教育は、手に職を付けることを目的としていた。三刃という言葉がある。つまり、刃物に関係した職業に就けば、生活に困ることはないと言う意味である。一つは、仕立屋、一つは、料理人、もう一つは、床屋である。この意味するところは、手に職を着けとおけば、どこに行っても生きていくことができると言う事である。普通高校は、この手に職を付けるために一番いい時期を生きていく為には、役に立たない、必要のない事に、勢力を使わせてしまう。それでも、大学に行って学問をするのが目的ならば、それなりの意義がある。しかし、今日の普通高校は、大学に合格させることのみを目的としている。肝心なのは、大学へ入ってからだというのに、大学へ入った後の事を、何も、考えていない。入ってから考えればいいと思っている。極端な話、医学部へ入ってから、自分は、医者にむいていない、実は、医者には、成りたくなかったんだと気がついても手遅れである。それで、まともな医療が、できるはずがない。志は、大学に入る前に立てるべきものである。入ってから志を持とうとしても、とってつけたものになってしまう。それは、偽である。志の対極にあるものである。結局、入学したとたん、目の前から目標が消えてしまうのである。だから、大多数の生徒が、受験勉強で燃え尽きてしまって、抜け殻のようになってしまう。
 しかも、立ち止まることも、脇道にそれることも許されない。大学に進学しない者を差別している。学歴社会である。専門高校へ行くのは、敗残者である。こうなると、救いがない。職人の道や自営業者の道は閉ざされてしまう。学問の世界で成功した者だけが、偉いという錯覚をしてしまう。勉強ができることと人格は、無関係であるのに。逆に、象牙の塔、学問の世界に閉じこもった人間は、世間知らずが多いのである。
 一つの道を究めた者は、それだけでも人格者である。学校をまともに出ているかどうかは、問題ではない。もし、一つの道を究めたいと思ったら、その道の達人に早い時期に弟子入りをすることである。それが、まっとうな考え方である。職人の道は、厳しく。若いうちから修行をしなければ、到達できない境地がある。一流と言われる者は、若い頃から、厳しい修行に鍛え抜かれている。耐え抜いている。その世界を全て否定している。だから、技能や技術が今、絶えようとしている。勉強ができることだけが、全てだという、思い込みによって。
 皆が、同じ方向に走ることが、普通ではないのである。救いがないのである。
 普通高校は、普通ではない。世の中の本道とは、かけ離れていると自覚し、自分が、本当に生きていく為に、必要な者は、何かを見極めた時、普通高校は、本来の働きを取り戻すことができる。




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